潼関の戦い(どうかんのたたかい)は、中国後漢末期の211年(建安16年)に、曹操と、涼州の馬超・韓遂ら関中十部の連合軍が潼関周辺において行った戦い。涼州は、後漢の霊帝の末年ごろから羌族や氐族の反乱が頻発し、辺章や韓遂、王国などの諸将がこれに同調し、耿鄙や傅燮など多くの官人が殺害されるなど混乱状態にあった。反乱軍同士の内紛も頻発し、やがて韓遂と馬騰の勢力が台頭する。後漢朝は討伐軍をたびたび送るも、黄巾賊の残党や幽州の張挙、張純、益州の馬相、荊州南部の区星、周朝らの反乱が各地で頻発し、また、霊帝の病没後の政治的混乱(十常侍の乱や董卓の乱)もあって韓遂らを武力で制圧することはできなかった。韓遂と馬騰は同盟関係にあったものの、やがて互いに争うようになり、まもなくそれぞれが献帝を奉戴した曹操に人質を差し出して帰順するようになる。208年には張既の薦めにより馬騰は一族を引き連れて入朝し、代わって子の馬超がその軍勢を率いていた。211年3月、曹操が鍾繇・夏侯淵らに命じて漢中の張魯を討伐しようとした。馬超・韓遂らは自分の領土が攻められると疑心暗鬼になり、共に兵を挙げたことから戦役は始まる。馬超・韓遂ら率いる関中軍(西涼軍)は、曹操の軍勢に劣る兵力ながらも、羌族を中心とする騎馬兵をよく扱い奮闘をみせた。211年7月、馬超・韓遂ら関中軍と曹操は潼関で睨み合っていたが、曹操の部将の徐晃・朱霊は蒲阪津を渡り黄河の西岸に陣地を作り、攻撃してきた梁興を破った。そこで曹操は黄河を北に渡河するが、馬超は曹操軍の渡河に乗じて追撃し、曹操は命からがら許褚・張郃に守られて対岸へ逃げるという有様だった。曹操は黄河西岸に渡り、甬道(両側に防壁を築いた道)を築きながら黄河に沿って南下し、部隊を分割して渭水を渡らせ陣地を築き、攻撃してきた関中軍を伏兵を用いて破った。211年9月、曹操は渭水を南に渡った。次第に戦線が膠着し始め、馬超と韓遂と曹操の三者は馬上で会談を設けたが、その際、許褚が曹操のそばで目を光らせていたため、馬超は手出しができなかった。前後、曹操の参謀賈詡が考案した離間の計にかかった馬超と韓遂は互いに疑いあった。そこで曹操は先ず軽鋭の兵を関中軍と戦わせて、しばらく戦ってから騎兵を用いて関中軍を挟み撃ちにして、大勝し、成宜・李堪らを斬り、馬超・韓遂らは敗走した。衛覬伝に引く『魏書』によると、この時の戦役における曹操軍の戦死者は5桁にのぼったという。また、衛覬は鍾繇のやり方が関中の諸将の疑惑を招く危険を警告していたことから、この後曹操にいっそう尊重されるようになったという。馬超・韓遂が反逆したので、先に曹操領に入朝していた馬騰ら馬超の一族達や韓遂の子と孫は曹操に捕らえられて殺された。馬超は再び挙兵し、212年に涼州刺史の韋康を殺害し、冀城を根拠地とし、曹操軍の涼州方面司令官の夏侯淵を破るなど、しばらくは関中において抵抗を続けた。しかし、それも長くは続かず、反逆した楊阜らに冀城を奪われると、漢中の張魯に降る。馬超は張魯に兵を借り、戻って、祁山を包囲したが、夏侯淵軍の先鋒の張郃に攻められ、戦わずして逃走した。やがて馬超は張魯に見切りを付けてその元を去り、成都の劉璋を攻めていた劉備に帰順。劉備と共に成都を攻め、益州(蜀)を手中にした劉備の客将として一生を終える。他方、韓遂は羌族と組んで同じく夏侯淵と戦うが敗れ、西の果て西平に逃れて病死した(殺害されたとも)。曹操は馬超・韓遂両名の没落と前後して、夏侯淵・張郃ら諸将に命じて楊秋や梁興といった関中十部の残党や独立勢力の宋建を下して涼州を平定した。曹操は漢中の張魯も降伏させ一時的に漢中を手中におさめるも(陽平関の戦い)、まもなく漢中の支配権をめぐって劉備と争うことになる。(定軍山の戦い)『三国志演義』においては馬超の挙兵と馬一族の殺害の順序が逆になっており、馬超は一族を殺された復讐の念から曹操に兵を挙げるという図式になっている。馬超は鬼神のごとき武勇を発揮し曹操を追い詰めるも、結果的にはやはり離間の計で韓遂と仲違いし、敗北する。許褚の活躍も史実以上に大きく取り上げられており、特に戦役中盤に挿入された馬超との一騎討ちでは、「動きが悪くなるからこんなものはいらぬ」として鎧を脱ぎ棄て、上半身裸で馬超と互角に武を競う名場面が用意されている。潼関の戦いには曹操の息子である曹植らも従軍していた。この時、留守役として鄴に残っていた曹丕は、弟たちの別れを惜しんで「感離賦」を作り、曹植の方も従軍中に「離思賦」を作って兄曹丕への思慕を表明している。
出典:wikipedia
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