金 星根(キム・ソングン、Kim Sung-keun、、1942年12月13日 - )は、日本京都府京都市右京区出身のプロ野球監督・コーチ。韓国で実業団野球(社会人野球)の投手として活躍後、同国プロ野球(KBO)6球団で監督を務め、2014年までの監督通算1234勝は韓国プロ野球史上、の1567勝(24年、1290敗68分)に次ぐ歴代2位の記録である。通称は、野球の神様という意味をもつ「野神」。在日韓国人2世として京都で生まれる。本籍地は慶尚南道晋陽郡で、日本名は金林 星根(かねばやし せいこん)。京都府立桂高等学校在学中のに第4回在日僑胞学生野球団の一員として初訪韓。高校を卒業後、韓国に渡る。釜山の東亞大學校(東亜大学校)中退。に本格派左腕として実業団野球チームへ入団。飛躍の決定的な土台作りになったのはテスト生として参加したに日本プロ野球(NPB)パシフィック・リーグの南海ホークスが行ったキャンプ。監督の鶴岡一人以下、黄金期の南海選手たちや、松葉徳三郎からトレーニング法を学んだ。1961年の第4回アジア野球選手権大会で韓国代表チームに初選出。選手引退後もに監督を務めた。当初は在日ということで母国・韓国でも反応が冷たかったという。しかし、に韓国プロ野球(KBO)が発足すると実業団時代の手腕を買われ、OBベアーズの投手コーチに就任。には監督へ就任した。OB退団後も、万年最下位チームだった太平洋ドルフィンズ( - )、サンバンウル・レイダースなどをプレーオフに引き上げ、には不振に苦しんでいたソウル本拠の人気チームLGツインズを戦力の整っていない状況にもかかわらず、韓国シリーズにまで進出させるなど、Bクラスチームの建て直しについては右に出るものはないと言われて、今まで在任したすべてのチームをポストシーズンに導いた実績を誇る。ただ、10数年の監督生活の間、通算勝利数は2位であるが、2007年までは韓国シリーズ優勝を経験していないことから、一般的には「土台作りから始めるべきであるBクラスチーム向きで、優勝を狙うチームには合わない」と評されてきた。そして、彼がいた時はチームが目を見張るような巻き返しを見せながら、彼が去った後は故障者続出でチームがBクラスに逆戻りするパターンを繰り返すことや、毎試合のごとく信頼できる特定の中継ぎ投手を軸に複数のリリーフのつぎ込む試合運びのため、勝利のために選手、特にピッチャーを酷使するという評価もある。他の専門家にも一目置かれる眼目と選手たちへの面倒見のよさから、赴任中の所属チームの選手たちとの信頼関係は非常に厚く、選手生命にも影響しかねない負傷を持っている選手が自分を省みず彼のために試合に強行出場して結果を残したこともあるほど。そして前述のように無名の選手を鍛えて使え物にさせる手腕に恵まれたことなどで彼がチームを去った後でも彼を慕う選手は多い。だが、いつも任せられるチームが戦力の整っていない崩壊寸前のチームや財政的に苦しい弱小チームであったため、球団フロントとは戦力補強に大幅な支援をしつこく要求することで衝突が多く、いつもギクシャクしていた。これが彼がいつもBクラスチームの再建の手腕を振るって結果を残しながらも、契約満了の前に解任される主な原因であると言われる。特に、2002年シーズン後は、前年6位のLGツインズをAクラスに引き上げ、準プレーオフ、プレーオフを勝ち抜いて、韓国シリーズでも巨大戦力を誇る三星ライオンズをも手こずらせる戦いぶりを見せた。この一戦で韓国シリーズ10回優勝を達成した敵将の金応龍をして「作戦や投手交代、代打起用などの采配が怖いほど当たりすぎて、まるで野球の神様と対敵するような思いをさせられた」と言わしめた。しかし、韓国シリーズの終了後、新しく就任した球団社長が彼のスタイルである管理野球が嫌いだった上に、自らと親交がある李廣煥前監督をチームに復帰させるため、「君の野球はLGツインズの(追求する)野球ではない」という理解しがたい理由をつけて彼を解任したことから、球団はファンの激しい批判の嵐に会った。彼の退団のあと、チーム成績は3年連続の6位と全く振るわず、2006年は球団史上初の最下位に転落した。類稀なBクラスチームの再建の手腕のため、フリーの時は、ほぼ毎年シーズンオフに不振に陥った下位チームの新監督候補として囁かれる。たとえば、2005年のオフ、「プレイオフ進出さえできればほぼ毎試合満員御礼が出来る」と言われながら最近低迷ぶりが目について観客動員に苦戦したロッテ・ジャイアンツや9度の優勝を誇りながら昔の面影を失いつつある伝統の名門、起亜タイガースの監督候補としてマスコミに取り上げられることもあった。この間、には、日韓プロ野球スーパーゲームで韓国チームのコーチを務めた。には日本へ戻りパ・リーグに加盟する千葉ロッテマリーンズのチームコーディネーター(コーチ待遇)に就任、日本の野球へ適応できずに苦しんでいた李承燁の担当コーチとして、復活を影で支えた。また、今江敏晃、里崎智也の打撃指導も担当。韓国時代から選手の小さなフォームの変化による技術的な問題点を見抜く能力があり、李承燁のほかに、大松尚逸などロッテの若手選手たちにもその能力を認められ、彼らにもワンポイントアドバイスを求められるようになった。2005年シーズンの後、ロッテ球団は、李承燁の残留を目論む一方、金の指導能力を高く評価してには1・2軍巡回コーチに就任させ、KBO出身者で初めてNPBの正式コーチとなる。2006年度シーズン限りで、契約満了に伴い退団。からはKBOのSKワイバーンズ監督に就任し、期待通り前年6位に低迷したチームを見事に再建、戦力補強も成功してシーズン序盤から首位を守って旋風を起こした。結局、球団史上初の公式戦優勝を達成して、自身2度目の韓国シリーズに進出。そして、斗山ベアーズとの対決となった韓国シリーズでは先に2敗をしたにも屈せず、その後4連勝で悲願の韓国シリーズ優勝を果たし、ついにこれまで付き纏っていた「優勝はできない監督」というイメージを払拭することに成功した。そして、韓国シリーズ優勝チームを率いて参戦した2007年のアジアシリーズでは、予選3試合を全勝して決勝戦に進出。日本の中日ドラゴンズを相手に善戦するも惜しくも敗れて準優勝に終わった。は前年に増した圧倒的な戦いぶりを見せて、公式戦で2位に13ゲーム差をつけて韓国シリーズに直行。韓国シリーズでは、斗山ベアーズとのリターンマッチを4勝1敗で制圧して、2年連続優勝を遂げた。また、シーズン中、韓国プロ野球史上2人目の監督としての公式戦1000勝を記録した。は、夏場から爆発的な勢いに乗った起亜タイガースの前に屈し、公式戦2位、韓国シリーズ準優勝に終わった。は序盤から首位を譲ることなく公式戦で優勝すると、韓国シリーズでも三星ライオンズを4連勝で下し、2年ぶり3度目の優勝を飾り、SKの黄金時代を築きあげた。8月17日、同年限りでの辞任を突如発表したところ、翌18日に球団から解任された。2011年12月、度からKBOの2軍リーグに参戦する高陽ワンダーズの初代監督に就任した。高陽は母体となる1軍のない、既存KBO球団入りを果たせなかった選手たちを集め再チャレンジをさせるための独立採算制をとった球団である。高陽が限りで活動を終了すると、2014年10月25日、KBOハンファ・イーグルスの監督に就任した。2010年12月、日本の高知県より「高知県観光特使」に任命されている。このこともあり、所属球団の春季キャンプは高知市野球場を使うことが多い。長男の金廷俊(キム・ジョンジュン、)はSKワイバーンズの球団職員として記録課長などをつとめ、2006年のワールド・ベースボール・クラシック(WBO)韓国ナショナルチームにも帯同していた。父がSKの監督を解任されると自身も球団職員を辞職し、2012年より野球解説者として活動していた。2014年11月、父がハンファの監督に就任すると、ハンファの戦力分析担当になった。※特記ない限り、日本語の資料。
出典:wikipedia
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