LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

鶴姫 (大三島)

鶴姫(つるひめ、1526年(大永6年)? - 1543年(天文12年)?)は、戦国時代の伊予にいたとされる伝承上の女性。姓名は大祝 鶴(おおほうり つる)。大山祇神社(愛媛県大三島)の大祝職(大宮司)・大祝安用(やすもち)の娘といい、兄に大祝安舎(やすおく)と安房(やすふさ)がいたとされる。鶴姫の生涯は、たびたび大三島に侵攻してきた周防の大内氏の軍勢と戦ってこれを退けるものの最後は戦死した恋人の後を追って自殺したという「鶴姫伝説」として知られているが、それが広まった発端は、大祝家の末裔で大三島大社講社長を務めた三島安精(みしま やすきよ)が1963年(昭和38年)に、大山祇神社所蔵の甲冑類のうち、重要文化財に指定されている紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)を見て、女性用の鎧ではないかと思い付いたことにある。三島は、大祝家の事績を綴った社伝の『大祝家記』(おおほうりかき)という文献に鶴姫という名の女性の伝記が記載されているとして、その伝記と同胴丸とを結び合わせ、これを豊富なフィクションで脚色した悲劇ロマンス小説の『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』を1966年(昭和41年)に執筆・出版し、同書の内容が時間の経過とともに「鶴姫伝説」として人口に膾炙していったのである(知名度上昇の過程にて後述)。しかし、鶴姫の実在性やその事績については、史料が抱える問題や当時の中国・四国地方の歴史的状況といった観点から疑問が出されており、紺糸裾素懸威胴丸が彼女の使用したもので、かつ女性用の鎧であるとする言説についても、一部より批判されている(実在性をめぐる疑義にて後述)。なお、大三島の下条地域には「おつるさん」という小さな祠があるが、関係は不明である。戦国時代、周防の大内氏が中国・九州地方で勢力を拡大し、伊予の河野氏の勢力下である瀬戸内海へもその勢いが拡大の一途を辿っていた。大山祇神社の大祝職たる大祝家当主は、神職を務める立場から戦場に赴くことはなかったが、戦が起きた場合は一族の者を代理役の陣代に立てて派遣していた。1522年(大永2年)に大内氏が大三島へ侵攻してきた際には、鶴姫の兄・安舎が父・安用の陣代として出陣し、大祝家と同じく越智氏に出自する河野氏や村上水軍の援護を受けて大内軍を撃退したという(第一次大三島合戦)。『大祝家記』によれば、鶴姫は1526年(大永6年)正月、伊予・今治の別名にあったという大祝家屋敷にて、大山祇神社第31代大祝職・大祝安用とその女中・妙林との間に生まれたとされる。彼女は顔立ちが整った大きな女児で、生後百日足らずで声を上げて笑い、成長すると力量・体つきも優れて男子も及ばぬほどの勇気を備えるに至り、人々から明神の化身ではないかと噂されたという。父・安用はそんな鶴姫を寵愛し、幼時より武術や兵法を習わせたとされる。1541年(天文10年)6月に大内氏配下の水軍の将・白井縫殿助房胤らが侵攻すると、大祝職となった長兄・安舎に代わって次兄の安房が陣代となって三島水軍を率いて出陣し、河野氏や来島氏と連合して大内軍を迎撃するも討死した。兄の戦死を聞いた鶴姫は三島明神に祈請し、明神を守護しようとして甲冑を着て馬に乗り、大薙刀を振るって敵陣へ駆け込むと、「我は三島明神権化の者なり、我と思わん者は出だせたまえ」と大音声を張り上げて味方を奮起させ、大内軍を撃退したという。同年10月にも大内氏が侵攻すると、戦死した安房に代わって16歳の鶴姫が出陣し、大内軍を撃退したとされる。この戦で鶴姫は甲冑の上に赤地の衣を羽織って早舟に乗り込み、これを見て遊女が近づいてきたと誤認し油断した敵方に攻撃を仕掛け、敵船に乗り移ると素早く敵将の小原中務丞隆言を捕えて討ち取り、焙烙や火矢を放って敵軍を追い払ったという。また、この戦いの後に安房の跡を継いで陣代となった、安舎配下で一族の越智安成と鶴姫はやがて恋仲になったとされる。1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣し、瀬戸内海の覇権の確立を目論んだ。河野氏とその一門は全力で迎え撃つが、多勢の大内軍の前に多くの一族が討たれ、鶴姫の右腕で恋人でもあった安成も討死した。これを受けて大祝職の安舎は大内氏との講和を決断したが、鶴姫は残存兵力を集結させると島の沖に停泊中の大内軍に夜襲を仕掛けて壊走させ、大三島から追い出した。しかし戦死した安成を想う鶴姫は、戦いの後に三島明神への参籠を済ませると、沖合へ漕ぎ出し、そこで入水自殺して18歳の生涯を終えたと伝わる。鶴姫は辞世の句として「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」と詠んだといい、『大祝家記』は、彼女の伝記を「鶴姫入水したまう所、鈴音いまに鳴り渡るという也」という一文で締め括っているとされる。ただし、『大祝家記』は戦後の彼女の動向について、自殺以外の2つの別伝も紹介しているという。1つは今治の大祝家屋敷に戻って祈祷に明け暮れる生活を送ったというもの、もう1つは今治の別宮宮司の大祝貞元の子・八郎安忠(のち安舎養子となり大祝職を継ぐ)に嫁いだとするものである。小説『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』が発表されるまで、鶴姫は大三島の島民にすら知られていなかったが、同書の刊行から2年後の1968年(昭和43年)、甲冑・武具研究家の笹間良彦が、紺糸裾素懸威胴丸を着用した姿の鶴姫の肖像画を描き、大山祇神社へ奉納したところ、これが人気を集め、肖像画が大三島の観光ポスターや地酒のラベル、土産物の煎餅や饅頭の箱のデザインに広く利用されたことで、鶴姫は「大三島の観光の宝」ないし「島のシンボル」的存在として知名度を高めることとなった。1990年(平成2年)3月には、ふるさと創生事業として「国宝とロマンの島」をキャッチフレーズに町のイメージ形成に注力していた当時の大三島町(現・今治市)により鶴姫の銅像が藤公園に設置され、さらに1993年(平成5年)、『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』を原案としたテレビドラマ『鶴姫伝奇 -興亡瀬戸内水軍-』が放映されたことで全国的に名を知られるようになった。1995年(平成7年)より、鶴姫の一生を題材にした「三島水軍鶴姫まつり」が毎年大三島にて行われているほか、2009年(平成21年)4月にはわらび座によりミュージカルの『鶴姫伝説-瀬戸内のジャンヌ・ダルク』が愛媛県東温市の坊っちゃん劇場にて1年間ロングラン公演され、のべ8万7千人余を動員している(2014年(平成26年)11月より2016年(平成28年)1月まで再演)。上記の通り、鶴姫は1966年の小説発表後から平成初めにかけて、観光や各種メディアによる紹介を通じて知名度を高め、著名な「歴史的」人物となって関連する行事も催され、大山祇神社所蔵の紺糸裾素懸威胴丸も「女性用の」鎧として知られるようになったが、鶴姫の実在性については、主に歴史的・史料的観点や、甲冑研究の知見から疑義や批判が挙げられている。1988年(昭和63年)時点ではあるが、当の大山祇神社の宮司ですら、鶴姫の伝承にはいまだ確たるものがないと証言しており、郷土史家の喜連川豪規(きれがわ ひでき)も、鶴姫について「鎧が生んだお姫さま」とコメントしている。小説家の和田竜は、著書『村上海賊の娘』において、主人公の景(村上武吉の娘)が憧れる人物として鶴姫を登場させているが、鶴姫伝説については「観光資源なので、大事にしないといけない」と置きつつも「僕は正直、創作だと思ってるんですよね。なので小説の中では幻だ、という書き方をしました」と述べている。三島安精が『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』の執筆にあたって下敷きにしたという『大祝家記』は、三島によれば江戸時代後期の1761年(宝暦11年)正月に大祝安躬が同家相伝の記録や口伝の書をまとめて著した「門外不出」の家記であり、文体は『予陽盛衰記』に似ているという。彼が小説執筆に際して実際に参照したのは、さらに祖父の安継が1876年(明治10年)頃に原本を書写したものであるとされるが、大山祇神社は『大祝家記』の所在を確認しておらず、三島が所持・使用していたという安継による写本も、彼の没後は行方がわからない。また、1541年10月の合戦で、鶴姫は大内氏の武将・小原隆言を討ち取ったとされるが、小原についてはその後も生存し、大内氏が滅亡してから毛利氏に臣従したことを示す記録が一方で残っている。1543年6月の合戦については一次史料が存在しない上、この時期の大内氏は第一次月山富田城の戦いで出雲の尼子氏に敗北し、義隆の養嗣子・晴持が死亡した直後であり、安芸・備後の尼子方勢力に対して備える必要があっても、伊予にまで戦線を広げる理由がないと、作家の鷹橋忍により指摘されている。なお、先述したように『大祝家記』は1761年に大祝安躬が著したとされるが、当時の大祝家は1658年(万治元年)に、安躬の高祖父である安長が社家との間に相論を構え、松山藩により大祝職を17年間停止されて以降、社家の一部と対立関係が続いていた。安長の後、大祝職への復帰が許された安朗(安躬の祖父)も、有力社家と摩擦を起こして藩に訴えられた末に藩領内からの追放を命じられ、一時は大祝家が一家ごと大坂に移住し浪人生活を余儀なくされる事態が発生していた。さらに代が下ってなおも、安躬自身が社家側との間に争いや訴訟を抱えていた。鷹橋は、『大祝家記』が執筆された動機として訴訟を大祝家の方へ有利に導こうとする意図があったのではないかとし、藩や社家に対して正当性を訴えたい大祝側が、自らを仮託して鶴姫という悲劇の生涯を歩んだ人物を生み出したのではないかと推察している。大山祇神社所蔵の紺糸裾素懸威胴丸は、1901年(明治34年)3月27日に、「紺糸威胴丸」の名称で他の甲冑武具類とともに古社寺保存法に基づく国宝(いわゆる「旧国宝」、現在の重要文化財)に指定された(「甲(よろい)52領」として一括指定されたうちの1領)。その後1969年(昭和44年)6月20日付けで、従前一括指定されていた上述の「甲」は1点ずつ分割指定され、「紺糸威胴丸」は現行の「紺糸裾素懸威胴丸」に名称変更された。神社側はこれを鶴姫が着用したものと唱え、日本に現存する唯一の女性用の鎧であるとしている。胴丸は、黒漆塗盛上本小札(ほんこざね)を鉄札と革札の1枚交ぜとし、紺糸でもって胴部を毛引威で、草摺を素懸威で仕立てる。胴の立挙(たてあげ)は前2段、後3段、衝胴(かぶきどう)は5段で、草摺の間数および段数は11間5段であり、兜・大袖は欠いている。寸法については、胴高は胸板より胴尻までが35cm・背中の押付より胴尻までが39.5cm、胴廻りは立挙部が108cm・胴尻部が75cm、草摺の長さは32.5cm、小札は一枚あたり長さ6.9cm・幅1cmである。同胴丸の大きな特徴としては、胸部が膨らんでいる一方で腹部が腰に向かって細く絞られ、草摺の間数が一般の胴丸より多く、脇部分が「仕付脇引」(しつけわきびき)と呼ばれる特殊な構造をとっていることが挙げられる。三島は、胸部が大きく膨らみ腰部が細く窄まった胴の形状について女性の体形を反映したものと考え、同胴丸を『大祝家記』に記されているとされる「鶴姫の比類なき働き、鎧とともに今に伝はるなり」という一節に結び付けると、紺糸裾素懸威胴丸を鶴姫の着用した鎧であるとする説を提唱して『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』を執筆・発表し、続いて神社も同説を掲げるようになった。しかし、この説はあくまでも三島個人の思い付きによるものであり、確実な記録や厳密な研究に基づいて導き出されたものではない。また、室町時代末期の胴丸や腹巻の形状については、山城での攻防を中心とする徒歩戦が一般化したことを受け、着用者の活動や歩行の便の向上のため様々な工夫や変化が施されたと、日本甲冑の研究者である山岸素夫から指摘されている。すなわち、腰回りから大腿部を防御する草摺の間数を、それまでの定数だった7間ないし8間から9間・10間・11間とより細かく分割して足さばきを良くし、肩にかかる胴の重量を腰にも分散させるために胴裾を細く仕立て、呼吸を楽にするべく胸回りを大きめに張り出して胸部に間隙を設けるようになり、誇張した胸部と引き締まった腰部を備えた軽快な逆三角形状の胴へ変化する傾向にあったのである。山岸は女性に大鎧・腹巻・当世具足など、一般に男性用とされる様々な甲冑を試着させる実験を行ったところ、いずれも問題なく着用できた結果をも挙げて、紺糸裾素懸威胴丸は大山祇神社が説くような女性用の鎧ではなく、室町時代末期の特徴が顕著に表れたものと理解すべきであると結論付ける。それに加えて、胸部が膨らみ腰が窄まった胴の形をもって女性用の鎧であるとすることに対しては、そうするならば室町時代末期の甲冑はすべて女性用となってしまうと批判し、「甲冑を知らぬ者の言である」と否定的な見解を示している。上記の山岸の批判を補う形で、鷹橋忍は「欧米化した女性ファッションに馴染んだ現代人の感覚をもって「婦人物」(レディース)と断じるのは、些か性急に思える」と述べており、漫画家活動の傍ら歴史研究をも手がける本山一城も、大山祇神社宝物館を訪れた際のこととして、「鶴姫の鎧」の話を信用した見学客が、展示してある別の室町時代後期の甲冑数点を指して、ここにもあそこにも女性用の鎧があると叫んでいたのを見かけたという話を『刀剣春秋』紙上に紹介して、神社の言説を問題視している。なお、江戸時代の大名家の一部においては、婚礼調度品の一つとして女性のための甲冑がまれに製作されたことがある。それらは基本的な構造が通例の男性用甲冑と変わらず、実際に着用されたかどうかも不明な、形式的なものでしかないが、彦根藩主井伊家伝来・弥千代所用の朱漆塗色々威腹巻(彦根城博物館所蔵)や松代藩主真田幸貫の正室・雅姫所用の魚鱗胴畳具足(真田宝物館所蔵)などをはじめいくつかが現存している。その点からも大山祇神社による「紺糸裾素懸威胴丸は日本に現存する唯一の女性用の鎧である」という主張は正確ではない。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。