御料車(ごりょうしゃ)は、日本の天皇および皇族が乗車するための車。「御料」とは、高貴な人の所有物・利用物の意。なお、他国の王室が使用する車両(公用車)に対してこの表記が使用される場合もある。自動車の御料車は「菊の自動車」とも呼ばれ、国賓来訪の接遇、並びに国会や地方への訪問などの公式行事で頻繁に使用される。御料車は専属の操縦員(お抱え運転手・宮内庁管理部車馬課の係長クラス)が運転し、一般にナンバープレートがある位置と後部ドア付近に菊の紋章が標記され、前方・後方のドアが観音開きの構造になっているのが特色である。また、天皇料車用の一般用とは異なるナンバープレートが使用される。ボンネットに紅の地に金の菊花紋章が描かれた「天皇旗」が取り付けられることもある。それまでの馬車に代わり、初めて自動車の御料車が導入されたのは1912年(大正元年)である。1912年(大正元年)の大正天皇の即位時に、当時の自動車先進国で、日英同盟を結ぶなど親密な関係にあったイギリスから輸入されたデイムラー・ランドレー57.2HP(直列6気筒・ナイト式ダブル・スリーブバルブエンジン車)が史上初の自動車の御料車となった。デイムラーはイギリス王室で初めて御料車に採用された車であり、その実績を評価されての導入だった。選定に携わったのは英国留学中に自動車レースに出場経験があり、日本最初の自動車輸入会社「日本自動車」を設立・経営していた大倉喜七郎であった。当該御料車は当時イギリス王室に納入されたデイムラー最新モデルと同形車であり、イギリス王室からの影響の強さがうかがわれる。皇室の色である溜色に塗装され、菊の御紋がドアに付けられた他は、特別な装備はなかった。1927年まで使用された。1921年(大正10年)に2台が導入されたロールス・ロイス・シルヴァーゴースト(フーパー製リムジンボディ)。輸入を請け負ったのは当時の日本におけるロールス・ロイス代理店になっていた東京瓦斯電気工業(現在のいすゞ自動車の前身の一つ)。導入後の1923年(大正12年)に日本とイギリスとの同盟関係は失われたものの、その後昭和天皇時代の1936年(昭和11年)まで使用された。1923年に起きた暗殺未遂事件「虎ノ門事件」ではこのロールス・ロイスのうち1台が被災車となり、銃撃に対する防御が皆無に等しかったことが問題となった。これは次の代の御料車となったメルセデス・ベンツにおける防弾装備充実の一因ともなった。用途廃棄後は車体は解体され、エンジンは吹上御所内の緊急用井戸のくみ上げポンプの動力として使用された後、民間に払い下げられた。1932年(昭和7年)に導入されたメルセデス・ベンツ770グローサー。既にイギリスとの同盟関係が失われており、当時満州事変への対応をめぐってイギリスやアメリカ合衆国などの自動車先進国との関係が悪化していた上、メルセデスは他国の国家首脳専用車としても導入されていた実績が高い評価を受けたことから、ドイツの車種で初めて導入されることとなった。また昭和天皇即位後、初めて導入された御料車となった。なお、ドイツとの間の日独防共協定の締結などを受けて、イギリス製のロールス・ロイスが1936年(昭和11年)に御料車から外されたため、その後の第二次世界大戦期を通じて唯一の御料車として使用された。全長5.6m、車重は通常リムジンでも2.7tに達する巨大な車で、直列8気筒7665ccの大排気量エンジンを搭載、スーパーチャージャー付きバージョンも存在した、当時としては最新鋭の車種であった。ドイツやその友好国、同盟国の国家元首専用車として多用された車種である。皇室からダイムラー・ベンツに注文された御料車は、スーパーチャージャー無し・150HP仕様で、1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)の間に合計7台が輸入された。ボディは当時の上級メルセデス・ベンツの多くの例に漏れず、ダイムラー・ベンツ自社のジンデルフィンゲン工場が内製したリムジンボディであったが、後席内装には宮内省支給の西陣織が使用されていた。7台のうち2台は、日本に到着後、陸軍砲兵工廠で防弾装甲ボディに改装され、4トンを超える重量級となり、橫濱護謨製造製の特殊タイヤが後に使用された。1台が戦時中に戦災焼失した。終戦直後の昭和天皇の全国巡幸では、2台が車体後部を改造されランドレー型となり、「溜色のベンツ」「溜色の車」と呼ばれ、日本国中を走り活躍している(この改造は富谷龍一のデザイン案に基づき、梁瀬自動車が請け負った)。終戦時点でも台数が6台と多く揃っていたこともあり、ランドレー改造車等を部品取り用に解体するなどの手段で未改造車の延命策がとられた。1959年(昭和34年)4月10日の皇太子明仁親王・正田美智子結婚の儀など、新御料車(4代目・5代目)が導入されたのちも引き続き、1968年(昭和43年)に至るまで長期間に渡って使用された。なお、1971年(昭和46年)に1台がダイムラー・ベンツに寄贈され、現在も同社の博物館に展示されている。1951年(昭和26年)に導入されたキャデラック・75リムジン。太平洋戦争終結後に、イギリスやアメリカ、ソ連などの連合国の占領下にあったため、連合国軍最高司令官総司令部の計らいにより、経年化が進んでいた上に、かつての同盟国で連合国にとっての敵国であったドイツ製のメルセデス・ベンツの代わりに、連合国の一国であるアメリカ製のキャデラックが採用された。しかし、メルセデス・ベンツ770Kも同時に使用され続け、1957年(昭和32年)には正式な御料車という形ではなかったもののロールス・ロイス・シルバー・レイスが導入され、1961年(昭和36年)にもロールス・ロイス・ファントムVが導入されたために引退した。1967年(昭和42年)に導入された日産・プリンスロイヤル。初の日本製御料車として、後に日産自動車と合併したプリンス自動車工業が開発、製造した。ほぼ手作りに近い品質管理が行われ、内装も西陣織をふんだんに使用するなど最高品質が追求された。一般向け販売はされず、宮内庁と外務省(大阪万博開催時の国賓送迎用として2台が納入された。内1台は1978年に宮内庁に移管された)のみに7台が製造された。1980年(昭和55年)11月から翌1981年(昭和56年)3月にかけて、1台が寝台車対応のワゴンタイプに改造され、昭和天皇の大喪の礼などで使用された。イギリス女王エリザベス2世やアフガニスタン国王ザヒル・シャー、インドネシア大統領スカルノ、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンを始め、各国の要人を乗せたほか、今上天皇の即位の礼などで使用され、戦後の重要な役割を果たした。これまでの車種の中では最も長く使用されたが、2000年代に入り、経年劣化が進んだ上、部品の調達が困難になってきたことなどを受けて、2004年(平成16年)に製造元の日産自動車が宮内庁に用途廃止を願い入れ、後継車種の導入に合わせて引退することが決まった。2012年現在、3号車が昭和天皇記念館に展示されている。2006年(平成18年)に導入されたトヨタ・センチュリーロイヤル。2006年(平成18年)7月に標準車1両が宮内庁に納入され、8月15日の全国戦没者追悼式から使用される予定であったが、9月28日の臨時国会開会式に出席する際から使用された。今上天皇即位後に初めて導入された御料車で、初のトヨタ製の御料車でもある。2007年(平成19年)9月には防弾性能等を強化した特装車2両が納入され、翌2008年(平成20年)5月に中華人民共和国の国家主席胡錦濤及び夫人が国賓として来日した際から使用された。2008年(平成20年)に寝台車1両が納入され、最終的にはプリンスロイヤルよりも1両少ない4両体制となった。2010年(平成22年)現在、センチュリーロイヤルが3両使用されている。鉄道車両同様、通常は大切に保管され、使用時には入念な整備が施される。通常のナンバープレートが付けられている(関連の税金を払い、車庫証明を取得し、車検も受ける)日常公務用の送迎車もあり、天皇および皇后用はトヨタ・センチュリーが4両あり、地方行幸などにも使用されている。他の皇族には皇太子御一家用はセンチュリー、トヨタ・アルファード、秋篠宮御一家用は三菱・ディグニティ、日産・フーガ、アルファード等が用意されている。今上天皇や他の皇族の多くが車好きとして知られ、今上天皇は皇太子時代にプリンス・グロリアを愛用していた他、学習院の学友のアルファロメオ車を運転したエピソードもある。今上天皇の現在の愛車は1991年式のホンダ・インテグラ(4ドア仕様、MT)。御料車のナンバープレートは直径約10cmの円形で、銀色の梨地に漢字で「皇」の一字とアラビア数字が金色で描かれている。このナンバープレートを一般のナンバープレートに相当するものとして扱う事が道路運送車両法(道路運送車両法施行規則第11条第2項)により規定されている。ナンバープレートがある以上、車検の対象となる。
出典:wikipedia
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