LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

大伴安麻呂

大伴 安麻呂(おおとも の やすまろ、生年不明 - 和銅7年5月1日(714年6月21日))は、日本の飛鳥時代から奈良時代の人物。姓は連、後に宿禰。大納言大伴長徳の六男。大納言兼大将軍正三位、贈従二位。672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者になった。兄大伴御行の死後、702年に参議として公卿に列し、705年に大納言になった。壬申の年(672年)の6月、大海人皇子が近江の朝廷に対して兵を興すため東国に向かうと、倭(大和)の自宅にいた大伴吹負は皇子のために同志を募り、「一、二の族および諸豪傑」あわせて数十人を得た。「一、二の族」の中に、大伴安麻呂があったと思われる。吹負は29日に挙兵し、敵の内応によって倭京を奪取した。この成功を美濃国の不破宮に報じる使者に、大伴安麻呂、坂上老、佐味宿那麻呂がなった。彼らは無事に任務を果たしたらしい。宿那麻呂はこの後とって返して吹負の下で戦ったが、安麻呂のその後の行動は不明である。同様に吹負のもとに返ったかもしれないが、別の方面にいたかもしれない。天武天皇12年(684年)2月28日、広瀬王と大伴安麻呂が、判官、録事、陰陽師、工匠を引き連れて畿内を回り、都の候補地を探した。大伴連安麻呂の位は、このとき小錦中であった。天武天皇13年12月2日に、大伴連など50氏が宿禰の姓を与えられた。朱鳥元年(686年)1月、新羅の使者金智祥を接待するために、川内王、大伴安麻呂、藤原大島、境部鯯魚、穂積虫麻呂が筑紫に使わされた。大伴宿禰安麻呂は、このとき直広参であった。9月9日に天武天皇が死ぬと、28日にその殯宮で直広参の大伴宿禰安麻呂が大蔵のことを誄した。持統天皇2年(688年)8月10日、天武天皇の殯宮で、嘗して慟哭する儀式があった。このとき大伴宿禰安麻呂が誅を述べた。文武朝のはじめまで、大伴氏の氏上は兄の御行であり、安麻呂が政治の中枢に加わることはなかった。しかし大宝元年(701年)1月15日に御行が死ぬと、安麻呂が大伴氏の最高位となり、翌年には朝政に参議するようになった。大宝元年(701年)3月21日、大宝令にもとづく官位が授けられたとき、直大壱大伴宿禰安麻呂は正従三位に進んだ。大宝2年(702年)1月17日、従三位大伴宿禰安麻呂は式部卿になった。同年5月21日、粟田真人、高向麻呂、下毛野古麻呂、小野毛野とともに、朝政に参議することを命じられた。これが参議のはじめで、このときは参議という官職に任命されたのではなく、「参議する」という仕事を命じられたのである。同年6月24日、従三位大伴宿禰安麻呂は、兵部卿になった。以上は『続日本紀』によるもので、『公卿補任』は細部が異なる。大宝元年(701年)3月19日に安麿が従三位、中納言になり、21日に中納言をやめて散位になったとする。翌年に式部卿というのは同じだが、二箇所で1月7日と4月7日の異なる日付を記す。それから5月17日に参議になり、6月19日に兵部卿を兼ねたとする。慶雲2年(705年)8月11日、従三位大伴宿禰安麻呂は、大納言になった。11月28日に、大納言従三位大伴宿禰安麻呂は大宰帥を兼ね、その大弐に石川宮麻呂が任命された。これも『公卿補任』では異なり、安麿が4月20日に中納言、8月1日に大納言、11月14日に大宰帥を兼ねたとする。和銅元年(708年)3月13日に、正三位大伴宿禰安麻呂は大納言になった。大納言は3年前と同じだが、この事情はよくわからない。『公卿補任』は同じ月の12日に正三位になり、安麿が大宰帥をやめたと記すだけである。7月15日、元明天皇は、議政官とそれ以外の高級官人とを分けてそれぞれに訓示を与えた。大納言大伴宿禰安麻呂は前者のうちにあった。和銅7年(714年)5月1日に、大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂は死んだ。元明天皇は深く悼み、従二位を贈った。『公卿補任』によれば、このとき鈴鹿王らが遣わされた。永隆寺は、大伴氏の氏寺で伴寺とも呼ばれた。平安時代に成立した『東大寺要録』には、永隆寺は大伴安麿が建立したものとある。それによれば飯高天皇(元正天皇)の世の養老2年(718年)に奈良坂東阿古屋谷に永隆寺が立ったとする。しかし養老2年は安麻呂の死から数年の後である。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。