フランス第二共和政(フランスだいにきょうわせい、)は、1848年の二月革命から1852年のナポレオン3世皇帝即位(第二帝政の成立)までの期間のフランスの政体を指す。第二共和政の発足当初はブルジョワと社会主義者の理想主義的な協調が図られたが、実際の政策運営にあたって対立が先鋭化し、六月蜂起へと至った。これにより保守化したブルジョワ・農民は社会的安定を求めて強力な指導者を求め、一方で新政府に失望した労働者も強力な指導者による保護を求めた。こうした中、ナポレオン1世の威光を帯びたルイ=ナポレオン・ボナパルトが各層の広範な支持を得て権力を掌握し、1852年に皇帝に即位したことで第二共和政は崩壊した。1848年、二月革命によりルイ・フィリップが亡命したことで、七月王政は終焉し、第二共和政へと移行した。自由主義者だけでなく社会主義者を含む11人によって臨時政府が樹立されると、臨時政府は、生存権・労働権・結社権などの諸権利を承認したほか、パリ民衆と社会主義者の強い要求を踏まえて「国立作業場(国立工場)」と、労働者のためのリュクサンブール委員会の設立が定められた。また、言論・出版の自由が保障され、200以上の新聞が発刊されることになった。ヴィクトル・シュルシェールの働きによって4月27日に奴隷制度の廃止の政令が発せられ、マルティニークでは5月23日に、グアドループでは5月27日に、第一共和政期にジャコバン派が廃止した後にナポレオン・ボナパルトによって復活された奴隷制の廃止が実現された。3月初旬、憲法制定国民議会の開催にむけて、選挙に関する法令が示された。その内容は男子普通選挙を定めており、21歳以上かつ同じ市町村に6ヶ月以上居住している者が参政権を認められた(そのため、住所不定者は政治参加を果たせなかった)。4月に選挙が実施され、880人の議員によって議会が発足した。全国で行われた総選挙は、社会主義者にとって極めて厳しい結果になった。そもそも社会主義に共感を抱く層は地方には少なかった上、パリでもかつてのフランス革命のような急進的・ジャコバン的な展開への恐怖感があったことから、社会主義者は議会に進出することができなかった。また、そもそも全国で選挙を行い各地の総意に基づいて政治を運営するということが、直接行動に訴えて革命の担い手となってきたパリ市民の地位を相対的に低下させることになっていた。自らの政治的主張を実現できないと考えた左翼陣営は、徐々に直接行動を激化させていった。そして、国立作業場が閉鎖されたことを契機に、パリの労働者が大規模な武装蜂起を起こした。これがいわゆる六月蜂起(六月暴動)である。4日間の流血戦を経て蜂起は鎮圧され、政府・労働者の両陣営あわせて5千人以上の死者を出した。この事件により、それまで共闘してきたブルジョワと労働者の関係が決裂した。政府側を支持するブルジョワは、反政府的な労働者による社会主義革命を警戒するようになり、これまでのように革命の担い手にはならなくなった。むしろ、社会の安穏を求めて保守化した政府を支持するようになるのである。こうして、市民革命の時代は終焉へと向かった。六月蜂起の鎮圧後、暫定的に政治を担ったのが軍人カヴェニャックであった。この間、憲法制定国民議会は憲法の草案を完成させ、11月4日に議会で採択され、12日に公布された。その第二共和国憲法(大統領制などを規定)に従って大統領選挙が12月10日に行われ、ルイ=ナポレオン・ボナパルトがナポレオン1世の甥という出自を生かし、各層の幅広い支持を得て当選を果たした。1849年1月29日、ルイ=ナポレオン大統領は憲法制定議会を軍事力で解散した。翌1850年、新しい選挙法が制定された。内容は3年以上同一地区にいるものにのみ選挙権を与えるもので、急進的労働者の封じ込めが目的であった。同年6月9日、集会結社が禁止され、7月11日には新出版法により検閲が復活した。1851年12月2日、ルイ=ナポレオン大統領はを起こし、国民議会を解散して議会メンバーを拘束した。普通選挙と憲法改正を提案し、国民投票の結果、大統領提案が可決され、クーデターは合法化された。1852年11月22日、国民投票でルイ=ナポレオンの皇帝即位が可決された。同年12月2日、皇帝ナポレオン3世として即位し、第二帝政の始まりとなった。「四月男子選挙と六月蜂起」までは、以下の書籍を参照に執筆。
出典:wikipedia
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