左 卜全(ひだり ぼくぜん、本名:三ヶ島 一郎〈みかじま いちろう〉、1894年2月20日 - 1971年5月26日)は、日本の俳優、オペラ歌手。異母姉は女流歌人の三ヶ島葭子。1894年(明治27年)2月20日、埼玉県入間郡小手指村北野に小学校校長の次男として生まれる。三ヶ島家は代々、埼玉県入間郡三ヶ島村の氷川神社の神官だったが、祖父が分家して一家をなした。1901年(明治34年)に北野小学校に入学する。1902年(明治35年)、父の転勤のため東京市麻布区の南山小学校に転校。まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移った。1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公に出るが、1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入した。1909年(明治42年)、高等科を卒業後、牛乳配達や新聞配達、土工など様々な仕事に就く。この間、苦学して立教中学校(現・立教池袋中学校)に短期間通ったが中退した。1914年(大正3年)、「帝劇歌劇部」に第3期生として入り、オペラ歌手として歌唱法やダンスを学んだ。当時は舞踏家を目指していたが、帝劇洋劇部が解散したことにより断念。小さな劇団を転々とした。1920年(大正9年)、関西に移り「新声劇」に入る。1926年(大正15年)、「松旭斎天華一座」に入り、三ヶ島天晴(みかじま てんせい)の芸名で活躍。満州、中国まで巡業に出た。1935年(昭和10年)、東京へ戻り、経営者の佐々木千里に誘われて新宿の「ムーランルージュ新宿座」に入る。以来、左卜全の芸名で老け役の喜劇俳優として活躍しているところを松竹に引き抜かれて「移動演劇隊」に入った。しかし、この頃から左脚に激痛を伴う突発性脱疽を発症してしまう。医者からは脚の切断を勧められたが、俳優以外に天職が無いと考えていた卜全はあえて激痛を伴う脱疽と共に生きる決意をし、以後は生涯にわたり撮影時以外は移動に松葉杖を使うようになっていった。1945年(昭和20年)、敗戦後に水の江滝子の「劇団たんぽぽ」に加わった。1946年(昭和21年)、52歳にして当時37歳だった遠い親戚の女性、小暮糸と結婚する。また小崎政房を座長とする「劇団空気座」の結成にも参加した。1949年(昭和24年)、「空気座」が解散すると卜全は小崎の紹介で「太泉映画大泉スタジオ」(のちに合併して東映)に入った。同年今井正監督の『女の顔』で55歳で映画デビューした。引き続き出演した山本嘉次郎監督の『脱獄』での飄々とした演技が目に留まり、黒澤明監督の『醜聞』に出演、ワンシーンながら印象的な演技を見せた。以後卜全はフリーとなって多くの作品にとぼけた味の老人役で出演し、名バイプレーヤーの名を欲しいままにした。また、『醜聞』以降黒澤監督に重用されてその後も『生きる』や『七人の侍』など合計7本の黒澤映画に出演し、常連俳優としても活躍した。また、『どん底』のお遍路役は自他共に認める代表作となった。1970年(昭和45年)、日本グラモフォン(現・ユニバーサル ミュージック合同会社)より『老人と子供のポルカ』で歌手デビューを果たした。1971年(昭和46年)、癌のため5月26日に77歳で没した。死の床の際、最期を看取った卜全の妻が「一郎さん」と呼びかけたのに「は~い」と小さな声で応えたのが卜全の最後の言葉だった。卜全は映画では根っからの変人を思わせる自然体の演技で、良き脇役として活躍した。ただその芸は日々の勉強に裏打ちされたものであり、卜全自身、「私の芸はぶっ倒れそうになりながら絞り出たものであり、自分自身、芸の世界に入ってからというもの毎日が死以上の苦しみであった」と後に回想している。芸能界でも一、二を争うほどの変人として知られ、様々なエピソードが残っている。薬草をつんでは楽屋で干していて、「五種の野草を煎じた不老長寿の霊薬」の入っているという水筒を首から提げ、いつも撮影所に持ち込んで飲んでいた。黒澤明監督もこの水筒に興味を抱き、中身が何なのか、俳優の土屋嘉男とよく話題にしていた。一度、土屋がこっそり飲んでみたところ、中身は単なるコーヒーだったという。また「脚が悪いから」と言って、撮影所では松葉杖をついて歩いていた。しかし土屋によると、バスに乗り遅れまいと二人で走ったとき、卜全は松葉杖を小脇に抱えるや、土屋を追い越してしまい土屋は追いつけなかったという。撮影所にはいつも妻が同伴していた。この妻は新興宗教の教祖で、信者は卜全ひとりだけだったといい、撮影の合間によく手を合わせてお祈りをしていた。ギャラはすべてこの教祖に捧げていたというが、土屋によるとよく手を合わせながら欠伸をしていたという。撮影所ではいつもよれよれのモンペ姿だった。撮影所ではいつも同僚と離れて過ごし、周囲も干渉しなかったので忘れられることが多かったが、土屋にだけはよく話しかけてきた。理由を聞くと卜全は「西式健康法」の主催者の西勝造を「この世で一番尊敬している」と語り、西と同郷の土屋に「きっとあんたと血が繋がっているだろうから、あんただけにはちゃんとした付き合いをするんです」と説明したという。土屋はちょうど郷里の土蔵をとり壊す予定だったが、これを聞いた卜全から「住まいにするから土蔵を売ってくれ」と懇願されたという。自宅に「若返り回転機」という、体を固定して上下回転するベッドのような機械を据え付けていて、出かける前に必ずこれを自分で操作して一運動していた。それからゆっくりとお祈りし、水筒を提げて出かけるため撮影が中止になったこともあった。役者になる前は浅草オペラでオペラ歌手を務めていた。「ムーランルージュ」時代に、「薔薇座」を主宰していた千秋実に呼ばれて舞台に出たが、段取りを無視してシリアスな芝居をぶち壊し、以来卜全は千秋から恨みを買っていた。服装についても基本的に着たきりで滅多に服を新調しなかったため、いつも身なりがボロボロで浮浪者のようであった。また、突拍子も無い服装で出歩く事も多かったと言い、ムーランでの同僚だった明日待子は晴れた日に長靴を履き、雨合羽を着た上に雨傘を持って劇場や撮影所に出勤してきた卜全を見て驚き、理由を聴いたところ「夢で神様からお告げがあったから」と答えた事に唖然としたと語っている。このような奇行や飄々とした個性的な性格から芸能界随一の変人として有名だったが、私生活でも独自の生活スタイルを貫いた変わり者であったと言い、芸能界に何十年も在籍していながらプライベートでの芸能人の友人は一人もいなかったと言う。また、41歳の時に患った突発性脱疽が原因で脚が不自由になり身体障害者手帳を持っていたが、卜全は障害者手帳を持って外出する事はほとんど無く、さらに性格や普段からの奇行が原因で世間から「身体障害者を装っている」と思われる事も多かったと言う。激痛に耐えながら仕事をする夫の事を何も知らず、世間が勝手に「左卜全は身体障害者の振りをしている」と噂している事に深く傷ついて怒りを抑えられなかった糸に対して卜全は全く動じず、逆に「何を怒っているんだ?逆だよ。そう言う噂があるからオレが助かっているんだよ。役者に病気があるなんて知られて同情なんかされたらそれこそ致命的だ」と糸に笑いながら話したと言う。卜全と糸との夫婦仲は大変良好で、卜全が外出する時は必ず妻が付き添っていた。卜全は自身の誕生日に夫婦で銀座に出かけるのが恒例で、毎年とても楽しみにしていたと言う。撮影の際も必ず妻が付き添っており、特に黒澤監督の映画の撮影では卜全が重用されて『七人の侍』で何度も全力疾走したり、『生きる』で何十回もNGを出して録り直しをしたため、妻が左脚をマッサージしたり応急処置をするなど卜全を献身的にサポートしていたと言う。卜全も糸の事を大切に思っており、外出時は何かトラブルがあった時に糸を守れるよう、常に小刀などの護身用の武器を懐に入れていたと言われている。夫婦の墓所は卜全の出生地に近い埼玉県所沢市堀之内の比良の丘、金仙寺近くにある三ヶ島墓苑にある。生前は東京都世田谷区内に在住していた。自宅は卜全が亡くなった後も糸が暮らしていたため1990年代後半まで存在していたが、糸が亡くなり老朽化も重なったため取り壊されて現存しない。ただし、その際に自宅にあった門は墓所の三ヶ島墓苑に移設されている。1970年(昭和45年)2月10日に、劇団ひまわりの子役で構成された「ひまわりキティーズ」をバックコーラスに添えた「老人と子供のポルカ」(早川博二作曲)を発売。同曲は当初経済評論家の小汀利得が歌う予定だったが没案となったため、急遽卜全が代役で歌うことになった。これが40万枚を売り上げる大ヒットとなり、76歳当時「史上最高齢の新人歌手」として話題になったが、卜全は買取契約をしていたため20万円しか支払われなかった。翌年には「拝啓天照さーん」を録音したが、直後に卜全が死去したためレコードはほとんど流通しなかった。卜全は「老人と子供のポルカ」はヒットするとは全く考えておらず、ヒットしたときのインタビューでも「ありゃもうおしまい。5月までじゃな、アーハハ」と、余裕の表情だったという。なおも歌の収録が決まっていた時は特に体調管理に気をつけており、収録の1週間前から当日までクロロフィルを欠かさず飲み続けていたと言う。「老人と子供のポルカ」のレコードの収録の際、卜全の歌い方が遅くて演奏やひまわりキティーズの歌声と全然噛み合わず、何度も録り直しをして6時間かけてようやく収録している。しかし卜全自身は疲労を見せるどころか全く平然としていたと言う。テレビ中継や収録で歌うときも口パクを嫌って地声で歌っていたが、演奏と歌がなかなか噛み合わず、演出担当者が指導しようとすると「機械のほうで俺に合わせろ!!」と啖呵を切り、マイペースで歌っていたと言う。そこで演出担当者は歌が途切れそうだった時はミキサーを調整して流すと言う手法を使って本放送を凌いだと言う。啖呵を切る一方で本番で歌い終わった後は必ずスタッフ全員に「皆さんお疲れさんでした」と労いの言葉をかけてから帰ったと言う。ト全の人柄が偲ばれるエピソードである。卜全の葬儀の際には「ひまわりキティーズ」のメンバーも駆けつけ、「老人と子供のポルカ」の大合唱で卜全を葬送した。太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品★印は黒澤監督作品
出典:wikipedia
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