平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1980年2月8日)は、日本のマルクス主義法学者、中国研究者、平和運動家。後藤新平の義理の姪婿で、獄中転向で有名な元日本共産党委員長佐野学、共産党系演劇人でインターナショナル訳詞者の佐野碩、武装共産党時代の党指導者佐野博、鶴見和子・俊輔姉弟とは姻戚に当たる。東京市京橋区築地生まれ。東京開成中、第一高等学校を経て、1921年、東京帝国大学法学部卒、同助手。1923年、東京帝国大学法学部助教授。1927-1930年、フランクフルト大学に留学してマルクス主義を研究する。カール・ウィットフォーゲルやヴィルヘルム・ヴントの講義を受講。1930年、帰国後、共産党シンパ事件に加担したとして治安維持法違反で検挙されて免官処分、執行猶予付きの有罪判決を受けた。1936年にはコム・アカデミー事件で検挙されたがこの時には無罪になった。戦争中の大東亜戦争賛美により戦後は教職追放。その後復権し、1956年2月から20年間にわたって日本平和委員会会長を務めるなど、平和運動家となる。しかし1976年6月に日本平和委員会会長を解任されて名誉会長にさせられ、晩年は共産党陣営内で半ば失脚状態であった。もともとは民法、ゲルマン法の研究者として出発したが、『日本資本主義発達史講座』に参加して講座派の論客として知られるようになった。中国研究家でもあり、(社)中国研究所所長(1946年-1960年)、現代中国学会(現、日本現代中国学会)幹事長・会長(1951年-1960年)に就任する。(いずれも初代)1953年に行われた第3回参議院議員通常選挙の全国区に無所属で立候補し、10万を越える票を得たが落選している。1967年、文化大革命の影響で中国研究所から除名される。1980年、結腸癌のため死去。1937年、留置中に転向した平野は、中国華北部での自然村調査などをへて、1945年に『大アジア主義の歴史的基礎』を発表する。同書は、戦後、転向後の「逸脱」として顧みられることはなかったが、近年、「日本におけるアジア主義の終着点」とも評価され、見直されはじめている。平野は同書において「アジアにおける植民地態勢打破の先駆者はわが日本であり、アングロサクソンの世界旧秩序打開の創始者もまたわが日本だった」とし、楢井藤吉や、荒尾精、大井憲太郎らの系譜の延長に、孫文の大亜洲主義を位置づけたうえで、日本と中国との連合への試みとして、大東亜共栄圏を捉えた。進歩的文化人として戦後活躍した平野だが、戦時中は「日本が東亜革新の指導者となり盟主となって中国近代化の革命を成就せしめ、南洋における華僑の民族的要求を満足せしめ、さらに延いて南洋における諸民族を輔翼し、向上させることができたならば、そこに真に日本を指導者とし且つ日華合作する大東亜共栄圏が建設されるであろう」(昭和十六年五月『大陸』誌掲載「日支の提携と華僑」)という論考や「我が日本の三千年来の道義を本にした文化をもって統治するということによってのみ、初めて共栄圏建設ということを永久不動となしうるだろう」(昭和十七年四月『改造』誌掲載座談会「大東亜圏の文化的諸問題」)という発言を行っていた。暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には平野に対して次の副題が付けられている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。