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日中共産党の関係

日中共産党の関係 (にっちゅうきょうさんとうのかんけい) では、日本共産党と中国共産党との関係について記述する。日本共産党と中国共産党とは発足当時ともにコミンテルン支部であり、日本共産党は日本の中国侵略戦争に反対し、中国共産党と連帯してきた。1943年のコミンテルン解散後も日本共産党と中国共産党は友好関係を維持した。部分的核実験停止条約問題などで日本共産党は中国共産党を支持し、党内の親ソ派を除名した。しかし、1965年の9月30日事件でインドネシア共産党が壊滅させられ、また1966年に中国で文化大革命(文革)が開始されると、日本共産党は中国共産党と距離を置くようになる。対立は深まり、1967年3月に発生した善隣学生会館事件や同年8月に発生した北京空港事件によって完全に敵対関係になった。現在も和解はされていない。以下、主に文革を背景とした日中両党の対立を取り上げる。1953年のスターリン死去の後開始されたソ連共産党のフルシチョフ指導部の路線の評価に関し、ソビエト連邦と中華人民共和国の間に深刻な対立が発生した。日本共産党は当初ソ連共産党を修正主義として批判し、中国共産党と同じような立場にたち、中国共産党からも友好的に遇されていた。1966年の日本共産党の3国(中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、ベトナム民主共和国)訪問と同時期に、中国国内の権力争いとして文革が発生した。当初課題として会談したアメリカ合衆国のベトナム侵略に反対する統一戦線の形成方法をめぐって朝鮮労働党とも意見が一致しベトナム労働党とも意見が一致したが、中国共産党との会談では不首尾に終わった。だが北京においては不一致点はあったが友好的関係は今後も保持するという結論になった。しかし追加的に中国側が申し入れてきた毛沢東との会談において、毛沢東が「北京指導部は軟弱」と突如横槍を入れる形で問題を紛糾させ、結局会談は決裂、これを期に中国共産党の中国政府をも動員した日本共産党への攻撃がはじまった。1966年3月28日、訪中していた日本共産党代表団(団長:宮本顕治)は、予定していた中国共産党との全日程を終えて離中することになっていたが、中国側から異例の申し出があり、中国共産党主席毛沢東との上海における会談が急遽設定された。宮本顕治の手記によれば、3月初めに北京で中国側と会談し、「双方の主張に共通点もあったが、不一致点も大きかった」ため、「共同声明やコミュニケを出そうという発意はなされず」次の訪問地の(北)朝鮮に向かった。平壌で共同声明を発表した後、北京を通って帰国するが、「北京はただ通過するだけで、そのまま帰国する予定であった」。しかし、中国側から共同コミュニケを発表するよう提案されたので、それに応じたという。宮本の手記によれば、双方の人員でコミュニケを作成する小委員会を作成し、意見の異なるところを避けて文面をまとめた。つまり、日本共産党は理論的にはソ連共産党を修正主義として批判していたが、ベトナム支援の統一戦線にはソ連も含める必要があると主張し、共同コミュニケではソ連を名指しで批判することには応じなかったということになる。日本共産党側の認識では、これですべての手続きは終わって、上海にいる毛沢東との最終的な会談を儀式的に経た後にコミュニケを発表することになるというものであった。しかし、上海での会談で、毛沢東は、私はあのコミュニケを読んでたいへん不愉快だった。これは主題がはっきりしない。現代修正主義とあるが、だれを批判しているのかわからない。中国共産党も日本共産党もソ連の修正主義を公然と批判しているのだから、はっきり名指しで書かなければ駄目だ。このコミュニケは妥協的だ。私はどうしてもいわなくてはならない。このコミュニケは勇気がなく、軟弱で、無力である
といい、文面の大幅な修正を求め、これに日本共産党側が応じなかったために、コミュニケは発表されないことになったという。
毛は最後にこういったと言う。
私もこれ以上話すことはない。ただ一言二言ある。あなた方の態度はソ連共産党指導部に歓迎されるだろう。これが一言目。私たちは歓迎できない。これが二言目。コミュニケは発表できない。あなたたちの方でコミュニケを出すことを要求しないのに、われわれが出そうといったのはまちがいだった
代表団は広州に移動したが、大規模な歓迎会はすべて中止された。この後、北京での会談に中国側で参加した要人の殆どは「北京は軟弱」そのままに文革で批判され失脚してゆく。日本共産党はそれまで中国製の映画の鑑賞、中国政府発行の雑誌の普及、北京放送の視聴などを、党として普及に協力してきたが、この年の5月以降文革が公然化してその影響が激しくなり、あからさまな文革礼賛と暴力革命礼賛が目立つようになったので警戒しはじめ、表向きは反対キャンペーンはとらなかったものの普及への協力は手控えだした。この後「暴力革命こそが日本の来る革命の唯一の道」であると北京放送や『人民日報』が報じはじめた。中国共産党は、「日本共産党指導部を打倒する」という方針を出し、自らの影響下にある日本共産党員に対して「日本共産党を打倒して自分たちが新しい党をつくれ」という指令を出した。不破哲三はこう述懐する。「わが党の党員で、当時、息子さんや娘さんが留学などで中国にいたりしたため、対立したまま家族が別れ別れになり、三十年間、親子の関係を断絶している同志も少なくありません」「事件が起こるまで、私たちに連帯していた人たちの中には、中国側の干渉できずなが切れ、いまだに日本の平和・民主運動の中で立場を失っている人びとが数多くいます。」中国共産党は文革時の世界各国の共産党への内政干渉を1970年代末から順次曖昧な「どっちもどっち論」や「未来志向論」などで修復していった。その流れとして1985年にも一度は関係修復のための会談を日本共産党に申し入れていた。しかし日本共産党側が「中国からの内部問題干渉」があった旨を明記し、その行動が明白な両党関係の悪化の原因であった事を明らかにしなければ不十分と難色を示した。中国共産党にはこの時上記「どっちもどっち論」「過去は忘れて未来志向」以上の譲歩と反省の用意はなく交渉は流れた。文革を国内で終結させ、対外関係も一定修復しつつあった中国共産党の当時の指導者鄧小平にとっても、これが限界であった。日中両共産党の党間関係は、1997年朝日新聞に掲載された中国共産党側からの内部問題不干渉原則違反を反省する旨の関係修復への非公式なサインを日本共産党側が見逃さず1998年に修復した。このときの合意文書では、中国共産党が文化大革命時の日本共産党への干渉について非を認めた。両党の関係が修復された1998年は、すでにソ連が崩壊した後であり、中国は国際連合代表権の獲得や文化大革命の解消を経て、社会主義市場経済といった理論でソ連型社会主義から完全に脱皮していたが、日本共産党もマルクス・レーニン主義の基本理念に対する根本的な解釈の変更を進行させ、あらゆる意味で資本主義国内の議会制民主主義政党に変貌していた。つまり、両党は国際社会に復帰し、どのような政党とも交流を持つ中国の政権政党と、日本の革新政党としての党間の交流関係を確立したのであり、1966年当時の論争や政策の対立の理論的あるいは政治的な決着をつける場はすでに完全に失われていたし、そのような決着の必要性もなくなっていたとも言える。しかしながら問題点は内部問題干渉があったか否かという点に集約され、国家機関をも動員した中国側の党間関係、国家間関係の(中国側の基準からしても逸脱する)違反(内政干渉)があり、その是正をするという中国側の言明において完結しているということに留意する必要がある。これは、中国共産党が文革期に取った「全世界への革命の輸出」路線に対する決着の手法としても画期をなすものであり、この点での誤りを認めた1998年当時の中国共産党指導部は従来の慣例を大きく変えたと言える。日本共産党は1967年以降30年間にわたり、中国共産党および中国政府との正常な関係を築くことができなかったが、この時期は中華人民共和国が国際社会に復帰し、日中国交が回復されたという重大な転機に当たっていた。中国共産党の影響を受けた日本の集団は、文革時に中国国内で起きた「武闘」をなぞるように四分五裂し、相互に相手を「日中友好の敵」と見なし宣伝でも実力行使でも攻撃しあった。またあさま山荘事件などの極端な暴力主義により理論的にも組織的にも自滅した。こうして1998年の両党関係修復の段階で、文革当時の中国がシンパとして期待した「プロレタリア文化大革命に共感する日本の真の革命党」「毛沢東思想を高く掲げた真の日中友好人士」はほぼ日本政治への影響力を失っていた。

出典:wikipedia

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