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ベティ・デイヴィス

ベティ・デイヴィス(Bette Davis, 1908年4月5日 - 1989年10月6日)はアメリカ合衆国マサチューセッツ州ローウェル出身の女優である。本名:ルース・エリザベス・デイヴィス(Ruth Elizabeth Davis)。尊敬をこめて「フィルムのファースト・レディ」と呼ばれた、キャサリン・ヘプバーンと並ぶ、ハリウッド映画史上屈指の演技派女優にして、未だに尊敬を集める特筆すべき重要な存在である。弁護士である父を持ち、裕福な幼少期を過ごすが、幼い時に両親が離婚。典型的なステージ・ママである母や姉の影響から自立せねばならなかった。ニューヨークに移住後、ニュートン・ハイスクール、クッシング・アカデミー・ハイスクールに学ぶと同時に、演技・ダンスも学んだ。最初はダンサーに憧れていたが、高校時代にダンスを辞めて俳優を本格的に目指した。ロチェスターの小劇団に在籍し、1928年に巡業劇団であるプロヴィンスタウン・プレイヤーズのオフ・ブロードウェイの舞台「Earth Between」に立ち、ニューヨークへ本格的に進出を果たす。1929年に『Broken Dishes』でブロードウェイの舞台デビューを飾る。舞台の主演女優として順調なキャリアを積んでいたが、舞台出演の傍ら、サミュエル・ゴールドウィンのスクリーン・テストを受けたが失敗。しかし、後にゴールドウィンは「彼女を雇わなかったのは最大の誤算であり間違いであった」と深く後悔している。そして、映画女優の道を選び1931年にユニヴァーサル映画によって雇われ、スター男優の主演『』でスクリーン・デビューを果たす。映画デビュー前、彼女がハリウッドに到着したとき、どんな映画スターにも似ていない、大きな瞳と個性的な顔立ちもあって、彼女の列車を迎えに行ったスタジオ代表は彼女を見つけることができずに手ぶらで帰ったという逸話も残っている。ユニヴァーサル時代は作品に恵まれず、当時のユニヴァーサル幹部に彼女は「スターの素質はない」と判断され、解雇の憂き目にあう。が、その後ワーナー・ブラザーズと7年の専属契約を結び、名優ジョージ・アーリス主演の『The Man Who Played God』(1932)で注目され、49年までのワーナーとの契約期間に大スターとしての地位を築き上げることとなる。デイヴィスの転機は1934年に訪れる。それまで、ワーナーで便利使いの適当なヒロイン役や準ヒロイン役に甘んじていたデイヴィスは、彼女の女優としての運命を変える事となった名匠ジョン・クロムウェル監督の『痴人の愛』(原作はサマーセット・モームの『人間の絆』)と出逢うのである。当初、この作品が映画化されるに当たり、ヒロインのなり手が全くなかった。と言うのも、原作者モームの発表した自伝的小説とも言える『人間の絆』に登場するヒロインであるミルドレッドは、それまでの英米文学史上に描かれることの無かった人物であり、史上最低最悪のヒロインと呼ばれたほどの悪辣な女性像であった。スター・システム全盛期に、このようなイメージを悪くするような役を演じたがる女優が居るはずもなく、ヒロイン探しは難航したが、当時ワーナーに所属していたデイヴィスが、可もなく不可もない、便利使いの適当なヒロイン役に飽きたらず、これを転機と見定め、自らヒロインであるミルドレッド役に志願したのである。しかし、専属契約をしていたワーナーは、当時、他社であるRKOの作品への出演を認めず、デイヴィスはこれに対抗し自らの鉄の意志を貫いた。ミルドレッド役を手に入れた彼女にとって、もうひとつ幸運だったのは、モームの分身を演じる共演者であった人物がイギリスの名優にして監督でもあった大スターのレスリー・ハワードであったことである。非常に洗練されたハワードが受け手の演技に回ったことにより、デイヴィスは一層、引き立てられ、演技開眼したと言っても過言ではない。この『痴人の愛』が全米で公開されるや否や、そのデイヴィスの憎たらしいまでの強烈な存在感と悪女ぶりが大評判となり、批評家や評論家も彼女を激賞した。不運だったことは、当時のアカデミー賞のシステムにもあるが、彼女は他社出演した映画で大評判を取った。これに気を良くしなかったワーナーのボスであるが露骨かつ意図的に彼女を締め出しにかかり、デイヴィスはオスカーにノミネートさえされなかった。これに怒ったのはデイヴィスでも、ワーナーでもなくRKOでもなかった。当時の多くの新聞のコラムで疑問が呈され、ファンや評論家が抗議したのである。俳優仲間では親友のジョーン・ブロンデルと彼女の当時の夫で人気スターのディック・パウエルらが率先して、抗議のアピールをしたのである。アカデミーの事務局には、電話や電報による猛抗議が殺到し、収拾がつかない程の事態に陥り、デモ隊までが登場。抗議集会が開かれる寸前の所、ノミネーション発表9日目にして、どのカテゴリーもノミネーションに拘らずに、誰に投票しても構わないという書き込み式の緊急措置がとられ、アカデミー会員に通達する羽目になったのである。しかし、デイヴィスはオスカーを受賞することはなかった。これは後に「オスカー史上の最も大きな過ち」と呼ばれ、今なおアカデミーの長い歴史を振り返る上で、忘れ去られることの無い、語り継がれるほど有名な話である。翌年に『青春の抗議』によってアカデミー賞主演女優賞を獲得するも、本人は不本意であった。それは前年、受賞できなかったことに対する「同情的な埋め合わせのオスカー」であったことは明白であり、「今年は私ではなく『乙女よ嘆くな』のキャサリン・ヘプバーンが本当の受賞者」と率直に語った。デイヴィスはこの『痴人の愛』以後、演技派の大女優への道を歩むこととなる。1930年代はアカデミー主演女優賞を獲得した『青春の抗議』(1935)、『黒蘭の女』(1938)をはじめ、ブロードウェイのヒット作の映画化にして再度レスリー・ハワードや悪役から頭角を現したハンフリー・ボガートと共演した『化石の森』(1936)、ヴェネツィア国際映画祭女優賞を獲得した『札つき女』(1937)や悲劇的なヒロインを演じた『愛の勝利』(1939)はじめ、話題作が多く、40年代に入ってからも、夫を平然と射殺しながら、さめざめと泣いて見せる『月光の女』(1940)でのヒロインや、リリアン・ヘルマン原作の『偽りの花園』(1941)の強欲で冷酷なレジーナ役などでは凄味が増し、忘れがたい名演技を披露している。『ラインの監視』(1943)のレジスタンスの闘志の夫を支える献身的な妻や、また、ロマンティックな『情熱の航路』(1943)でのヒロイン役も印象が強く、後に幾度となく、この『情熱の航路』の映画スタイルを引用したロマンス映画が作られている。また『』(1945)では、貧しい炭坑町に暮らす青年の天才的才能を見出す教師役も忘れ難く、感動的な作品となっている。この当時、アメリカTIME誌が発表した「アメリカの世紀1930〜1940」では彼女の演技やそのスタイルについて2ページも割かれており、彼女の演技的才能に惜しみない賛辞を送っている。その一文には「彼女が演じた役は、どれもまぎれもなくベティ・デイヴィスなのだが、それでいてまったく性格の違う役を鋭いリアリティを持って演じた」とある。1938年から1942年まで、主演の演技部門で5年連続でアカデミー賞にノミネートされたのは、グリア・ガースンと並び、アカデミー賞史上空前の記録である。また、1941年10月には米国映画芸術科学アカデミー(A.M.P.A.S)に女性としてはじめて会長(第9代)に就任する。しかし事務局と対立し、2か月後には退任。『小麦は緑』(1945)以降、ヒット作品に徐々に恵まれなくなるも、1949年にワーナー・ブラザーズを離れてからは、年齢的なこともあり、フリーの立場で仕事を続けていくこととなる。再び、転機が訪れたのは1950年。背中を怪我をしたクローデット・コルベールが降板し、代わって出演した1950年の『イヴの総て』では、自身のイメージを逆手に取るかのように、ブロードウェイの大女優役のマーゴ・チャニングを演じ、圧倒的な迫力を見せ、カンヌ国際映画祭女優賞をはじめ、ニューヨーク映画批評家協会女優賞を獲得。オスカーにもノミネートされた。彼女の演技は評論家には大絶賛され、映画通のファンの間では「マーゴ・チャニング」と言えば、イコール悪女を意味した。1960年以降は、『ポケット一杯の幸福』(1961)や、20年代後期から活躍していた元MGMの大スターであったジョーン・クロフォードと共演した、ロバート・アルドリッチ監督の異色作『何がジェーンに起ったか?』(1962)で強烈な復活を印象付けた。この映画におけるデイヴィスの狂乱の演技は凄まじく、映画ファンのみならず、業界人や評論家までもが度肝を抜かれた。過去の栄光を汚すと言う周囲の反対も聞き入れず、強烈なキャラクターである、ベイビー・ジェーン・ハドソン役を見事に創り上げ、醜悪なメイクをわざと施した。それは女優としての単なる飽くなき探求心であり、開き直りではなかった。この作品は、彼女のキャリアの中でも、重要な作品であり、特に50年代中期より作品に恵まれなかった本人にとっては、起死回生の大ヒットを記録した事により、『誰が私を殺したか?』(1964)、『ふるえて眠れ』(1964)などで、更に一癖ある独特の性格女優としての真価を発揮。とくに『ふるえて眠れ』(1964)では、再びアルドリッチ監督が、クロフォードとの共演で企画を進めたが、共演者は演技派の名女優オリヴィア・デ・ハヴィランドに変更された。この経緯は後述する。また、70年代も積極的に幅広い分野で活動しアガサ・クリスティの『ナイル殺人事件』(1978)でも、コメディ・リリーフ的な役柄を快演している。身長160cmと小柄ながらエネルギッシュで、辛辣でブラック・ユーモアを交えた発言も多く、ジョーン・クロフォードに対しては「彼女の使った後の便座だけには座りたくない」と発言したことはあまりにも有名。また、前述した『ふるえて眠れ』の主演にあたり、ジョーン・クロフォードとの共演を拒絶し「ペプシ・コーラのセールス・ウーマンと共演するなんて真っ平ごめん」と言って、大嫌いな彼女を降板させた経緯がある。また、後輩の大スターであるスーザン・ヘイワードが撮影に遅刻をしようものなら、カツラを投げつけたりするなど、非常に気が強くて有名なヘイワードさえ泣かせるほどであった。「私は同じ演技などは一度たりともしたことはないから、怖いものなどはない」等も有名な発言であるが、最も有名な発言は男性優位社会のハリウッドや男性と女性の社会的地位の差異を痛烈に批判した「男がやると尊敬される。女がやると嫌われる」であろう。この言葉は、後にアメリカン・ニューシネマの時代のヒロインとして活躍したフェイ・ダナウェイやウィメンズ・リブ台頭の1970年代に「女性映画」が復活したが、この年代のハリウッドを代表するジェーン・フォンダ等も、時代は変わってもハリウッドは変わらず「ボーイズ・タウン」であることを皮肉り、二人ともにデイヴィスの言葉を引用して印象的な発言を多数している。また、業界紙のデイリー・ヴァラエティ誌の広告一面にわざと「職求む」と実名で仕事の募集広告を出すなど、ジョークも好きで茶目っ気もあった。強烈な個性を武器にハリウッドをサヴァイヴァルした彼女であるか、ハリウッドのみならず、世界的に尊敬された「真の女優」という意味で、彼女をは唯一無二の個性を持ち合わせた類稀なる女優であることは間違いなく、その評価は揺るぎない。悪女役のイメージが強いが、出演作品を網羅すればわかる様に、役柄が非常に幅広い。ワーナーでの「半分は天使、半分は妖婦、そしてすべてが女性」というキャッチ・フレーズ通り、悪魔のような人物像から、情熱的な役から可憐で美しい女性、憎たらしい女から、目を見張るほど美しく可愛い女性像、地味で目立たないような人物や、苦悩が色濃い役、薄幸な人物までイメージを悉く変えて魅せることの出来る才能の持ち主であり、女王役などは言うに及ばずという所であろう。そもそも、1930年代に入って男性のスターを中心に動いていたボーイズ・タウンのハリウッドは軌道修正を迫られた。それは、女性客の圧倒的な増加による。このため、女性を積極的に主人公に起用し、「女性映画」の製作を迫られた。飾り物でも何でもなく、男優を引っ張るパワーのある女性スターが望まれた。そんな時代に登場したのが、デイヴィスであり、キャサリン・ヘプバーンなのである。デイヴィスは特に他の女優が嫌がる様な役や尻込みする役を積極的に演じ、しかも迫真の名演技で賞賛され、スクリーンで観客を釘付けにした。「フィルムのファースト・レディ」と呼ばれるゆえんである。彼女が二度目のアカデミー賞を受賞した『黒蘭の女』(1938)の意志が強く、我儘で独善的な女性像は、そもそも『風と共に去りぬ』(1939)のヒロインであるスカーレット・オハラに共通点が幾つかある。また、それを強く意識して製作された映画である。デイヴィスはスカーレット役の有力候補の一人ではあったものの、映画のプロデューサーであったデヴィッド・O・セルズニックが、スカーレット・フィーバーを巻き起こし、あくまでもセンセーショナルでインパクトのある主演女優を妥協せずに探し続けており撮影開始時点でも、ヒロインは正式に決まらなかった。また、デイヴィスはワーナーの大スターでもあるエロール・フリンを共演者に指名したため、役を失う羽目になった。その為、デイヴィスはスカーレット役を得られなかったために、それに似通った役を先んじて演じることで、オスカーを意識したと言われている。『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966)では、罵詈雑言を吐くアルコール中毒の悪妻であるヒロイン役をどうしても演じたがったが、役を得ることが出来ず、この役はエリザベス・テイラーが演じ、結果、彼女はオスカーを受賞している。1963年までにアカデミー賞に11回ノミネートされたのも空前の記録であった。(生涯ノミネート10回と記載されることが多いが現在は「痴人の愛」のノミネーションが映画芸術科学アカデミーから認められており、11回が正しい)キャサリン・ヘプバーンがデイヴィスの記録を1982年に更新するまで、デイヴィスが史上最多の候補記録を保持していた。現在はメリル・ストリープが19回という驚異的な数字で、記録を更新している。1979年にはTVのミニ・シリーズ『Strangers:The Story of a Mother and Daughter』でエミー賞主演女優賞を獲得。デイヴィスは1980年代に入ってからも精力的に、映画やTV映画で活躍し、TVショーにも数多く出演している。1987年に主演した、魂の叙事詩と呼ぶにふさわしい名作となった『八月の鯨』でサイレント期から活躍していた名女優リリアン・ギッシュと姉妹役で共演し、世界中で高い評価を得て映画もロングラン・ヒットとなり、オールド・ファンのみならず、多くの観客を感動させた。自伝は二冊あり、『This N That』と『Betty Davis, The Lonely Life』を自ら記している。1989年、フランスのパリ近郊のオー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌのアメリカン病院で転移性乳癌のために死去。俳優のゲイリー・メリルなど4回の結婚歴があるが、実子は3度目の結婚相手である芸術家のウィリアム・グラント・シェリーとの間に生まれた娘のバーバラのみである。バーバラは母であるデイヴィスが主演した『何がジェーンに起ったか?』に隣家の娘役で出演している。また、デイヴィスの死後に、彼女との母と子としての常識的では考えられない苦悩や生活を赤裸々に告白した暴露的要素が濃い「My Mother's Keeper」を出版して、全米で非常に大きな話題となった。デイヴィスは、実は彼女の主演作を複数監督している巨匠ウィリアム・ワイラーを愛していたが、結婚はしなかったと言われているが真偽のほどは定かではない。AFI(米国映画協会)は、1977年に女性として初の生涯功労賞を授与し、そしてまた1999年に「最も偉大な女優50人」の第2位に選出している。また、AFIが選出した「100人のヒーロー・ヒロインと悪者たち」の中で、フェイ・ダナウェイと並び2作品が入っている。第33位の『偽りの花園』(1941)でのレジーナ・ギデンズ役と、第34位『何がジェーンに起こったか?』(1962)のベイビー・ジェーン・ハドソン役である。2007年、米郵政公社はデイヴィスの生誕100周年を記念して切手を発行した。なお1981年には、彼女を題材としたキム・カーンズの「ベティ・デイビスの瞳(Bette Davis Eyes)」という歌が全米で9週1位という記録的な大ヒットとなり、グラミー賞の最優秀楽曲賞、最優秀レコード賞を受賞した。

出典:wikipedia

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