韓国併合(かんこくへいごう、)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。条約上の領有権の放棄は、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度線を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。なお「韓国併合」や「日韓併合」という言葉は、条約締結という出来事だけではなく、条約締結の結果、日本が朝鮮半島を統治し続けた継続的事実を差すこともある。南下政策を進めたロシア皇帝ニコライ1世の言葉である「一度露西亜の旗揚がりたる所、そこでそれを下ろすべからず」で代表される通り、ロシア帝国は強引な拡張政策を続けていた。ロシアの拡張政策は極東に達し、清国ではアイグン条約及び北京条約によってロシアへの外満州割譲が行われた ()。日本では樺太問題やロシア軍艦対馬占領事件によって、ロシアとの対立が発生した。当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。大日本帝国による開国要求は、その要求国書において歴代の中国皇帝と同列の「天皇」を使用していたこともあり、長らく中華秩序の一翼を担ってきた朝鮮側からは、中華秩序に対する挑戦と受け取られた。朝鮮側は、大日本帝国政府による近代化の要請を内政干渉としたほか、朝鮮では大日本帝国の民間知識人による近代化のアドバイスも侵略的意図があるものと捉えられ、朝鮮王朝内部における政争の一因となった。・大日本帝国は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを容認せず、大日本帝国は江華島事件を機に朝鮮と不平等条約である日朝修好条規を締結し、これを契機に朝鮮は列強諸国とも同様の条約を結ぶことで開国を強いられた。大日本帝国側は条約締結の際、朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるため「朝鮮は自主の邦」という文言を入れることに固執した。(冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」が、即「従属国・保護国」を意味するかについて認識の差が日朝間に存在した)。大日本帝国による朝鮮開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、実権を掌握していた興宣大院君と閔妃は守旧的態度を採り続けた。が、清国側はあくまでも「李氏朝鮮は冊封体制下の属邦である」との主張を変えなかった。Evil 朝鮮半島を挟んで日清両国の関係が緊張するなか、李氏朝鮮内部においてもと外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱・甲午農民戦争が起きた。清に救援を依頼し、清は朝鮮を属領と称し派兵を行った。この事により、朝鮮の独立の怪しさが露見され、日本を不安に陥れた。、甲午改革が行われた。また、反乱終了後も、改革勢力による駐兵要求があるとして、日本軍は駐留を続けた。しかし、清国も軍の駐留を続行し、1894年(明治27年)日清戦争が勃発することとなった。日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国との間に下関条約を締結した。大日本帝国が朝鮮での独占的利権を得るために清国と朝鮮との宗属関係の排除が必要であり、下関条約によって朝鮮が自主独立国であることを認めさせることにより、大日本帝国の権益の障害となる清国の朝鮮半島における影響力を排除することに成功した。ロシアでは、皇帝がニコライ2世へと代わり、海軍根拠地をムルマンスクではなくリーバウ(リエパーヤ)に置くという不合理な決定が行われてしまった。帝政ロシア時代の政治家であったセルゲイ・ヴィッテは後に、「もしあの時ニコライ二世帝がムルマンに海軍根拠地をおく勅令を発布したら、きっと、彼自身それに熱心になったであろう。そうすれば恐らくロシアは極東の大海洋へ出ようなどとは考えなかったであろう」と回顧している。日清戦争直後の朝鮮半島では、ものの、その後大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服し遼東還付条約を締結したことで、朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し、帝政ロシアに接近した。そのため、政争が過激化した。閔妃暗殺もこの時期である。1896年(明治29年)に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館において1年あまり政務を執り行う異常事態となった(露館播遷)。ことや、朝鮮の自主独立を目的とする民間団体である独立協会からの還宮要請に応えるため、高宗は1897年(明治30年)2月に慶福宮に還宮し、皇帝が主権を取る清国や大日本帝国、帝政ロシアに対抗するため、高宗は1897年(明治30年)10月に皇帝に即位し、国号を朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から大韓帝国と改めた。同月、ロシアは、財務顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた。また、1898年1月には絶影島の日本人所有地にロシアが太平洋艦隊の貯炭庫を設置しようとする事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)。そのため排露熱が高まり、翌2月に独立協会は救国宣言上疏を行ったほか、ロシア語通訳であった金鴻陸の謀殺未遂事件も発生した (金鴻陸謀殺未遂事件)。しかしロシアは、1898年3月15日、清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、遼東半島に不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事顧問が撤退し、翌4月には露韓銀行も閉鎖された。同年8月、ロシア語通訳の金鴻陸は高宗暗殺未遂を起こしたとされ (毒茶事件)、10月に処刑された。し、「光武改革」とよばれる上からの改革を行おうとした。1898年(明治31年)、イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。1896年7月、英国人の税関長ジョン・マクレヴィ・ブラウンが財政顧問となった。1897年10月、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル()が、財政顧問を英国人ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフ(Kiril A. Alexeev)へと変えようとする事件が起きた。韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた。大韓帝国においては偽造勅許証が多く出回っており、また秘密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった。しかし、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた。兪吉濬によれば、仁川監理の河相驥が白銅貨偽造に手を染めていたとされる。金亨變によれば、革命一心会に所属する兪吉濬が徐相集や河相驥に白銅貨偽造を行わせたとされる。1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、貨幣の原盤の流出元とみられる典圜局は廃止され、1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し、硬貨は大阪造幣局で鋳造されることとなった。1905年8月、ブラウンは税関長を辞め、韓国を去った。ロシアは、1902年4月に清国と満州還付に関する露清条約を結ぶものの、対日強硬派のアレクサンドル・ベゾブラーゾフやエヴゲーニイ・アレクセーエフの勢力が強まることで、逆に以下の「新方針」を決議して、譲歩政策を撤回した。その後、ロシアは「新方針」に基づき、以下の決議を行った。このロシアの「新方針」は、欧米が日本を支援する要因となった (龍岩浦事件)。反対に、軍部出身者を中心とした中国への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、「我が国上下輿論沸然として鼎の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併呑を論じ、合邦を説くこと盛んなり」という記事にされるなど、国論は併合賛成・反対に二分されていたが、1909年7月6日の閣議で併合方針は明確となった(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 )。元韓国統監であり最後まで韓国の自治にこだわっていた伊藤博文の暗殺で、韓国併合推進派は力を得て親日派と早期併合に向かった。伊藤博文については、現在も日韓双方で解釈が異なっている。伊藤博文は、国際協調重視派の軍部としばしば激しく対立した。また、韓国併合については、保護国化による一時的(実質)な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた。実際に伊藤博文は1907年7月29日にソウルで「日本は韓国を合併するの必要なし。合併は甚だ厄介なり。韓国は自治を要す。」と新聞記者たちを前に演説している。近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述もあり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。しかし後に考えを改めた伊藤博文は、1909年7月6日の併合方針の閣議決定を否定していない。統監として朝鮮の権限剥奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与で抗日独立派から敵視される立場だった。死の間際には、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれている。近年の韓国では、伊藤博文を殺害した安重根をテロリストではなく、祖国の英雄として解釈している。そのため、伊藤が併合反対派であったことや、安重根がテロリストと呼ばれた当時の朝鮮や日本側の見識とは異なった認識がなされている。韓国では、「伊藤博文は対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していたが、1909年(明治42年)4月に桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤に「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した。伊藤博文は2週間後に東京で行った演説でも、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」と併合を容認する発言をして聴衆を驚かせた。伊藤暗殺時には、大日本帝国政府内において朝鮮併合に反対する政治勢力は存在しなかった。」としている。大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州に権益を得た帝政ロシアが南下政策を取りつつあった。当初、大日本帝国側は外交努力で衝突を避けようとしたが、帝政ロシアとの関係は朝鮮半島や満州の利権をどちらが手に入れられるかで対立した。大日本帝国とロシアは満韓交換論などめぐり交渉を続けたが、両国の緊張は頂点に達した。1904年(明治37年)には日露戦争の開戦にいたる。大日本帝国政府は開戦直後、朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、1904年(明治37年)2月23日に日韓議定書を締結させた。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本側への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦して、大韓帝国政府内への影響力を強めたり、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻すなどして、大日本帝国による保護国化を進めていった。日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。 桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。桂・タフト協定および、第2次日英同盟、日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約によってロシアにも韓国に対する優越権を認めさせた結果、事実上、英米露が大韓帝国に対する日本の支配権を認めた結果となった。なお、韓国の歴史家ではこの桂・タフト協定が日本によって韓国が併合された直接の原因であるとするものもいる。英米政府およびロシア政府から朝鮮半島に関する支配権を承認された大日本帝国政府は、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)を大韓帝国と締結する。この協約によって大韓帝国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上、保護国となる。12月には、統監府が設置される。高宗は「条約締結は強制であり無効である」と抗議をする。一方で、高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする「日省録」や「承政院日記」も残されている。また締結時に学部大臣だった李完用も閣議で『わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は2回の大戦争に従事し、多大の犠牲を出して、ようやく今日における韓国の地位を保全したのだから、これ以上わが国の外交が原因で東洋の平和を乱し、再び危地に瀬するような事は、その耐えざる所』とし、日本との協約締結を肯定している。現在の韓国では、李完用を売国奴とみなす見解が多い。1907年(明治40年)、高宗は第2回万国平和会議に密使を派遣した(ハーグ密使事件)。しかし第二次日韓協約は当時の帝国主義国間で認められた合法な国際協約であったため、この訴えは第2回万国平和会議から不当なものとして拒絶された。この事件に対して、日本から抗議がなされ、高宗はハーグへの密使事件は自分の知らなかったことであると訴えるが、日本との関係を重視する李完用首相や官僚たちの要求により、7月20日には退位することになった。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。1908年(明治41年)11月30日、高平・ルート協定が結ばれる。1909年(明治42年)7月6日、閣議で「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を決定した。伊藤博文の暗殺を受け、韓国側からの提案である一進会の上奏声明等を経て韓国併合の話が持ち上がる。この時自称会員100万人を誇る韓国最大政党である「一進会」は併合推進派であった。併合論は国内で二分されたが、併合派が優勢だった。韓国統監府を辞して帰国していた伊藤は元来併合に反対であったが、1909年7月6日に閣議決定された併合方針に反対した形跡はない。12月4日には大韓帝国の一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏した。「韓日合邦を要求する声明書」は大日本帝国と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、国際的に見て、両国の時勢・国力比から考えても受け入れられない提案であった。また、一進会の声明の中で「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との声明もあり。独立を堅持するよりも、日本との併合による地位の向上をより求めたとの見識がある。(伊藤博文暗殺に対する日本人の反感に敏感に反応したという側面もある。)統監府からは併合後の混乱を防止する観点から集会および演説の一時的な禁止命令が下され、対価として一進会は15万円を受領している。ただし、大韓帝国においては大日本帝国同様、内部に派閥ごとの併合への賛成・反対の違いがあり対立があったともされ、現在の韓国では下級市民にも不満があったと教科書に記述されている。しかしながら、国民の大部分を占める白丁(農奴・奴隷階級)に政治参加の権利は無く、事実上大韓帝国の皇族のみがその主権者である為、当事の白丁の政治的意思を他国が考慮する必要は無く、また白丁階級の賛成・反対も正確な統計は無い。(白丁が市民権を得たのは大日本帝国統治後である。)1910年(明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められた。親日派で固められた韓国閣僚でも李容植学相は併合に反対するが、8月22日の御前会議では李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、大日本帝国は大韓帝国を併合した。これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで大日本帝国の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。統監府は1909年、新たに戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた(火田民も参照)。そのほか隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地など)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。総督府による測量および登記制度の導入を機に朝鮮では不動産の売買が法的に安定し、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいるが、一方で李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した。1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した。学校教育における教授言語が日本語であったことをもって、「言葉を奪った」という評価がなされることがある。これに対しては、朝鮮語が科目として導入されたこと、朝鮮語による文化活動が許容されていたことをもって、言葉が奪われたとはいえないという反論もある。また、ハングルは併合以前は漢字と比べて劣等文字として軽蔑されており、あまり普及していなかったというのも事実である。大日本帝国が朝鮮半島を統治した時代について、日本では確立した呼称はなく、例えば日本統治時代などと呼ばれている。韓国側では、併合そのものについては韓日併合や庚戌国恥(庚戌は1910年を意味する)と呼び、大日本帝国による朝鮮半島統治時代については、日帝強占期(近年韓国の公共放送・KBSはこの呼称に統一しようとしている)や日帝時代、または日政時代やなどと呼んでいる。これらの名称は日本による大韓帝国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する大日本帝国の支配は単なる軍事占領で、不法なものであったとの韓国側の主張が言外に含まれたものである。また併合後も内地とは対等に扱われず、実質的には植民地のままで変化がなかったとの認識から日本植民地時代という呼称を用いることもある。植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学においても社会科学の講学上の概念にすぎない。ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され、「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の慣例となっていた。なお、実際にはいくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば1923年(大正12年)刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。また、上記のような語義的な観点ではなく、実質においても「植民地」ではなかったとする主張は日本の保守系の論壇誌などでしばしば論じられる。欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく「日本型」植民地支配がどのようなものであったかについては継続して論争が続いている。のみならず「大日本帝国の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を植民地という言葉で同一に形容することへ批判する見方もある。この立場からは、日本の朝鮮支配について「植民地」という表現を用いるべきではないという主張がなされることがある。帝国議会審議では、朝鮮は日本の植民地であったとする表現が使われている。1918年(大正7年)3月12日の帝国議会に於いて、牧山耕蔵衆院議員は「殖民地統治に関する質問主意書」を説明するなかで、朝鮮・台湾・樺太に言及し政府に質問を行った。戦後の例としては1945年(昭和20年)勅令第五百四十二号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件)(承諾を求むる件)委員会に於いて、中谷武世理事はポツダム宣言の条件説明において、「第八條の「カイロ」宣言の實行、即ち朝鮮臺灣等の從來の日本の植民地を失ふこと、」と、「植民地」の用語を使用した。国会審議では、朝鮮はかつて日本の植民地であったとする表現が使われている。たとえば、1947年(昭和22年)11月20日参議院通信委員会で、深水六郎君委員長は、「朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地」と、「旧植民地」の用語を使用した。2010年(平成22年)7月7日、仙谷由人官房長官は「個人補償問題で改めて決着が必要」「日本は併合によって朝鮮人民から言葉や文化を奪ったが、それは植民地支配だった」と述べ、韓国併合について「植民地支配」の用語を使用した。大日本帝国政府は朝鮮に対し、法的には「外地」として分類していたが、公文書においては植民地も使用例も見られる。一例として1923年(大正12年)、拓殖省事務局は『殖民地便欄』を刊行したが、このなかには「我ガ殖民地ト称セラルル朝鮮・台湾・樺太・関東州及ビ南洋群島」と記載されている。戦前から在野の学者や思想家の間では、朝鮮が植民地であるか否かについてはすでに議論があり、憲法学者の美濃部達吉など社会科学系の研究者はおおむね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や革命家の北一輝などは植民地ではないとしていた。戦後においては、外務省条約局による「内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」という外地の定義を援用し、領域としての朝鮮地域において大日本帝国憲法の適用に保留があったこと、日本内地とは異なる法体系(朝鮮総督府令等)が適用される点、また朝鮮籍(大日本帝国)臣民の権利に国籍条項など制限があったことをもって、植民地であったとする主張がある。小渕内閣時に出された日韓共同宣言においては、村山内閣時の「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山談話)を踏襲し、過去の日本の朝鮮統治について、「植民地支配」という表記を用いている(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。また、国交のない北朝鮮との間で出された日朝平壌宣言においても同様に「植民地支配」表記が用いられるなど、現在の日本政府の公式見解となっていると理解するのが一般的である。これに対して(終戦記念日の村山談話、及びそれを踏襲した政府見解における)「植民地支配」とは、朝鮮統治そのものについて言ったのではなく、戦争行為にもとづく満州政策などについて言ったもので、満州を植民地にするための拠点として朝鮮半島を利用した、という意味との解釈もある。日本側では、韓国併合を否定的に見る見方と、併合が朝鮮半島の近代化に寄与したと肯定的に評価する見方とがあり、対立している。韓国側では、一般的に韓国併合を否定的に見る見方が多数であり、また日本による統治を肯定する言論は徹底的に弾圧され、社会的に容認されない。逮捕・投獄に至るケースさえある。争点と評価(歴史認識)の相違については下記節「歴史認識の比較表」を参照。韓国における肯定的な見方については、下記節「大韓民国における大日本帝国統治時代の評価」を参照。独立後の韓国の歴史学者は、大日本帝国による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった(下記節「歴史認識の比較表」を参照)。また、韓国国内で韓国併合を肯定的に評価するなど、「民族史観」と矛盾する内容を発言すると、親日派として糾弾され、社会的制裁を受ける事例もある。そうした韓国の言論の状況について、国際新聞編集者協会は韓国を「言論弾圧国」として批判しており、2002年にはロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエとともに「言論監視対象国」に指定した。一方で1990年代から2000年代にかけて、「民族史観」を誇張が多いとして批判したり、「民族史観」とは異なる見解が韓国内からも提示されるようになっている。本節では、下記節「歴史認識の比較表」に入らない、韓国における肯定的見解(ないしは「植民地史観」「民族史観」への批判的見解)を記述する。大日本帝国統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、資本主義の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、大日本帝国による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする資本主義萌芽論が、1950年代に北朝鮮で唱えられた。これはのち1960年代から1970年代に日本に紹介され、1980年代には韓国へ日本を経由して伝わった。近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し、李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定した。またハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートは、資本主義萌芽論を「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」とし、韓国の資本主義は日本の植民地化の中で生まれ、戦後の韓国の資本主義や工業化も、大日本帝国の近代化政策を模したものであるとした。またエッカートは大日本帝国による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などを挙げ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている。これに対しカリフォルニア大学のステファン・ハガードは、エッカートの議論は具体例に欠しいと批判した。しかしハガードの研究においても、戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性を弱めていると主張する韓国人もいる。ほか韓国においても、その後の実証的研究の進展により、若い研究者からはこの資本主義萌芽論は採用されなくなってきている。日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになった。また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点をおいたため、東北地方のインフラ整備に遅れが生じた。。さらに、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮することとなった。このため崔基鎬は、韓国併合によって搾取されたのはむしろ日本であるとしている。1912-1913年の在日アメリカ大使 Larz Anderson の妻で作家の Isabel Anderson が、日本へ赴任の際に韓国に立ち寄った時の手記によると、「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」韓国併合について、以下のような歴史認識の相違、対立がある。1965年(昭和40年)、日韓両国にて交わされた日韓基本条約において、1910年(明治43年)8月22日以前に両国において交わされたすべての条約、協定はもはや無効であることが「確認」され、日韓併合は無効化された。また、同条約において日本は巨額の資金協力(無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドル、いずれも1965年(昭和40年)当時額)を韓国に対して行い、それと引き換えに下記の点が確約された。しかし、事後も韓国からの「賠償要求」は発生しつづけている(以下の#近況を参照)。2009年(平成21年)、韓国政府(外交通商部)は、強制動員労務者と軍人・軍属の不払い賃金訴訟にさいし、「(不払い賃金)は、請求権協定を通じて日本から受けとった無償の3億ドルに含まれているとしているため、日本政府に請求権を行使しにくい」という立場を公式に提示した。なお韓国政府は太平洋戦争強制動員犠牲者支援法制定後、2008年(平成20年)から「人道的次元で苦痛を慰める」として不払い賃金被害者たちに1円あたり2000ウォンで換算し、慰労金を給付している。2010年(平成22年)、菅直人首相は日韓併合100周年を記念して韓国に詫びる談話を発表したが、「謝罪」ではなく「お詫び」という表現を用いたため韓国側からの反発を買った。また、菅はこの談話について、安倍晋三以外の日本国首相経験者から同意を得た。幸福実現党は8月10日、談話は日韓併合に至る当時の世界情勢や地政学的要因を一切ふまえず、自国の安全と繁栄を確保しようとした先人の努力を完全否定し、一方的に「自らの過ち」と断罪するものとし、また日本による統治が韓国の近代化と発展に寄与した功績を全く考慮しないものであるとして、即時撤回を求める声明を出した。声明では日韓の戦後補償の問題は「完全かつ最終的に解決」されており、過去を蒸し返し謝罪する「菅談話」は「村山談話」や「河野談話」と同じく日韓友好を根本から揺るがし国益を損ない、著しく問題があるとしている。2010年(平成22年)8月13日、日本キリスト教協議会は、韓国キリスト教教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」を発表し、日韓併合条約は「武力の脅迫によって調印された条約」であり不法であること、また独立運動(抗日パルチザン)への処罰が「人道主義に反する植民地犯罪」であったこと、また日本の統治は朝鮮半島に窮乏化をもたらし、そのため多数の朝鮮人を中国、ロシア、日本などに移住させたこと、また日本による統治のため、朝鮮半島が分断し、朝鮮戦争が起こったことなどを主張した上、日韓併合条約の無効化と日本政府による賠償、朝鮮半島の平和統一に向けた努力等を訴えた。この主張は、2015年に和田春樹、林博史、内海愛子らが発起人となり、姜尚中、李成市らの賛意を得た「2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する」の声明で繰り返し訴えている。この点について、日本国と大韓民国の間で1965年(昭和40年)の国交回復時に結ばれた日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)では、その条文第二条において「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」とすることで合意に達した。しかし、両国でこの条文に関する解釈が異なるなど、見解の相違が解決したわけではない。日本国政府はこの条約についての「もはや無効である」という表現は日本側の立場をいささかも損なうものではないと表明している。他方、韓国側ではこの日韓基本条約さえも無効とする勢力もある。英ケンブリッジ大学の国際法学者J. クロフォード教授は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年(大正3年) - 1918年(大正7年))以降のもので、当時としては問題になるものではない」としている。
出典:wikipedia
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