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上表文

上表文(じょうひょうぶん)とは、君主に文書を奉ること。またその文書をいう。上書(じょうしょ)ともいう。倭の五王の最後の倭王武は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、大和朝廷の威力が行き渡っているかのように誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれているものが見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。この上表文を書いた倭王朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定され流こともあるが確証はない。(→古墳時代)第1回遣隋使は、600年(推古8)に派遣された。『隋書』にみえるが、『日本書紀』には記載はない。因みに、『隋書』の著者は、魏徴(?- 貞観17年(643))である。文帝の開皇20年(600年)は、推古8年である。阿毎多利思北孤は天を兄とし、日を弟とし、その名は天より垂下した尊貴な男子という意味で、天孫降臨を思わせる。「阿輩雞彌」はオオキミの音を写したものと見られている。そうすると6世紀末の時点で俀王は国内で「大王(オオキミ)」と称されていたことが分かる。第2回目遣隋使として、阿毎多利思北孤が、隋の皇帝煬帝に奉った有名な国書(上表文)は次の通りである。これを見た煬帝は、立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたという。これに対して、煬帝が倭王に宛てた国書は、『日本書紀』によれば小野妹子が紛失したという。第三回遣隋使は608年(推古天皇16年)に、隋の皇帝あての国書を持たせ、また、小野妹子を大使に、難波吉士雄成を小使に、鞍作福利を通事(つうじ)に任命し、裴世清一行と留学生8人を渡航させた。その時もたせた国書の文面が『日本書紀』推古天皇16年9月の条に載っている。この国書には、さすがに前回のような「天子」や「書を致す」などの字句や表現を用いていない。しかし、「倭王」と書かないで「天皇」号を用いている。これが事実であれば倭国の外交文書上、はじめて天皇号を用いられたことになる。第1回遣唐使には、630年(舒明2)犬上御田鍬が遣わされた。貞観5年(631年)に倭国は使者を派遣して、入貢し方物を献じたが、太宗は、倭国は遠い国であるから、毎年朝貢する必要はない、と担当の役所に命じた、という。中国は、この国号変更のことを『旧唐書』『新唐書』にのせている。(→倭)『続日本紀』天平勝宝5年(753年)6月8日条に、孝謙天皇が高麗(渤海)の古い記録を調べた際、渤海が国を平定した日の上表文の記述として、と聖武朝ではあったのに、今の代(孝謙朝)では渤海から上表が出されていないのはなぜかといった記述がなされている。宝亀2年(771年)12月21日条では、上表文を持った壱万福らが入京したが、同3年(772年)正月16日条において、その上表文が無礼であるとして、咎められる記述があり、先例と異なったため、受け取らない処置がとられている。さらに、同4年(773年)6月12日条、渤海国使の烏須弗(うすふつ)が上表文を持ってきたが、6月24日条において、前使の壱万福らの進上した上表文の言葉は驕慢であったので、その事情を告知して、すでに退去させてしまっていると記され、能登国司の言上では、「渤海国使の烏須弗らの進上した上表文とその函も、通例と違っていて無礼である」と報告し、朝廷に召さず、本国に帰らせる処置をとっている(『続記』の記述では、国使は、このまま帰れば、罰を受けると泣いて抗議をしたとされる)。同10年(779年)11月9日条、渤海押領(統率者)・高洋粥(こうようしゅく)らの上表文は無礼であるから進上させてはならないと記述されており、聖武朝以降は態度が変化していることがわかる。明は諸外国の国王名義の表文を持参した国家に対してのみ勘合貿易(朝貢貿易)を認め、それが無い場合には貿易を拒否した。足利義満も「日本国王」として明の皇帝永楽帝に表文を送った。『善隣国宝記』によれば、「日本国王 源表(す)」から始まる中国の伝統的な表文の形式に則っており、これに対して永楽帝は「日本国王之印」を授けている。『古事記』の選者太安万侶(?-723)が奉ったとされている序文も上表文である。

出典:wikipedia

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