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小田秀臣

小田 秀臣(おだ ひでおみ、昭和5年(1930年)10月4日 - 昭和62年(1987年)11月5日)、は、日本のヤクザ。暴力団・三代目山口組若頭補佐兼本部長、小田秀組組長。昭和5年(1930年)10月4日、京都市伏見区で生まれた。昭和33年(1958年)、小田組(後の小田秀組)を結成し、明友会に参加した。昭和35年(1960年)8月9日、明友会事件が勃発した。その後、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟となった。昭和39年(1964年)、山口組・田岡一雄組長は、小田秀臣に盃を与え、田岡一雄の若衆にした。昭和43年(1968年)2月7日、田岡一雄は、地道行雄を若頭から解任した。後任の若頭に、梶原組・梶原清晴組長を据えた。山口組若頭補佐には、山健組・山本健一組長(後の三代目山口組若頭)、山広組・山本広組長(後の一和会会長)、中山組・中山美一組長、白神組・白神英雄組長(白神一朝とも名乗った。後の一和会常任顧問)、小田秀臣、小田芳一(小田吉一とも名乗った)が任命された。昭和46年(1971年)7月25日、梶原清晴は、鹿児島県硫黄島で磯釣りの最中に高波に浚われ溺死した。同年7月26日、田岡一雄は、入院中の関西労災病院で、梶原清晴の溺死を知った。山本健一、山本広、菅谷組・菅谷政雄組長、小田秀臣、小田芳一、中西組・中西一男組長(後の四代目山口組組長代行)の若頭補佐は、若頭補佐全員の互選によって、若頭を選ぶことを決定した。田岡一雄も若頭補佐全員による互選を了承した。山本広は、菅谷政雄に自分への票集めの根回しを依頼した。菅谷政雄は、山本広の依頼を了承し、他の若頭補佐に、山本広を若頭に推すように、根回しをした。同年8月、6人の若頭補佐(山本健一、山本広、菅谷政雄、小田秀臣、中西一男、小田芳一)は、後任の若頭を決めるために、互選の会議を開らいた。結果は、山本広4票、山本健一2票だった。山本広が後任の若頭に内定した。山本健一は、関西労災病院で、田岡一雄に、「山本広が若頭になるならば、自分は若頭補佐を辞任する」と云う意向を伝えた。田岡一雄は、妻・フミ子を遣わして、山本広に、若頭から降りるように説得した。山本広は、いったん若頭辞退を承諾した。後日、山本広は、関西労災病院を訪ねて、田岡一雄に若頭辞退撤回の意向を伝えた。田岡一雄は菅谷政雄を呼び、菅谷政雄に、山本広に若頭を辞退させるように頼んだ。菅谷政雄は、いったんは山本広説得を拒んだが、最終的に了解した。その後、山本広は、菅谷政雄からの説得を受けて、若頭就任を辞退した。同年9月5日、山本健一は、三代目山口組若頭に就任した。まもなく、小田芳一が、山本健一の若頭就任に反対して、菅谷政雄に「若頭補佐を降りたい」と云った。菅谷政雄は、田岡一雄に相談した。田岡一雄は、小田芳一を若頭補佐から解任した。若頭補佐には、山本広、菅谷政雄、清水組・清水光重組長、小田秀臣、中西一男、大平組・大平一雄組長(本名は松浦一雄)、竹中組・竹中正久組長(後の四代目山口組組長)の7人が任命された。その後、小田秀臣は、山口組本部長に就任した。昭和48年(1973年)、小田秀臣と織田組・織田譲二組長(本名は伊藤豊彦)は、東亜友愛事業組合と交渉し、東亜友愛事業組合沖縄支部(支部長は、宜保俊夫)を、山口組直系とした。昭和50年(1975年)7月26日深夜、大阪戦争が勃発した。昭和51年(1976年)4月、山本健一、小田秀臣ら山口組幹部8人は資本金6千万でビル管理を主業務とする「東洋信用実業」を設立し、役員となった。東洋信用実業は、「山口組会館」(後の四代目山口組本部)を建設した。また、それまで山口組幹部が田岡一雄の名代として使う慶弔の費用は、田岡一雄から出ていたが、上納金(山口組会費)から出すようにした。また、山口組若頭補佐が山口組幹部名で出す慶弔の費用も、上納金から出すようにした。同月、田岡一雄は、菅谷政雄の謹慎を解くことを、山本健一に指示した。菅谷政雄は、若頭補佐を解任され、筆頭若衆に降格となった。昭和52年(1977年)1月24日、菅谷政雄は、川内弘を破門とした。これを切っ掛けに、三国事件が勃発した。同年4月15日、三国事件を受け、山口組本部は、菅谷政雄を絶縁とした。昭和56年(1981年)7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。同年10月、兵庫県警は「山口組解体作戦本部」を設置した。同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、田岡一雄の未亡人・田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山本健一が、副葬儀委員長だった。山口組の運営は、山本健一の出所まで、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田組・益田芳夫組長(後の益田佳於)、加茂田組・加茂田重政組長(後の一和会副会長兼理事長)、豪友会・中山勝正会長(後の四代目山口組若頭)、溝橋組・溝橋正夫組長と、田岡文子で行なわれることになった。同年12月、大阪府警は「山口組集中取締対策本部」を設置した。昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区の今里胃腸病院で、山本健一は、肝硬変に腎不全を併発して死去した。これを切っ掛けに山口組四代目跡目問題が浮上した。小田秀臣は、山口組四代目に山本広を推すグループに属した。同年4月27日、山本健一の山口組組葬が、田岡邸の隣で行なわれた。施主は田岡文子、葬儀執行委員長は山口組筆頭若頭補佐・山本広、葬儀執行副委員長は、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝橋正夫だった。葬儀出席者は900人だった。同年5月、山健組健竜会・渡辺芳則会長(後の五代目山口組組長)が、山健組を継承し、山口組直参となった。この後、田岡文子は、山本広に山口組若頭就任を要請したが、山本広は断り、組長代行就任を希望した。小田秀臣は中山勝正を山口組四代目に推したが、中山勝正が断ったため、山本広を推すことにした。同年6月5日、山本広は、組長代行に就任した。その後、田岡文子は、竹中正久に若頭就任を要請した。竹中正久は断り、竹中正久は中山勝正を若頭に推薦した。他の直系組長が、中山勝正の若頭就任に反対したため、中山勝正の若頭就任は見送られた。再び、田岡文子が、竹中正久に若頭就任を要請し、竹中正久から承諾を取り付けた。しかし、溝橋正夫が「組長代行だけを置き、若頭は決める必要はない」と主張したため、竹中正久は若頭就任を止め、幹部会への出席を拒否した。同年6月14日、山本広は電話で、竹中正久に若頭就任を説得したが、竹中正久は拒否した。山本広は、田岡文子に相談した。田岡文子は、竹中正久に電話をし、田岡邸で話し合いことを決めた。竹中正久は、細田組・細田利明組長とともに田岡邸に赴き、田岡文子と話し合った。同日、兵庫県警は、田岡文子を「三代目姐」と認定した。同年6月15日午前3時、竹中正久は若頭就任を再度承諾した。同日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫が出席し、竹中正久の若頭就任が了承された。昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。出席したのは直系組長96人中46人と、田岡一雄の舎弟2人だった。同日、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木組・佐々木道雄組長、溝橋正夫、北山組・北山悟組長、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。山口組福井組・福井英夫組長は、山口組宅見組・宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市の弘田組・弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。昭和62年(1987年)11月5日、小田秀臣は心臓病で死去した。

出典:wikipedia

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