平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市にあった城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城。平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の平山城である。最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信(法印)によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされた。平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭である。下松浦党の棟梁である松浦鎮信(法印)は、豊臣秀吉の九州平定に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵された。文禄・慶長の役の後、慶長4年(1599年)に現在の城地である日之嶽に最初の築城を開始した(現・平戸市岩の上町)。しかし、完成も間近となった慶長18年(1613年)、自ら火を放ち城を破却した。理由としては、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも、最愛の嗣子久信の死によるものともいわれている。鎮信は、平戸港を挟んだ北側に「中の館」と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁とした(現・平戸市鏡川町)。ここには明治時代に松浦氏の私邸が築かれた。現在は松浦史料博物館となっている。元禄15年(1702年)、4代藩主松浦重信(鎮信)は幕府に築城を願い出て、翌元禄16年(1703年)に許可された。江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例である。これは徳川家との姻戚関係と東シナ海警備の必要性によるものと言われる。重信は山鹿素行の弟子であり、素行とともに全国を歩き資料集めを行い、山鹿流軍学に基づく縄張りがなされた。素行を平戸に迎えたいと希望したが叶わず、実子の山鹿高基・義昌の兄弟が藩士として迎えられた。実際の築城指導は山鹿義昌によってなされた。5代藩主松浦棟によって元禄17年(1704年)2月に着工され、宝永4年(1707年)にほぼ完成した。天守は上げられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用としていた。1871年(明治4年)、廃藩置県後の廃城令により廃城となり、翌年、現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し、城の建物は解体された。1962年(昭和37年)、模擬天守及び復興の見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が建てられた。天守内は松浦党などの資料館となっており国の重要文化財の環頭大刀(亀岡神社蔵)も展示されている。現在の城跡は亀岡神社の境内や亀岡公園となり市民グラウンドなどの施設がある。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(90番)に選定された。現存の狸櫓には、次の伝説が残っている。櫓の床下に狸が住みだした。天保初年(1830年頃)櫓の修理のため床板を全て剥ぎ取った。するとある夜、小姓に化けた狸が藩主の寝所にやって来て、我ら一族を櫓に棲ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護すると嘆願したので、翌日、床を元通りに戻してやったという。これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになった。
出典:wikipedia
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