石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。最終階級は陸軍軍医中将。功四級、医学博士。731部隊の創設者として防疫活動や細菌戦の研究、人体実験を主導した。千葉県山武郡芝山町(加茂)の旧家主、父・石井桂と母・千代の間に四男として生まれる(長男・彪雄は日露戦争で戦死し、次男・剛男は陸軍嘱託、三男は陸軍技師として後に731部隊隊長となる)。県立千葉中学から金沢の四高を経て、京都帝国大学医学部入学。1920年(大正9年)3月、京都帝国大学医学部卒業。指導教官は清野謙次。陸軍軍医候補生として志願した。1921年(大正10年)、陸軍軍医中尉(二等軍医)となる。東京第一陸軍病院に軍医として勤務。1924年(大正13年) - 1926年(大正15年)、京都帝国大学で大学院生として細菌学、衛生学、病理学を研究。1925年(大正14年)、陸軍軍医大尉(一等軍医)に昇進。1927年(昭和2年)6月、「グラム陽性雙球菌に就ての研究」により博士号(医学博士)を取得。京都衛戍病院勤務となる。この年、京都帝国大学総長、荒木寅三郎の娘、清子と結婚する。1928年(昭和3年)4月 - 1930年(昭和5年)4月、海外視察。1930年(昭和5年)末、海外視察修了・帰国する。1931年(昭和6年)1月、陸軍軍医少佐(三等軍医正)に昇進。陸軍軍医学校教官に任命される。1925年の「ジュネーヴ議定書」(生物化学兵器の禁止)に着目し、細菌戦部隊の創設を提唱。1932年(昭和7年)1月、「石井式細菌培養缶」を開発。この特許を申請。翌年に認められる。4月、陸軍軍医学校防疫部の地下室に「防疫研究室」を設立。「石井式濾水機」の試作品が完成。8月、満洲へ出張。ハルビン市背陰河東方数十キロの田舎に細菌兵器防衛研究所の設立開始。機密保持のため、研究所は東郷部隊の暗号名で呼ばれ、石井は氏名を東郷と名乗る。1933年(昭和8年)3月、陸軍軍医学校において細菌学を教育する。9月30日〜1934年(昭和9年)3月30日までの半年間、再び満洲に滞在。1935年(昭和10年)、陸軍軍医中佐(二等軍医正)に昇進。1936年(昭和11年)、東郷部隊が正式な部隊となる。東郷部隊を母体として関東軍防疫給水部を編成。防疫給水部は、戦災や災害時の防疫、および清潔な飲料水を兵士や被災者に供給する部署である。帝国陸軍の習慣によって部隊長の名を冠した「石井部隊」の通称名で呼ばれる。1938年(昭和13年)8月、陸軍軍医大佐(一等軍医正)に昇進。1939年(昭和14年)5月11日、ノモンハン事変勃発により、野戦防疫給水部長として出動。7月8日から10日間の予定で海拉爾、将軍廟方面にて防疫給水部隊の指導にあたる。10月1日、ノモンハンでの石井部隊の防疫成果が認められ、関東軍防疫給水部は第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初の感状を授与され、石井の顔写真付きで新聞報道でも取り上げられた。1941年(昭和16年)3月、陸軍軍医少将に昇進。4月、陸軍の全部隊を対象に秘匿名称である通称号が導入されたのに伴い、関東軍防疫給水部本部は「満洲第731部隊」の通称号が割り当てられる。1942年(昭和17年)8月1日、関東軍防疫給水部を離れる。北支那方面軍隷下で山西省太原に司令部を置く第一軍の軍医部長に就任。1943年(昭和18年)8月、陸軍軍医学校附として東京に帰還。1945年(昭和20年)3月、陸軍軍医中将に昇進。関東軍防疫給水部長に再度就任。5月、終戦直前に満洲第731部隊を「満洲第25202部隊」と改称する。8月、ソ連軍の侵攻によりハルビンを脱出し帰国。戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦犯容疑を受けるが、GHQのダグラス・マッカーサー司令官とチャールズ・ウィロビー少将の協議によって、詳細な研究資料を提供したため、訴追を免れたとされる。その後、新宿区内で医院を開業し、近隣の住民が怪我や病気になると無償で診察、治療を行ったという。晩年にはキリスト教に入信した。1959年(昭和34年)10月9日喉頭癌のため国立東京第一病院で死去(67歳)。葬儀委員長は、関東軍防疫給水部長に一時期就任した北野政次が務め、墓は河田町月桂寺に建てられる。常石敬一は731部隊は細菌兵器を実戦で使用し、石井が指揮していたと主張している。2003年(平成15年)、ジャーナリスト青木冨貴子により、石井本人が1945年に書いた大学ノート二冊に及ぶ「終戦メモ」が発見される。References
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。