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角福戦争

角福戦争(かくふくせんそう・かっぷくせんそう)とは、田中角栄と福田赳夫による日本政治史上の激しい政争・権力闘争を戦争に例えて呼んだもの。1970年頃から、竹下登が内閣総理大臣に就任する1987年(昭和62年)まで続いた。「(旧制尋常)小学校卒」をアピールして党人色が強かった田中と、一高-東大-大蔵省とエリート街道を歩んで官僚色が強かった福田は、お互いの(及びそれぞれの支持層の)出身階層の違いによるある意味で擬似階級闘争の様相を呈していたことの表れとも表現できる。なお田中と福田は大物政治家になる前にそれぞれ炭鉱国管疑獄や昭和電工事件といった疑獄事件で逮捕、訴追された過去があるという共通点が存在する(これらの事件では田中と福田の両者とも無罪が確定している)。過去戦後政治史において吉田茂と鳩山一郎、池田勇人と佐藤栄作の政争はあったが、「戦争」とまで形容されることはなかった。また、財政では田中が日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴えたのに対し、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱えている。外交(中国問題)では田中は親中派として台湾と断交してでも中華人民共和国との日中国交回復を急いだのに対し、親台派の福田は台湾とのバランスを重視した慎重路線を打ち出すなど正反対のスタンスであった。自民党内でも反田中・反福田の議員が各々存在した。1985年2月、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力をもち続ける田中角栄に竹下登・金丸信らが反旗を翻して創政会(そうせいかい)を結成。その数日後、田中が病に倒れたことによって対立軸を失った福田、三木も次第に影響力を失った中、1987年7月4日、竹下は田中派から正式に独立して経世会(けいせいかい)を結成した。この年、中曽根が総裁選不出馬を決定。田中は総裁選で二階堂を全面的に支援しようとしたが、田中派のほとんどの議員が経世会に参加したため二階堂を支援したのはわずか十数人であった。結果、二階堂は出馬を見送り竹下登・安倍晋太郎・宮澤喜一の3候補者による争いは中曽根裁定により竹下が総裁に就任した。翌1988年には三木が死去した。その後田中派・福田派はそれぞれの後継領袖である竹下登と安倍晋太郎が盟友関係にあったことから協調路線に入っていった。1990年代になると田中・福田の両者が死去したこともあり、安竹協調路線はそれぞれの領袖が代替わりする中でも続いた。1998年竹下元首相の在職40年パーティでも当時の森喜朗幹事長が「願わくはもうひとり首相を育ててほしい」と自らを売り込むほどだった。しかし、2001年に小泉純一郎が総理になると、自らが「経世会(現平成研究会)の支援を受けずに就任した初めての総理」と公言するとおり反経世会姿勢を進め、反発する野中広務らを抵抗勢力と位置づけ対立し、当事者を変えた遺恨試合として報道された。また、小泉内閣の外交問題において田中真紀子外務大臣(田中角栄の長女)と福田康夫内閣官房長官(福田赳夫の長男)が対立していたことを角福戦争と形容することがあるが、双方とも派閥の領袖ではないことから派閥抗争とは別の次元の話である。2007年9月、福田康夫が内閣総理大臣に就任すると、福田と、最大野党・民主党の党首小沢一郎の対決の構図が明確になった。これを、福田赳夫の長男である康夫と、田中角栄の「愛弟子」である小沢による角福戦争の再来として報道するマスコミもみられた。2012年12月、第46回衆議院議員総選挙にて安倍晋太郎の息子安倍晋三率いる野党へと転落した自民党が大勝した。しかし角栄の「愛弟子」であった小沢が属した日本未来の党は大敗し小選挙区では当選したのは小沢と国民新党を離党して合流した亀井静香のみであった。また角栄の娘の田中眞紀子も落選した。これにより一部のマスコミでは角福戦争に決着がついたとの見方がされた。

出典:wikipedia

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