嘉麻市(かまし)は、福岡県筑豊地方南部に位置する市。福岡県のほぼ中央部、飯塚市の南、朝倉市の北、田川市・郡の西に位置する。内陸気候のため寒暖の変動が激しい地域で、雪が降ると積雪することもある。かつて筑豊有数の炭鉱都市として栄えたが、現在はすべて閉山しており人口減少や急激な過疎化が進んでいる。市域中央部を遠賀川が流れ、市域南部は標高1000m以上の筑紫山地が連なる。戦国後期までに、現市の全域は秋月氏が支配していた。豊臣秀吉が九州征伐で攻めてきた時は、農民たちが秀吉に協力し、一夜で城を造った事で有名である(この後、秀吉は感謝の印として、農民たちに陣羽織を送った。現在は市内の大隈地域(旧嘉穂町大字大隈)にある)。島津氏との同盟を重んじ秀吉に抗戦した秋月氏は日向高鍋に転配され、当地は福岡・黒田氏の領地となった。黒田長政は遺言によって三男の黒田長興に5万石を分知し、秋月藩を立藩させた。以後、秋月藩は明治まで福岡藩の支藩として秋月(現在の朝倉市)を城下町として、黒田氏が支配した。この間、大隈は当地の中心地として栄えた。明治維新後、現市の全域では石炭産業とその関連産業が起こり、大いに繁栄した。中でも、熊田村(後の山田市)や、碓井村(後の碓井町)、及び稲築村(後の稲築町)は採炭地として、また、大隈町(後の嘉穂町)は商業、農業の中心地として、それぞれ栄えた。千手村、足白村、宮野村(いずれも後の嘉穂町)では農業の方が盛んであった。特に、昭和時代に入ると戦争(太平洋戦争)が始まり、石炭の需要が多くなり、筑豊地域は多くの人で賑わった。終戦を迎えた後も暫くは、復興を模索して混迷する日本経済のなかで、筑豊地域は産炭事業に従事する人が多く、比較的繁栄を維持していた。しかし、朝鮮戦争以後、日本が高度経済成長に向かうと、危険な採炭業は次第に魅力が乏しくなり、更に、エネルギー革命が起こると石炭の需要が急激に減少した。そのため、昭和30年をピークにして、坑夫数、人口はともに急激に減少した。炭鉱都市であった旧山田市では採炭業衰退の影響が特に大きく、人口はピーク時の約4分の1まで減少した。今尚、どの地域でも過疎化が進み、牽引役となる新たな産業の育成に苦しんでいる。さらに市の財政も厳しくなっており、経常収支比率は110%を超えている。これは福岡県内で最も高い数値である。市立市立県立最寄空港は福岡空港もしくは北九州空港上記の駅は、市内唯一の駅だが、JTB時刻表には代表駅として記載がない。また、列車の運行の本数が少ないため、一般的には福北ゆたか線の桂川駅や新飯塚駅の利用客が多い。町内に高速道路はない。最寄のインターチェンジは以下の通り。この他にも大分自動車道 甘木インターチェンジがあるが、国道322号八丁峠付近が未改良で頻繁に通行止めが発生するためアクセスしづらい。現在、峠区間のバイパスとなる八丁峠道路が建設中である。「嘉麻」という地名は古くからあった由緒あるもので、「嘉穂郡」の名は嘉麻郡と穂波郡から1字ずつ取って付けられたものである。しかし平成の大合併でこの地名を復活させるにあたり、「かま」という発音が所謂「オカマ」に通じるとして、一部の市民から合併協議会に批判的な意見も寄せられていた。その後、「オカマ」として知られ2010年に福岡市を事実上の生活の拠点としたおすぎが、かつてKBCラジオで「嘉麻市は何であたしを呼んでくれないのよぉ」と発言していたこともあり、嘉麻市内では町おこしとして「釜飯」ならぬ「嘉麻飯」(かまめし)を売り出すことを発案。2010年10月に開いたイベントにおすぎをゲストに招き、そのメニューを決めた。嘉麻市は翌2011年、おすぎを仕事で付き合いがあった原田愛子とともに観光大使に任じた。その後、おすぎは、嘉麻市に住居を構えるようになった(おすぎ曰く、別邸とのことで、あくまでも本邸は出身地の横浜市とのこと)。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。