植田 辰哉(うえた たつや、1964年7月25日 - )は、日本の元バレーボール選手(元全日本主将)、指導者(元バレーボール全日本男子代表監督)。2013年4月からは日本バレーボール協会育成強化委員会ディレクターと母校・大阪商業大学の特任教授を務めている。香川県東かがわ市(旧大川郡白鳥町)出身。東かがわ市ふるさと大使。身長196cm。大阪商業大学附属高等学校(現・大阪商業大学高等学校)を経て大阪商業大学を卒業後1987年、新日鐵(現・堺ブレイザーズ)に入る。センタープレイヤーとして日本バレーボールリーグ・ベスト6賞に5年連続選出された。全日本男子では、1992年のバルセロナオリンピックにキャプテンとして出場するなど活躍した。その後、指導者として新日鉄ブレイザーズの監督、全日本ジュニア男子チームの監督などを歴任した。2004年のOQT敗退後に前任の田中幹保監督以下スタッフが総辞職し、植田は全日本男子暫定監督に就任しその年のワールドリーグ予選ラウンドの指揮を執った。立木正夫(当時のJVA会長で強化事業本部長)によると、植田は選任にあたり自薦他薦を合わせて10名集まった中で国内から志願した唯一人の候補者だったという。その翌年の2005年に植田は代表監督を要請され、正式に就任した。植田は最初のミーティングで選手に「全日本男子では寝癖のついたような頭や茶髪は禁止(ヒゲも)」だと、自身の方針を伝えた。当初は「練習中に水を飲んではならない」もあったという。この年のアジア選手権で5大会10年ぶりの優勝を果たした。2006年の世界選手権で1982年の4位以来となる8位入賞を果たし、ドーハアジア大会で5位にもなった。2007年、Vリーグ40回大会記念特別表彰においてVリーグ栄誉賞を受賞し、アジア選手権でも準優勝した。2008年6月7日、監督として采配を振った北京オリンピックバレーボール世界最終予選に於いてアジア1位の成績で自身が選手として出場した1992年のバルセロナ五輪以来16年ぶりの五輪出場権を獲得したが、8月のオリンピック本戦では1次リーグで敗退した。北京五輪後、日本バレーボール協会は代表監督の公募を行った。ジュリオ・ベラスコ(現・イラン男子代表の監督)ら複数の応募があったが、最終的に植田監督の続投が決定した。2009年、アジア選手権で2大会ぶりの優勝を果たす。グランドチャンピオンズカップで、主要国際大会においては32年ぶりとなる銅メダルを獲得した。2010年、世界選手権で2次リーグで敗退したものの、広州アジア大会で4大会16年ぶりの金メダルを獲得する。2012年6月、ロンドンオリンピック世界最終予選は全体4位(アジア3位)におわり2大会連続の五輪出場はならなかった。大会終了後、植田は日本バレーボール協会に対して辞任を申し出たが、協会からは任期が切れる2013年3月までは現場の強化に携わるよう要請されたため、引き続き全日本チームでの任にあたった(第3回アジアカップでチームマネージャーなど)。なお、2012年9月の2013年バレーボール・ワールドリーグ予選は諸隈直樹が監督代行を務めた。植田の母校の大阪商業大学は2013年3月6日、植田を4月1日から特任教授にすることを発表した。2013年、第8回東アジア地区男子バレー選手権(ジュニア)でチームマネージャーを務めた。2013年11月に東かがわ市合併10周年を機に創設された「ふるさと大使」に就任した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。