トウケイニセイは1990年代初期から中期にかけて岩手競馬で活躍した競走馬である。2000年以前の馬齢は旧表記を用いる。父・トウケイホープは南関東・岩手において東京大賞典、報知オールスターカップ、関東盃、東北サラブレッド大賞典、桐花賞、シアンモア記念などで53戦22勝と活躍したが、血統的に二流であったこと、また競走実績が地方競馬のみであったため、種牡馬となった際に繁殖牝馬がなかなか集まらず、そのためオーナーである小野寺喜久男が馬産地を駆け回って交配相手を探し回り、やっとの思いで5頭の交配相手を集めた。その際、小野寺は「自分も辛い、でも一番辛いのはホープなんだ」と周囲に語っている。しかも、トウケイホープは初年度の交配を済ませたあと、心臓麻痺で急死してしまった。そのなかで4頭の産駒が生まれ、そのうち唯一の牡馬がトウケイニセイであった。母・エースツバキは生産者の田中堅一がある牧場から購入した繁殖牝馬である。この牧場が多くの繁殖牝馬を整理するためにまとめて売りに出していた際、田中の牧場の跡取りであった田中哲実が駆けつけたときには2頭しか残っておらず、どちらも見栄えの冴えない牝馬であったが、せっかく訪れたのに買わないのも申し訳なく思った田中はエースツバキを選んで購入したものである。エースツバキは持込馬ながら中央競馬1勝止まりであったが、購入後に産駒のトウケイフリート、イイオカスワローが地方競馬の重賞競走で優勝、トウケイニセイを含め重賞優勝馬3頭の母となった。トウケイニセイはデビュー戦で勝利したものの、その後左前浅屈腱炎で1年半の休養を余儀なくされ、復帰後も常に脚の状態を見ながらだましだましレースに出走する状態が続いた。しかしそんな状態で勝ち続け、いつしかデビュー以来の連勝が注目されるようになり、ハルサンヒコーに続く2着に敗れるまでの連勝は18まで伸びていた。これは後にチアズファンシーが19連勝を記録して上回るまでサラブレッド連勝の日本記録であった(競馬の日本一の一覧も参照)。1993年、7歳になったトウケイニセイは初めて重賞(みちのく大賞典)に登場した。当時の岩手競馬は「岩手の怪物」と呼ばれ、南関東や中央への遠征経験もあったスイフトセイダイと、そのライバルでトウケイニセイの同厩舎の先輩馬・グレートホープの2頭による「SG時代」が数年続いていたが、明け5歳のモリユウプリンスが赤松杯とシアンモア記念でSG2頭を抑えて優勝、モリユウ時代の到来が確実視されていたころだった。しかしトウケイニセイはこのレースで、好位から抜け出し、SGどころか新王者モリユウに2馬身半差をつけてレコードタイムで優勝し、デビュー以来の連勝が決して相手に恵まれてのものではないことを示した。また、その後も常に脚の状態を見ながらのレース出走であり、地元の岩手開催以外では東北地方交流の東北サラブレッド大賞典で上山競馬場や新潟競馬場に遠征した程度で、全国規模の競走に出走することはなかったが、地元ではデビュー以来の連続連対記録を伸ばしていた。競走馬としては全盛期を過ぎたと一般的に考えられる9歳(現在の表記では8歳)になった1995年、交流元年と呼ばれ中央競馬と地方競馬の交流が促進されると北日本地区交流であったマイルチャンピオンシップ南部杯も中央競馬も含む全国交流競走となり、中央や他地区の強豪を迎え撃ったが、中央のライブリマウント、高崎競馬のヨシノキングに次ぐ3着に敗れた。そのとき、水沢競馬場は観客たちが発した溜め息とともに静まりかえってしまった。ライブリマウントの主戦騎手の石橋守は「今日ばかりはヒール(悪役)になった気分だよ」とコメントを残している。また、トウケイニセイの主戦騎手である菅原勲は「あと1年早ければ……」とコメントを残した。連続連対記録41はローゼンホーマの40を超え、日本記録として残っている。その後、年末の桐花賞を楽勝して引退した。通算成績は43戦39勝2着3回3着1回というほぼ完璧なもので、岩手競馬史上最強馬という評価もされていた。主戦騎手だった菅原はのちにJRAGI・フェブラリーステークスを勝ったメイセイオペラにも騎乗しているが、トウケイニセイとの比較を尋ねられて、トウケイニセイのほうが強いと断言している。菅原いわく「メイセイも強くなっているが全盛期のニセイに比べればまだまだ。一番良い頃のニセイがドバイワールドカップに出たら勝っていたと思う」。また、その功績から2000年より岩手競馬でトウケイニセイ記念という重賞競走が開催されている。フレンドリーカップは、1994年は岩手競馬オープンクラスと中央競馬900万円以下クラス、1995年は岩手競馬オープンと中央1500万円以下との条件交流重賞であった。引退後の1996年、北海道の日高軽種馬農協門別種馬場で種牡馬となった。配合相手に恵まれず、また、産まれた産駒も大井競馬場で重賞で好勝負するも勝ちきれなかったドリームサラや、ダービーグランプリで5着になったトウケイキセキ程度で目立った成績を残すことができず、2004年に種牡馬引退となった。種牡馬引退後はえりも町のエクセルマネジメントで余生を過ごし、2009年1月、トウケイニセイ記念当日に水沢競馬場にて同馬の里帰りお披露目イベントが行われた。その後は岩手県滝沢村の「馬っこパーク・いわて」に繋養されていた。2011年、馬主の小野寺が東日本大震災で被災し終生飼育が困難な状況になったため、トウケイニセイの終生飼育を目的とした「トウケイニセイ基金」が有志によって立ち上げられていたが、翌2012年の3月6日に老衰のため25歳で死亡した。
出典:wikipedia
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