佐々木 義清(ささき よしきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の佐々木一族の武将。鎌倉幕府御家人。佐々木秀義の五男。出雲源氏の祖。生年は不詳だが、父秀義が平治元年(1159年)の平治の乱で敗れ、奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受けて渋谷重国の娘を娶って生まれたのが義清とその弟厳秀である。義清は、その後成年するまで渋谷荘で過ごし、大庭景親の娘を娶った。治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で打倒平氏の兵を挙げると、異母兄である定綱・経高・盛綱・高綱らは頼朝の元に参陣したが、義清は母方の祖父の渋谷重国とともに、平氏方の大将で舅である大庭景親のもとに参陣し、8月23日の石橋山の合戦では頼朝の敵方に加勢して戦った。その後、10月には黄瀬川の合戦で頼朝方に転じたが、義清が当初敵方であったため、頼朝から信に置かれず、一旦は兄盛綱に身柄を預けられた。しかしまもなくこれは許され、近江守護となった父秀義に従って行動した。元暦元年(1184年)、平氏残党の反乱である三日平氏の乱で、伊賀の守護大内惟義が敗れると、秀義・義清父子は直ちに出陣、甲賀の軍勢で撃退したが、秀義は流れ矢に当り戦死した。文治5年(1189年)の奥州合戦では兄盛綱とともに従軍し、これにより以後は、鎌倉幕府の有力御家人の一人となる。建永元年(1206年)には将軍御出を掌る奉行となり、将軍源実朝の信頼が厚かったことがうかがえる。建保元年(1217年)の和田合戦では御所を警固し、結城朝光とともに大倉に陣を張っている。承久元年(1219年)左衛門尉に補任。同年『吾妻鏡』に御調度懸として登場する。承久3年(1221年)の承久の乱の功により、出雲・隠岐両国の守護となり、彼国に下向し、嘉禄元年(1225年)出雲守、安貞元年(1227年)隠岐守に補任される。出雲・隠岐守護職は、初め長男政義に、ついで次男の泰清へと相続された。泰清の子孫は隠岐・出雲の各地に分封されて土着し出雲源氏となった。
出典:wikipedia
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