今村 均(いまむら ひとし、1886年6月28日 - 1968年10月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。温厚で高潔な人柄と、占領地での軍政・指導能力は高く、名将という評価を受けている。その人柄、エピソードは今日でも旧占領国の現地住民だけでなく、敵国であった連合国側からも称えられている。 祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務める名門であったが、進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難をあび財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒におぼれる生活を送った。父の虎尾は先妻との間に生まれた。虎尾は幼少時に漢籍をたたきこまれるなど父から教育を受けた。生活が困窮していたため、裁判所の事務員として働きながら家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てた。そのようななか、虎尾は裁判官試験に2番の成績で合格し裁判官として任官した。虎尾は陸軍将校の娘であるきよみを娶り、きよみによって均を始めとする多くの子供が産み育てられた。きよみの勧めで均や弟たちは陸軍将校となった。新発田中学(甲府中学校より転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、判事をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた第一高等学校、もしくは高等商業学校に進学することが厳しくなる。母きよみは陸軍士官学校を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、青山の陸軍練兵場で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る明治天皇の姿を見ようと天皇の乗る御料馬車に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した。9歳まで夜尿症を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度も便所に立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた。そのため講義中の居眠りを度々してしまい、そのたび教官に怒鳴られていた。軍医や同期生に相談したり、睡魔が襲ってきた時に小刃で自分を軽く突くなど対策したものの一向に治らず、野外演習中に農家から貰った唐辛子を講義中にこっそり噛む事で何とか眠気覚ましにした。これに気付いた理解ある教官達はそれ以降今村に対しては居眠りを注意しなくなった、という逸話が残っている。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した今村は見習士官を経て陸軍歩兵少尉に任官し、中尉の頃に陸軍大学校に進学。そこでも居眠りを繰り返したが、士官学校時代の話は陸大の教官にも伝わっていたらしくそれほど厳しい説教を受けることもなかった。そのようなハンディを背負いながらも陸軍大学校を首席で卒業し、恩賜の軍刀を賜った。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後、第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。陸軍の最精鋭空挺部隊であり「空の神兵」と謳われる第1挺進団(挺進部隊)や、飛行第64戦隊・飛行第59戦隊の一式戦闘機「隼」の活躍もあり、太平洋戦争における日本の最重要戦略目標であるパレンバンの油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)。さらに100隻弱の船団を使用する最大規模の上陸作戦となったジャワ上陸作戦では、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千のイギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を無条件降伏させ、作戦は日本軍の大勝に終わった。攻略の際、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。これは政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「インドネシア・ラヤ」が、ジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたという。しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、1942年(昭和17年)3月には今村とは親しい仲である参謀総長・杉山元が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している。また、陸軍省軍務局長の武藤章、人事局長の富永恭次も今村に対し、ジャワ島でもシンガポール同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』から「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて、要綱を改正する前に自分を免職するよう求め、軍政の方針を変えることに抵抗した。今村は「八紘一宇というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。1942年(昭和17年)11月20日、今村は第8方面軍司令官としてニューブリテン島に位置するラバウルに着任したのち、山本五十六海軍大将と会見している。今村と山本は佐官時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し合える程の仲であり、双方認め合っていたといわれる。そのため山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の一式陸上攻撃機に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。1943年(昭和18年)初頭、米軍はガダルカナルと東部ニューギニアから日本軍を駆逐しラバウル作戦の「第一任務」を完了した。米軍はさらにソロモン諸島とニューギニアの双方から前進する「第二任務」の準備に入った。これに対し日本軍はラバウルの防衛線をソロモン諸島のニュージョージアのムンダ岬の航空基地とニューギニアのサラマウアを結ぶ線とした。防衛部隊の海軍側の指揮官は草鹿任一中将、陸軍側が今村大将であった。日本海軍のラバウル航空隊の活動は、日本軍の航空兵力を米海軍に実際以上に過大評価させ、西進する米軍補給路への大きな脅威と米軍は判断した。しかも、ラバウルは今村により要塞化が進んでいた。今村はガダルカナル島の戦いの戦訓から、米海軍の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を整えることにし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという。またアメリカ軍の空爆と上陸に備えるため強固な地下要塞を構築し、病院、兵器や弾薬を生産する工廠も構築したのである。このような状態を知った米軍は、攻略することで多大な損害が予想される上、日本軍の補給路も一本化されることによりむしろ強化されるなどから、ラバウルの占領を回避し、打撃により無力化するに留めるとの決定をした。ラバウル無力化のために、米海軍はソロモン諸島を占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加えた。さらに1944年(昭和19年)2月中旬、日本艦隊の根拠地トラック島を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退させたため、ラバウルの米軍への積極的な脅威はほぼなくなった。しかし米軍はラバウル封鎖を完成させるために活動した。先ずラバウルの東方のグリーン島を占領し航空基地を設営しビスマルク諸島全体で戦闘機の活動を可能にし、次に陸軍のダグラス・マッカーサー将軍はアドミラルティ諸島の東端のロス・ネグロス島を占領し航空基地を確保した。さらに海軍がカヴィェン北西のエミウラ島を占領して、ラバウルの無力化は完成した。こうして、ラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が完成しており、かつ物資も備蓄していたために、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に終戦までラバウルを確保した。1945年(昭和20年)8月15日、日本が降伏し第二次世界大戦は終結。今村は戦争指導者(戦犯)として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定した。その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。その後、今村はオーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られた。だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。妻を通してGHQ司令官マッカーサーに直訴したといわれている。その態度にマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。その後、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いられた。元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されていると承知しても敢えて拒みはしなかったという。国立国会図書館憲政資料室に、今村の肉声を伝える「回想談話録音」が残されている。1968年(昭和43年)10月4日、死去。享年82。指揮官としての戦術面では、実戦を指揮したのが支那事変、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った南寧作戦では、近衛師団と第18師団の援軍が到着するまでの数十日間、蒋介石直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国国民党軍の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。今村の軍人としての能力、特に軍政面や占領地住民・部下将兵に対しての人道的な対応については後世の評価はほぼ一致している。蘭印無条件降伏を報じる1942年(昭和17年)3月10日(陸軍記念日)付の読売新聞記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。戦略面では、ラバウルでの持久戦が示すとおり、先を読んで対策を行う能力に優れていた人物であったことは確かで、終戦まで将兵の命を守ったことから、日本軍の優れた指揮官としての評価は高い。部下に非常に慕われる人柄であったため、統率に関してはしっかり取れていた。今村は部下を愛し、現地住民を愛したと言われそれに対して部下、現地住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる。
出典:wikipedia
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