見世物小屋(みせものごや)は、珍奇さや禍々しさ、猥雑さを売りにして、日常では見られない品や芸、獣や人間を見せる小屋掛けの興行である。元々の始まりは『散楽』といわれるものでバラエティに富む内容であった。そこから猿楽(能)が独立した存在となり、歌舞伎も江戸初期に別種の存在となると、これらの芸能からは見世物的毒気が抜けていった。江戸時代の頃には、今で言うところのサーカスや美術館、動物園、パフォーマーなどの要素を含んでいた。さらに各演目が独立してゆき、また文明開化により撃剣、パノラマ、迷路、蝋管レコード屋、電気仕掛け→初期の映画などの新たな要素を取り込みながら、明治時代以後に今の形態の見世物小屋に近づいていく。昭和30年頃までは、寺社のお祭や縁日に小規模な露店と共に、見世物小屋も盛んに興行されていた。「(略)〜お代は見てからで結構だよ。さあさあさあさあ入って入って、間もなく始まるよ〜」といった、業界内で「タンカ」と呼ばれる呼び込み口上があり、一種の風物詩として、見世物小屋が盛んだった時代を描くドラマなどにも登場する。見世物小屋は香具師の1ジャンル「タカモノ」でもあり、同様に「藪」と呼ばれるお化け屋敷の興行もタカモノ打ちのバリエーションとして打たれた。現在では、興行場所を確保しづらい、風俗の変化により世間が許容しない等の理由で、大きく衰退している。2000年代には入方勇が大寅興行社から独立し新たに入方興行社を立ち上げたが、興行主が亡くなったことにより廃業。このジャンルを興行するものは現状で大寅興行社の1社のみとなり、もはや風前の灯とも言われる。実物を見る機会は大幅に減り、希少な物となったが、興味の対象として人目に晒されることは「見せ物にする」と表現され、その精神性は未だに通じる物となっている。奇形の子供や性行為を覗き穴で見せるなど、文字通り何でも見世物にした。倉田喜弘によると、横浜で『ジャパン・ヘラルド』の主筆を務めたブラック(快楽亭ブラックの父)が1872年(明治5年)に皇居近くの神田橋周辺にあったむしろがけの小屋で「ウサギの死体を食いちぎる子供」なる見世物を見たことをきっかけとして、同年11月8日に東京府が「違式詿違条例」(今の軽犯罪法にあたる)を布達する。また、東京においては1891年(明治24年)10月3日の警察令第一五号「観物場取締規則」により、興行場所を浅草公園六区(浅草奥山のすぐ隣りの地区)の一箇所にまとめられた。地方においては巡業形態が続いた。時には、誘拐された子供が人身売買で、足の筋を切られた被虐的な道化役や、見世物として覗き穴の娼婦にするために売り飛ばされてきた例もあったという。社会福祉が発達していなかった頃には、身体障害者が金銭を得る為の仕事であり生活手段の一つでもあった(中村久子など)。見世物の演目として珍獣を見せることも行なわれた。珍獣の見世物は江戸時代、寛永年間ころに猪、孔雀を見せたのが最初であると言われている。虎や狼、鶴、鸚鵡などに曲芸をさせることは、寛文年間ころからあった。生類憐れみの令によって一時はこの種の見世物が下火になったが、享保2年に禁が解かれると再び流行した。以後、八頭八足の牛、三本足雞といった奇形の動物、獏や鯨、ガラン鳥、インコ、雷獣、山嵐、駝鳥、水豹、白牛といった輸入動物の見世物もあった。文政4年の駱駝の登場は大変な人気を博し、梁川星巌はそれを見て作詩し、その詩が文人間で愛唱され、その意味で、夫婦が一緒に歩くことを「駱駝」と言うようになったことは頼山陽の書簡に見られる。珍獣の展示は浅草の花屋敷で常設化され、今の動物園につながっていく。天保年間には豹、白狸、六足犬、岩獅子、火喰鳥などの見世物もあった。この他、大きな板に血糊を付けた物を大イタチ、大きな穴に子供を入れて大穴子と称する駄洒落や、猿、犬、鯉などの遺体を組み合わせて作り上げたものを、鬼や河童、龍、人魚など伝説の生物のミイラとして見せることもしていた。これらは常設化され秘宝館となる。演目は多様でも、客の回転を最重視して入り口と出口を分け、自由に見られる内容と時間を縮めるという共通した構造がある。お客が増えてくると中は混雑し、徐々に押されて出口から自然に押し出されてしまう。女子プロレスの余興として試合が組まれたミゼットプロレスでも象徴的に見られるように、プロレスと見世物興行は共通点が多い。近年において、見世物小屋が興行されることのある祭事やイベントを以下に記す。なお興行主は大寅興行社であるが、見世物小屋でなくお化け屋敷が興行されることもある。見世物小屋を題材にした、あるいは登場する作品など。
出典:wikipedia
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