八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての皇族・歌人。八条宮(桂宮)家の初代。正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)。同母兄に後陽成天皇・興意法親王らがいる。幼称は六宮・胡佐麿(古佐麿)・員丸、通称は幸丸・友輔。一般には八条の皇子と呼ばれた。邦慶親王が織田信長の猶子であったのに倣い、智仁王も天正14年(1586年)今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし天正17年(1589年)、秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約となり、同年12月に秀吉の奏請によって八条宮家を創設した。天正19年(1591年)1月、親王宣下を受け、次いで元服して式部卿に任じられる。慶長6年(1601年)3月一品に叙せられた。天正5年(1600年)7月細川幽斎から古今伝授を受け、寛永2年(1625年)12月これを甥の後水尾天皇に相伝し、ここにいわゆる御所伝授の道が開かれた。さらに造庭の才にも優れ、元和6年(1620年)から家領の下桂村に別業を造営する。この桂御別業が現在の桂離宮であり、八条宮は後に桂宮と呼ばれた。関ヶ原の戦い直後、兄の後陽成天皇は当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうと考えた。そこで、時の天下人である徳川家康に譲位の旨を打診したが、家康は智仁親王が秀吉の猶子であったことを理由に反対した。そして結局、皇位は慶長16年(1611年)に良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなった。寛永6年(1629年)4月腫物を患って薨去。享年51。子孫は八条宮(桂宮)家や清華家の広幡家として栄えた。学問文芸の素養が高く、若年から和歌と連歌に堪能であった。文禄5年(1596年)細川幽斎から『伊勢物語』『雨中吟』などの講釈を受け、二条派歌学を学び、また、里村紹巴から連歌を学び、一字名を「色」と称している。長じてからは自邸でしばしば歌会を催し、近衛信尋(甥)などの後進の歌人の育成にも尽力した。自筆の詠草や私撰集が多数残されている他、『智仁親王御記』(1599年 - 1604年)・『煙草説』(1609年)・『江戸道中日記』(1617年、1625年)などの著述が知られている。また、古典の収集・書写にも熱心で、現在「桂宮本」(宮内庁書陵部蔵)と呼ばれる蔵書群の基礎を築いた。
出典:wikipedia
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