新川郡(にいかわぐん、にいかわのこおり)は、石川県(越中国、現・富山県)にあった郡。「新川」は常願寺川の古名である。越中国の東半分を占め、神通川を境界として婦負郡に接していた。現在の富山県のうち、富山市街の一部(旧・婦負郡)を除く神通川以東および、富山市草島・金山新・金山新中・金山新東・金山新西・金山新南・金山新北・羽根・高田および八尾町西神通の一部にあたるが、行政区画として画定されたものではない。飛鳥時代後期(7世紀後半から8世紀初め)に比定される飛鳥池遺跡から出土した木簡に「高志□新川評石□五十戸大□□目」(□は欠字)とあるのが初見である。延暦25年(806年)に成立したとされる『万葉集』には「邇比可波」と表記されており、承平年間に編纂された『和名類聚抄』には「邇布加波」とある。婦負郡との境界は明確なものではなく、かつては常願寺川が谷口から西北に流れ、鼬川と赤江川に沿う形で北流し、神通川に合していたと考えられており、その旧流を郡境としたとされる。江戸時代には神通川付近の一部が富山藩領となり、残りのほとんどが加賀藩(版籍奉還後は金沢藩)領となった。1871年(明治4年)の廃藩置県により、そのまま富山県・金沢県となり、同年のうちに新川郡・婦負郡・礪波郡の領域をもって一県とし、県庁所在地(新川郡魚津町)の郡名から新川県となった。1876年(明治9年)、新川県は石川県に編入された。1878年(明治11年)の郡区町村編制法により上新川郡・下新川郡の2郡に分割。その後、常願寺川などの石川県の治水行政に関して越中国内での不満が高まる中で分県運動が起こり、1883年(明治16年)5月9日、石川県から再分離されて富山県となった後、1896年(明治29年)の郡制施行の際に上新川郡から中新川郡が分割された。和名類聚抄には、郡内の10郷が確認される。延喜式神名帳には越中国新川郡に以下の7座7社が記載されており、全て小社に列している。日本三代実録に3社が記載されている。日本紀略に1社が記載されている。
出典:wikipedia
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