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ウィンストン・チャーチル

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(, 、1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家、軍人、作家。サンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属し、第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インドでパシュトゥーン人反乱鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した。1900年のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として初当選。しかしジョゼフ・チェンバレンが保護貿易論を主張すると、自由貿易主義者として反発し保守党から自由党へ移籍した。ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党政権が発足すると、植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカ問題に取り組んだ。アスキス内閣では通商大臣・内務大臣に就任し、ロイド・ジョージとともに急進派として失業保険制度など社会改良政策に尽力したが暴動やストライキ運動に直面し社会主義への敵意を強めた。ドイツとの建艦競争が激化する中、海軍大臣に就任。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。しかしアントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任した。しかしロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として再入閣。戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退した。だが、首相は干渉戦争を快く思わず、植民地大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領のイラクやパレスチナ政策、ユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。マクドナルド内閣に反社会主義の立場から自由党を離党し、保守党へ復党した。スタンリー・ボールドウィン内閣では財務大臣を務め、新興国アメリカや日本の勃興でイギリス貿易が弱体化する中、金本位制復帰を行ったが失敗し、労働党政権となった。1930年代には停滞したが、インド自治政策やドイツナチ党への融和政策に反対した。第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として首相職に就き、1945年まで戦争を主導した。西方電撃戦、ギリシャ・イタリア戦争、北アフリカ戦線でドイツ軍に敗北するが、バトル・オブ・ブリテンでは撃退に成功した。独ソ戦開始のためソ連と協力し、またアメリカとも同盟関係となった。しかし1941年12月以降の日本軍参戦後に、東方植民地である香港やシンガポールをはじめとするマレー半島一帯のイギリス軍の相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの失態を犯した上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が傷付き、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、総選挙で保守党は惨敗した。第二次世界大戦で戦勝国の地位を獲得した中、チャーチルは野党党首に落ちたものの冷戦下で独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。イギリスはアメリカとソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、大戦終結後に労働党政権がインド等の植民地を手放していくことを帝国主義の立場から批判し、植民地独立の阻止に力を注いだが、大英帝国は植民地のほぼ全てを失うこととなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も進めた。1953年、ノーベル文学賞受賞。1955年にアンソニー・イーデンに首相職を譲って政界から退いた。父ランドルフ・チャーチル卿は、第7代マールバラ公爵ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチルの三男で、1874年春にマールバラ公爵家の領地であるウッドストック選挙区から出馬して庶民院議員に初当選した保守党の政治家であった。母ジャネット・ジェローム(愛称ジェニー)はアメリカ人投機家レナード・ジェロームの次女だった。1873年8月12日にワイト島のに停泊したイギリス商船上のパーティーでジャネットとランドルフ卿は知り合い、3日後に婚約した。ランドルフ卿の父ははじめ身分が違うと反対していたが、ジェローム家が金持ちであることから結局了承し、二人は1874年4月にパリのイギリス大使館で結婚し、ロンドンで暮らした。1874年11月30日午前1時30分頃、父母の長男がオックスフォードシャーウッドストックにあるマールバラ公爵家自邸のブレナム宮殿で生まれる。この日は聖アンドリューの日であり、ブレナム宮殿でマールバラ公爵主催の舞踏会が予定されていた。結婚して7カ月半で長男を儲けたのだった。スペンサー=チャーチル家の伝統で代父(祖父レナード・ジェローム)の名前をミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと名付けられた(以下、チャーチルと表記)。チャーチルは12月27日にブレナム宮殿内の礼拝堂で洗礼を受けた。新年を迎えるとランドルフ卿一家はロンドンの自邸へ帰り、乳母エリザベス・エヴェレストが養育した。ヴィクトリア朝の上流階級では子供の養育は乳母に任せ、親と子供はほとんど関わりを持たず、時々顔を見るだけという関係であることが多かった。チャーチルの両親の場合、政界と社交界での活動が忙しかったので特にその傾向が強かった。1876年にランドルフ卿は兄ブランドフォード侯爵ジョージと皇太子エドワード・アルバート(後の英国王エドワード7世)の愛人争いに首を突っ込んで、皇太子の不興を買い、皇太子から決闘を申し込まれるまでの事態となり、イギリス社交界における立場を失った。仲裁した首相・保守党党首ベンジャミン・ディズレーリからほとぼりが冷めるまでイングランド外にいるよう勧められたランドルフ卿は、アイルランド総督に任命された父マールバラ公の秘書として妻や2歳の息子を伴って1877年1月9日にアイルランドに赴任した。アイルランドにおいては公爵夫妻はダブリンのフェニックス・パークの総督官邸、ランドルフ卿一家はその近くのリトル・ラトラで暮らした。チャーチルにとってアイルランドは「記憶している最初の場所」であったと回顧録で書いている。アイルランドでも引き続き乳母エヴェレストが養育にあたっていた。チャーチルは乳母を「ウーマニ」と呼んで慕い、8歳になるまで彼女の側から離れることはほとんどなかった。チャーチルは後年まで彼女の写真を自室に飾り、「思慮のないところに感情はない(他人に冷淡な者は知能が弱い)」という彼女の言葉を謹言にしたという。またこの頃から家庭教師が付けられるようになったが、チャーチルは幼少期から勉強が嫌いだったという。1879年の大飢饉後、アイルランドの政治情勢は不穏になり、アイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴力活動が盛んになっていった。そのため乳母エヴェレストもチャーチルが総督の孫として狙われるのではと常に気を揉んだという。1880年2月4日、弟ジョン・ストレンジがダブリンで生まれる。ランドルフ卿の子供はチャーチルとこのジョン・ストレンジの二人のみである。チャーチルは基本的にこの弟と仲良く育った。ただチャーチルが幼いころに集めていた1500個のおもちゃの兵隊で弟と遊ぶ時、白人兵士はチャーチルが独占し、弟にはわずかな黒人兵士しか与えなかったという。チャーチルは黒人兵士のおもちゃに小石をぶつけたり、溺れさせたりし、弟の黒人軍隊が蹴散らされて終わるというのがお約束だった。この直後に1880年イギリス総選挙があり、ランドルフ卿もウッドストック選挙区から再選すべく、一家そろってイングランドに帰国し、再選を果たした。しかし保守党は大敗し、ディズレーリ内閣は総辞職し、マールバラ公もアイルランド総督職を辞した。1882年、8歳を目前にしたチャーチルは、父の決定でバークシャー州アスコットの聖ジョージ・スクールに入学した。チャーチルは落ちこぼれだった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われているという問題児で、校長からもよく鞭打ちに処された。。チャーチル自身もこの学校には良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している。1884年夏、乳母がチャーチルの身体に鞭で打たれた跡を見つけて、母ジャネットの判断で退学した。アメリカ人である母はイギリス上流階級のサディスティックな教育方法に慣れておらず、鞭打ちのような教育方法を嫌悪していたという。つづいてブライトンにある名もなき寄宿学校に入学した。この学校は聖ジョージ・スクールと比べれば居心地が良かったらしく、「そこには私がこれまでの学校生活で味わったことのない、親切と共感があった。」と回顧している。この頃には父ランドルフ卿が保守党の中でも著名な政治家の一人になっていたので、その七光りでチヤホヤされるようになったことも影響しているとされる。チャーチルは巷で自分の父が「グラッドストン首相のライバル」などと大政治家視されているのを聞いて嬉しくなり、この頃から政治に関心を持つようになった。学校でも「ノンポリはバカなのだろう」などと公言していた。成績は、品行はクラス最低だが、英語、古典、図画、フランス語はクラスで7番目から8番目ぐらいだった。乗馬や水泳に熱中し、作文にも関心をもった。父ランドルフ卿は1886年成立のソールズベリー侯爵内閣で大蔵大臣・庶民院院内総務に就任し、次期首相の地位を固めた。ところが同年のうちにソールズベリー侯爵に見限られる形で辞職、事実上失脚することとなった。1888年3月、パブリック・スクールのハーロー校の入試を受けた。試験の出来はいまいちで、苦手なラテン語にいたっては氏名記入欄以外、白紙答案で提出していたが、元大蔵大臣ランドルフ卿の息子であるため、校長の判断で合格した。ただしクラスは最も落ちこぼれのクラスに入れられた。スペンサー=チャーチル家は伝統的にイートン校に入学することが多いが、チャーチルは病弱だったため、テムズ川の影響で湿気がひどいイートン校は避けたとされる。ハーロー校での成績は悪かった。無くし物が多く、遅刻が多く、突然勉強し始めたかと思うと全くやらなくなるという気分のムラが激しかったという。ハーロー校でも校長から二回鞭打ちの刑に処された。また当時のハーロー校では下級生は上級生に雑用として仕えなければならなかったが、チャーチルは上級生に反抗的だったため、上級生からもしばしば鞭打ちの刑に処されたという。しかしチャーチルはこの学校の軍事教練の授業が好きであり、射撃やフェンシングや水泳も得意だった。また落ちこぼれクラスに入れられたおかげで難しい古典は免除され、英語だけやればいいことになったので逆に英語力を特化して伸ばすことができた。「ハーローヴィアン」という校内雑誌に投書したり、詩も書くようにもなり、文章の才能を磨いていった。当時のハーロー校にはサンドハースト王立陸軍士官学校への進学を目指す「軍人コース」があり、劣等生は大抵ここに進んだ。ランドルフ卿も成績の悪い息子チャーチルは軍人コースに入れるしかないと考えていた。チャーチルが子供部屋でおもちゃの兵隊を配置に付かせて遊んでいる時に父が部屋に入って来て「陸軍に入る気はないか」と聞き、それに対してチャーチルがイエスと答えたことで最終的に進路が決まった。しかしサンドハースト王立陸軍士官学校も入試で多少の数学の知識を要求したため、ハーロー校在学中にチャーチルが二度受けた入試はともに不合格だった。校長の薦めでチャーチルはサンドハースト陸軍学校入試用の予備校に入学した。出題内容や傾向をかなり正確に分析してくれる予備校であり、チャーチルによれば「生まれつきのバカでない限り、ここに入れば誰でもサンドハースト王立陸軍士官学校に合格できる」予備校だった。18歳の時の1893年6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。しかし成績は良くなかったので、父が希望していた歩兵科の士官候補生にはなれず、騎兵科の士官候補生になった。騎兵将校はポロ用の馬などの費用がかかり、そのため騎兵将校は人気がなく成績が悪い者が騎兵に配属されていた。こうして幼時から軍隊に憧れていたチャーチルはヴィクトリア女王の軍隊の軍人となった。数学や古典に悩まされることはなくなり、地形学、戦略、戦術、地図、戦史、軍法、軍政など興味ある分野の学習に集中することができるようになった。とりわけアメリカ独立戦争と普仏戦争に強い興味を持った。ただしこの頃、父の家計はかなり苦しくなっており、チャーチルに十分な仕送りはできなくなっていた。そのためチャーチルも馬のことで随分苦労し、将来の将校としての給料を担保に借金して馬を賃借りしている。1894年12月に130人中20位という好成績で士官学校を卒業し、オールダーショット駐留の軽騎兵第4連隊に配属された。父ランドルフ卿は梅毒に罹り、健康状態は数年前から悪化し続けていた。ランドルフ卿は1894年6月に最後の思い出作りでジャネットとともにアメリカや日本などの諸外国、また英領香港、英領シンガポール、英領ラングーンなどアジアのイギリス植民地を歴訪する世界旅行に出た。この両親不在の間にチャーチルは医者から父の詳しい病状を聞き出し、父が助かる見込みがないことを知らされたという。父は帰国直後の1895年1月24日、45歳で死去し、首相ら大物政治家が列席した。チャーチルは「父と同志になりたいという夢、つまり議会入りして父の傍らで父を助けたいという夢は終わった。私に残された道は父の思い出を大切にし、父の意志を継ぐことだけだった」と書いている。父の死によって家長となったチャーチルは、逼迫したチャーチル家の家計をしょって立たねばならなくなった。父が晩年にロスチャイルド家から融資を受けて購入していた南アフリカ金鉱株は南アフリカ景気で20倍に高騰したが、しかし相続した借金の返済に充てられた。同年7月には乳母エヴェレストも死去し、チャーチルは「私の20年の人生で最も親密な友人だった」と評して悲しんだ。彼女の葬儀はチャーチルが一切を手配した。父の死の翌月からオールダーショットに任官し訓練を受けたが、自由主義と民主主義の発展の結果、戦争はなくなるのではないかと考え、すでにこの時に軍人は「私の生涯の仕事ではない」と考えるようになっていた。騎兵将校になったチャーチルは、戦争が起きる気配がないことを残念に思い、ナポレオン戦争時代に生まれたかったとよく愚痴をこぼしていた。そんな中の1895年、スペイン領キューバでスペインの支配に抗するマクシモ・ゴメスやホセ・マルティらの反乱が勃発した(第二次キューバ独立戦争)。関心を持ったチャーチルは軍から2ヶ月半の長期休暇をもらい、さらにスペイン政府にキューバの反乱鎮圧に協力したいと申し出て、キューバ渡航の許可を得た。こうして1895年11月初め、同僚レジナルド・バーンズとともにキューバへ向けて出港した。途中ニューヨークに立ち寄り、母方の祖父レナード・ジェロームの友人であるアメリカ下院議員ウィリアム・バーク・コクランから歓迎された。チャーチルは政界進出の野望を持っていたので、コクランから演説手法について色々と手ほどきを受けた。またコクランの紹介でニューヨーク市内の各所を見学したが、とりわけ裁判所に驚いた。法廷が普通の部屋であり、裁判官も検事も弁護士もイギリスのようにカツラや法服を着用せず平服で出廷してきたからである。チャーチルは「伝統や威厳などまったくなかった。それでも絞首刑判決を下せるというのは、大したことだ。」と感心している。キューバに到着した後はスペイン軍と行動を共にした。チャーチルはこの従軍中にキューバ製葉巻と昼寝の習慣を身につけたという。またこの戦争中、チャーチルは『デイリー・グラフィック』紙と特派員契約をしており、報告書を同新聞社に送り、特派員として戦地に赴くことは、いい小遣い稼ぎになることを知った。21歳の誕生日である1895年11月30日に初めて実戦経験を得た。道で朝食をとっていたところ、ゲリラの銃弾が顔のすぐ近くをかすめ、敵はすぐに姿を消した。数日後にも銃撃戦に遭遇し、敵は30分ほど銃撃を続けて撤退した。チャーチルは戦功を立てることはできなかったが、初めて戦死者を見た。チャーチルは圧政に抗しようという反乱の精神には一定の理解を持っていたが、ゲリラの野蛮な戦法は嫌っており、それに勇敢に立ち向かうスペイン軍人たちを尊敬していた。またスペイン軍人と話しているうちにスペイン人は決してキューバ人を憎んでおらず、イングランド人がアイルランド人に対して持っているような感情をキューバ人に対して持っていると考えるようになった。イギリスに帰国したチャーチルは、ますます苦しくなっていた家計のために更なる従軍経験と特派員としての原稿料を渇望し、オスマン=トルコ帝国の支配に抗して蜂起したクレタ島、が発生した南アフリカなどに特派員として赴く事を希望し、母を通じて各方面に手をまわしたが、実現しなかった。1896年冬に第4女王所有軽騎兵連隊とともにチャーチルは英領インドに転勤となった。インド駐留のイギリス軍将校はまるで王侯のように暮らし、日常生活をすべてインド人召使に任せていたが、チャーチルもそのような生活を送った。インド人召使はかなり薄給で雇うことができるが、困窮していたチャーチルはインド人金融業者から借金している。インドは平穏だったのでチャーチルは、アリストテレスの『政治学』、プラトンの『共和国』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、マルサスの『人口論』、ダーウィンの『種の起源』、マコーリーの『』など多くの読書をした。インド勤務時代に唯一参加した実戦は、1897年夏にインド西北の国境付近で発生したパシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦だった。この反乱が発生するとチャーチルは鎮圧に派遣されたマラカンド野戦軍に入隊を希望し、はじめ新聞の特派員、将校に欠員が生じた後にはその後任として戦闘に参加した。しかしチャーチルは勲章を得ようと焦るあまり、しばしば独断で無謀な行動に出たため、やがて帰隊させられた。この時の体験談を処女作『』としてまとめた。この作品の評判が良かったため、チャーチルは続いて『』という地中海沿岸の某国の革命運動を舞台にした小説を書いた。これも好評を博し、かなりの収入になった。この頃、イギリスではスーダン問題が再浮上していた。スーダンはイギリスの傀儡国家エジプトの属領だったが、1881年に発生したマフディーの反乱により、時の英国首相グラッドストンが放棄を決定して以来、マフディー軍の支配下に置かれ、英国支配から離れた独立国家となっていた。しかしロシアとフランスのエチオピアへの野心が高まる中、首相ソールズベリー侯爵はそれに先手を打つべく、エチオピアに隣接するマフディー国家への侵攻を決定した。チャーチルは従軍を希望し、『マラカンド野戦軍物語』を高く評していた首相ソールズベリー侯爵と会見できたのを好機としてエジプトの実質的統治者だったイギリス駐エジプト総領事クローマー伯爵を紹介してもらい、従軍が許された。この戦争でもモーニング・ポスト紙と特派員契約を結んだ。1898年8月にホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス軍に加わって、ナイル河を遡って進軍、9月1日にはマフディー国首都オムダーマンを包囲し、翌9月2日、マフディー軍4万が打って出てきて、オムダーマンの戦いが始まった。キッチナー将軍は第21槍騎兵連隊に突撃を行わせたが、これは歴史上最後の騎兵突撃とされる。チャーチルはインド勤務時代に肩を脱臼していた関係で、剣ではなく拳銃を使用して突撃したため、比較的安全に戦うことができた。戦いは多くの戦死傷者を出しながらもイギリス軍の勝利に終わり、マフディー国家は滅亡し、スーダンはイギリスとその傀儡国家エジプトの主権下に戻った。インドの第4女王所有軽騎兵連隊に帰隊したチャーチルは、今回の戦争についてまとめた『』を著した。この著書の中でチャーチルはキッチナー将軍を批判的に書いている。特に戦い方が犠牲を問わなすぎることや、兵士たちがマフディー国家の建国者ムハンマド・アフマドの墓を暴いたのを止めなかったことを批判している。しかし、この本を読んだホレイショ・キッチナーは自分を批判した本の内容に激怒し、遺恨が生じた。このことは後々チャーチルに祟ることになる。1899年春に陸軍を除隊した。騎兵将校は経費がかかるし、文筆で生計を立てていく自信が付いたためであったといわれる。1899年6月にオールダム選挙区の庶民院議員補欠選挙に保守党候補として出馬した。オールダムは繊維産業の町で労働者が有権者の中心だったため、保守党としてはディズレーリの「トーリー・デモクラシー」の継承者を自任していたランドルフ卿の息子を候補にした。チャーチルも「トーリー・デモクラシー」を意識した選挙戦を展開し、「帝国を維持するには自由な人民、教育ある人民、飢えない人民が必要だ。だからこそ我々は社会政策を支持する」と演説した。だが補欠選挙の最大の争点は社会政策ではなく、国教会に地方税を投入するソールズベリー侯爵の政策に対する賛否だった。自由党はこれを徹底的に批判して選挙戦を有利に展開し、チャーチルも選挙戦後半でつい「私が当選したらこの法案には反対する」という失言をしてしまい、変節者という批判を受けてますます不利な立場に追いやられた。イギリスの選挙区は1884年の第3次選挙法改正以来、原則として小選挙区になっていたが、オールダム選挙区は数少ない2議席選出の大選挙区だった。しかし選挙の結果は、2議席とも自由党がとり、チャーチルは今一歩のところで落選となった。南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合せんと目論むソールズベリー侯爵内閣のジョゼフ・チェンバレン植民地大臣はボーア人に挑発を続け、1899年10月に第2次ボーア戦争が勃発した。チャーチルは再び『モーニング・ポスト』紙の特派員となり、今回は民間ジャーナリストとして戦地に赴いた。戦闘が発生しているナタール植民地へ向かい、11月15日には装甲列車に乗せてもらったが、この列車は途中ボーア人の攻撃を受けて脱線し、チャーチルを含めて乗っていた者らのほとんどが捕虜になった。トランスヴァール首都プレトリアの捕虜収容所に収容された。チャーチルは民間人だからすぐに釈放されると思っていたが、英字新聞が「『チャーチル中尉』の勇気ある行動」を称える記事を載せたせいで、釈放されるどころか、下手をすれば民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺される可能性も出てきた。チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱走した。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後、貨車に乗ってポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケスのイギリス領事館にたどりついた。この間、新聞報道などで「チャーチルが捕虜収容所を脱走したが、再逮捕されて銃殺された」という噂が流れていたため、チャーチルの生存が判明したことへの反響は大きかった。この頃、戦況はレッドヴァース・ブラー将軍率いるイギリス軍が全滅したり、各地でイギリス軍が包囲されたり、イギリス軍が劣勢であった。そのためチャーチルのこの脱走劇は戦意高揚のいい英雄譚となった。この後、チャーチルはブラー将軍のおかげでケープ植民地で新編成された南アフリカ軽騎兵連隊に中尉階級のまま再入隊できた。レディスミスで包囲されるイギリス軍の救援作戦に参加し、ついでフレデリック・ロバーツ卿の指揮下でヨハネスブルクやプレトリアへの侵攻作戦に従軍した。1900年6月5日のプレトリア占領の際にはチャーチルは真っ先に自分が収容されていた捕虜収容所に向かい、そこにイギリス国旗を掲げて復讐を果たした。国土が占領されてもボーア人は屈することはなく、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していくのだが、チャーチルはプレトリア占領とともにイギリスへ引き上げた。帰国後ただちにボーア戦争に関する『』と『』の2作を著した。トランスヴァール共和国首都プレトリアを占領したことによる戦勝ムードの中、首相ソールズベリー侯爵と植民地相チェンバレンは、いま解散総選挙すれば有利な議会状況を作れると踏んで、1900年9月1日に総司令官ホレイショ・キッチナー将軍にトランスヴァール併合宣言を出させるとともに、9月25日に議会を解散した。こうして「カーキ(軍服の色)選挙」と呼ばれた解散総選挙が行われた。チャーチルはこの総選挙に再びオールダム選挙区から保守党公認候補として出馬した。今度の選挙は、捕虜収容所からの脱走劇で名前が売れていたチャーチルが有利であった。与党(保守党と自由統一党)の選挙戦を取り仕切っていた植民地大臣チェンバレンもチャーチル応援のため選挙区入りしてくれた。選挙結果は自由党候補アルフレッド・エモット男爵が最も得票したものの、チャーチルも第2位の得票を得て、オールダム選挙区2議席を選出するため、チャーチルも次点当選できた。こうしてチャーチルは26歳にして庶民院議員となった。総選挙全体の結果も与党保守党と自由統一党が野党自由党とに134議席差をつけて勝利した。保守党の庶民院議員となったチャーチルはイギリス各地で講演会を行い、1900年末にはアメリカや英領カナダでも講演会を開いて金を稼いだ。講演会はかなりの収入にはなったが、アメリカ人の聴衆のうちアイルランド系アメリカ人は反英的な人が多く、それ以外のアメリカ人もボーア人寄りの人が多かった。そのためチャーチルもボーア戦争に関する厳しい追及を受けた。結局チャーチルも侵略戦争であることは否定できず、「戦争になれば、それが良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従うしかない」と弁明した。1901年1月にヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世が国王に即位した。チャーチルは、新国王のもとで1901年2月から開会された庶民院に初登院した。チャーチルの処女演説は、自由党急進派でボーア戦争に反対するデビッド・ロイド・ジョージ議員の激しい反戦論に対抗して、政府を擁護するものだった。ただその演説の中でチャーチルは「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろう」とボーア人を擁護するかのような発言も行い、植民地大臣チェンバレンをいらだたせた。1901年5月24日にはフリーメーソンに加入している。チャーチルが最初に目指したのは父ランドルフ卿が大蔵大臣として取り組もうとした陸軍予算の削減だった。戦争大臣(陸軍大臣)のシンジョン・ブロドリックが常備軍を現行の二個軍団から三個軍団に増設方針を示したのに対して、チャーチルは1901年5月に反対演説に立ち、「非ヨーロッパの野蛮人を相手にするのは一個軍団で十分だし、ヨーロッパ人を相手にするには三個軍団でも不十分だ。イギリスには世界最強の海軍があればよい」と述べた。この演説は、野党自由党からは喝采が送られたが、保守党執行部は新米議員の造反に驚き、「親孝行と公務を混同してはならない」と批判された。これをきっかけにチャーチルは保守党執行部に造反することが増えていく。父が「」と呼ばれる党執行部に造反する小グループを作っていたのに倣い、首相ソールズベリー侯爵の末子であるらとともに反執行部的小グループを形成しはじめた。やがてこのグループは「フーリガンズ」と「ヒュー・セシル」の名前を組み合わせて、「」と呼ばれるようになった。チャーチルは保守党左派と自由党右派(自由帝国主義者)を一つにまとめ、政界再編のきっかけとすることを考えていたという。1902年7月11日、長らく首相を務めてきたソールズベリー侯爵が病により退任し、代わってアーサー・バルフォアが大命を受けた。この頃からボーア戦争が客観的に評価されるようになったことで世論は政権に批判的になっていき、政権与党内の結束力も乱れていった。こうした中で関税問題をめぐって政権与党内の分裂が始まった。第二次ボーア戦争は1902年5月に講和条約が結ばれて正式に終結していたが、予想外の長期戦は予想外の膨大な戦費をもたらし、1900年以降イギリス財政が赤字となった。それを補うために各種増税が行われ、その一環で穀物関税再導入も暫定的かつ少額でという条件で実施された。チェンバレンは大英帝国内に帝国特恵関税制度を導入する関税改革を行うべきと主張するようになった。これは帝国外に対する関税を永続させよという保護貿易論であった。チェンバレンの保護貿易論をめぐってイギリス世論は二分された。貧しい庶民はパンの値段が上がることに反対し、保護貿易には反対だった。金融資本家も資本の流動性が悪くなるとして保護貿易には反対し、綿工業資本家も自由貿易によって利益をあげていたので保護貿易には反対だった。一方、工業資本家(廉価なドイツ工業製品を恐れていた)や地主(伝統的に保護貿易主義)は保護貿易を歓迎し、チェンバレンを支持した。この論争は政界にも大きな影響を及ぼし、第二次ボーア戦争の評価をめぐって小英国主義派と自由帝国主義派に分裂していた野党自由党が自由貿易支持・反チェンバレンのもとに団結した。一方政権与党は自由貿易派と保護貿易派に分裂した。チャーチルやヒュー・セシル卿ら「ヒューリガンズ」は自由貿易を支持し、チェンバレン批判を行った。自由貿易を支持することは父ランドルフ卿の魂を継承することでもあったし、またチャーチルの選挙区であるオールダム選挙区の主要産業である木綿産業を満足させる効果もあった。1903年5月、チェンバレンが関税改革案を明確に提示してきたのを受けてチャーチルはバルフォア首相に対して「首相がチェンバレン植民地相の保護貿易論を明確に否定する声明を出されないのであれば、私としては党を変える必要が出てきます」という内容の手紙を送った。さらに同年11月にはチェンバレンの本拠であるバーミンガムに乗り込んで、チェンバレンの保護貿易論を批判するという挑発行動をとった。チャーチルは自由貿易支持を明確にしない保守党を見限り、自由党への移籍を希望するようになった。世論の自由党と自由貿易支持は圧倒的であり、自由党としては保守党内自由貿易派と手を結ぶ必要がほとんどなかったため移籍は容易ではなかったが、1904年5月にマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区からなら自由党候補としての出馬を認めると自由党から打診を受けた。この選挙区は保守党が強く、自由党は1900年の解散総選挙の際にも対立候補を立てなかった選挙区だったが、元保守党議員のチャーチルなら当選の見込みもあると自由党執行部は考えた。こうしてチャーチルは自由党に移った。この移籍について彼は「我が父に酷い仕打ちをした保守党から離れる機会に恵まれて本当にうれしい」と述べている。以降チャーチルはバルフォア政権や保守党に激しい攻撃を加えるようになった。並行して父ランドルフ卿の伝記の執筆を開始した。父に関する資料を徹底的に集め、元首相で自由党自由帝国主義派の領袖ローズベリー伯爵や敵対する元植民地大臣チェンバレンからも協力してもらった。1905年末に完成したこの伝記は、ランドルフ卿を美化し、またチャーチル自身に我田引水を図ろうという意図も見えるが、ことさらバルフォア首相やチェンバレンを批判的に扱うような露骨なことはしなかったので、好評を得た。1905年12月、関税問題で閣内不一致となったバルフォア内閣は総辞職し、自由党党首ヘンリー・キャンベル=バナマンに大命降下があり、自由党政権が発足した。この内閣にチャーチルは自ら希望してとして参加した。キャンベル=バナマンは少数与党政権の状態から脱するべく、1906年初頭にも解散総選挙に打って出た。この選挙でマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区から出馬したチャーチルは保守党候補からの「裏切り者」との批判に対して「私は保守党にいた時、バカなことをたくさん言いました。そしてこれ以上バカなことを言いたくなかったので自由党へ移ったのです」と反論して笑いをとったり自由貿易支持を訴えて支持を広げて当選した。この総選挙は全国的に自由党の圧勝に終わった選挙であり、改選前に401議席をもっていた保守党と自由統一党は157議席に激減した。自由党は一気に377議席を獲得し、自由党の友党アイルランド国民党も83議席を獲得した。自由党としては1886年以来の安定政権を作ることが可能となった選挙であった。最大の勝因は自由党候補たちの自由貿易支持の主張である。前述したように、庶民は食品の値段が上がる保護貿易には断固反対だった。チャーチルも「この選挙ははじめから自由党有利だった」と分析している。植民地省政務次官となったチャーチルは、まず全土がイギリス領となった南アフリカの問題にあたった。前保守党政権はボーア人を強圧的支配下に置こうとしたが、チャーチルはボーア人とイギリス人が協力して成り立つ自治政府の樹立を目指し英語とオランダ語の併用、またボーア人・イギリス人問わず100ポンド以上の財産を持つ成年男子に選挙権を認めた一方で先住民の黒人は無視され人種隔離政策が推進された。また、南アフリカでは1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人移民労働者が清から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていたが、これはイギリスが禁止している「奴隷貿易」に該当するのではという問題があった。1906年総選挙でも争点になって、自由党候補の一部が中国人奴隷が虐待されている姿を描いたポスターを使用していた。チャーチルは、はじめ「中国人労働者たちは自発的な雇用契約で南アフリカの鉱山で働いている。極端に解釈したとしても奴隷には分類できない。」と答弁していた。またケープ植民地総督アルフレッド・ミルナーが中国人労働者に対する鞭打ちを許可したことが判明し批判動議が提出されチャーチルは自由党議員を結束させ否決に成功したが、批判熱は収まらず、さらにつめ込まれた中国人たちが同性愛をしている可能性について疑惑も出され、紛糾した。チャーチルは「中国人を顔だけで稚児(カタマイト)かどうか見分けるのは難しい」と答弁したが、この「稚児」という言葉に議会では議事録で別の単語で記入されたり、貴婦人が退席するなど異常な反応をとった。結局植民地省は1906年11月に中国人労働者の輸入を停止させた。その後、この問題の処理は1907年より設置されたに委ねられることになり、同政府の決定で中国人労働者の新規移民は禁止され、移民が認められなかった者は契約期間満了次第、清へ強制送還された。1907年にチャーチルは植民地大臣エルギン伯爵の許可を得てイギリス領東アフリカへ視察旅行に出て、マルタ島、キプロス島、スエズ運河を通過して10月にモンバサに到着し、ナイロビからウガンダへ入り、ヴィクトリア湖とアルバート湖を繋ぐ鉄道建設予定地を通った。当時の東アフリカは完全にイギリスの支配下にあり、現地のイギリス人たちは現地民に対して絶対的支配者としてふるまっていた。それを見たチャーチルはそうした統治でも平和を保つことができるイギリスの支配の偉大さを再確認したという。当時11歳のブガンダ王ダウディ・チュワ2世の引見も受け、チャーチルはその気品に気後れして「イエス」「ノー」しか答えられなかったという。王はチャーチルに「戦の踊り」を披露してくれた。先住民たちはチャーチルを紳士的に歓迎し、チャーチルの方もアフリカ人が気に入ったようだった。チャーチルはアフリカの風景の美しさに魅了され、『ストランド・マガジン』に寄稿した『アフリカ旅行記』の中でも風景をよく描写している。狩猟も楽しみ、サイやイボイノシシを仕留めた。ライオンも狙ったが、成功しなかったという。また鉄道が完成すればウガンダはランカシャーの綿産業の原料供給地となるが、開発が進むとともに白人やインド人、黒人との間に摩擦が増えるという懸念も書いている。1908年1月にイギリスに帰国した。この年の4月にキャンベル=バナマン首相が退任し、大蔵大臣ハーバート・ヘンリー・アスキスに大命降下があり、アスキス内閣が成立した。この内閣においてチャーチルはとして入閣した。これは通商大臣ロイド・ジョージがアスキスの首相就任で空いた大蔵大臣に就任したことによる玉突き人事だった。当時のイギリスには入閣する際に議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったため、チャーチルも議員辞職し、それに伴うマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区の補欠選挙に出馬した。前回の総選挙と異なり、今回は自由党に風は吹いておらず、しかも元来保守党が強い選挙区であるから、チャーチルは苦しい選挙戦を強いられた。保守党も「裏切り者」チャーチルを落とすために全力をあげた結果、チャーチルは僅差で落選した。しかしチャーチルは知名度が高かったので彼に出馬要請する選挙区は他にもあった。スコットランドダンディー選挙区で前職議員の叙爵(貴族院入り)に伴う補欠選挙が行われることになり、同選挙区の自由党組織から出馬を要請されたチャーチルはこれを承諾した。この補欠選挙にはチャーチルの他に保守党候補、労働党候補、禁酒主義者のの3候補が出馬していた。ダンディー選挙区は2議席選出する大選挙区だった。前回の総選挙では自由党と労働党が議席を分け合ったため、この選挙区の自由党員には労働党のせいで1議席しか取れなかったと恨む者が多く、チャーチルも自由党票を固めるため労働党批判を中心的に行った。その結果、チャーチルはこの選挙で初めて社会主義への本格的な敵意を露わにし、「社会主義は裕福な者を引きずり落とす。自由主義は貧困者を持ち上げる。」「社会主義は資本を攻撃する。自由主義は独占を攻撃する」「社会主義は支配を高める。自由主義は人を高める」といった対比型の社会主義攻撃を展開した。この演説が功を奏し、チャーチルは大勝した。1908年9月、33歳の時にクレメンティーン・ホージェーと結婚した。彼女は礼儀作法はしっかりしていたが、財産は特になく、フランス語の家庭教師をして生計を立てている女性だった。父親はサー・ヘンリー・ホージェー(Sir Henry Montague Hozier)という軍人であり、母親はデヴィッド・オギルビー (第10代エアリー伯爵)の娘であった。二人は1908年3月の晩餐会で知り合い、チャーチルの方が最初に彼女に惹かれたという。チャーチルは彼女に自分の著作『ランドルフ・チャーチル卿』を読んだか聞いてみたが、読んでいないようだったので本を送ると約束したが、チャーチルは本を送り忘れた。しかし後日再会した時にクレメンティーンもチャーチルに惹かれるようになっていた。8月に従兄弟マールバラ公のブレナム宮に彼女を招いた際にチャーチルの方からプロポーズし、受け入れられた。結婚式はウェストミンスター大寺院で行われた。チャーチルが商務大臣となった頃のイギリスの経済状況は悪かった。1907年後半から不況が押し寄せ、1907年に3.7%だった失業率は、翌1908年には7.8%に跳ね上がっていた。労働党の「労働権の確立」を訴える運動が盛り上がり、他方保守党の関税改革派も「関税が国民の仕事を守る」と再攻勢をかけた。自由党としては中産階級の支持を失わずに労働者階級に支持を拡大させて立て直しを図りたいところであり、それが本来自由放任主義の立場である自由党が社会政策を実施する背景となった。チャーチル自身も1906年総選挙の遊説の際にスラム街を見て、社会政策の必要性を痛感した。アスキス内閣によって実施された社会政策には「老齢年金法」や「国民保険法」(健康保険と失業保険)、「炭鉱夫8時間労働制」、「職業紹介所」などがある。このうちチャーチルが商務大臣として主導したのが「職業紹介所」と「失業保険制度」である。1909年秋にドイツを訪問し陸軍演習と職業紹介所を視察した。当時ドイツも失業者を抱えていたが、労働者の多くが失業保険に入っていることに感心したチャーチルはウィリアム・ベヴァリッジとともに職業紹介所設置法を成立させ、これまで地方公共団体が設置運営していた職業紹介所を中央政府が直接設置運営することで全国に大幅に増やすことが可能となった。この法律は国民から歓迎され、チャーチルは至るところで「親愛なるチャーチル(Good Old Churcill)」の歓声を受けた。しかし職業紹介所の設置は労働の市場化を押し進め、資本家が「最適の労働者」を見つけやすくなるため、労働組合も「労働組合の規定で定める賃金以下で労働者がかき集められる危険性がある」と反対し、労働党も「失業保険制度もない、失業対策事業もしない、労働者の再教育もしない、ただ職業紹介所を置くだけというこの法律では、労働権が確立したなどとは到底言えない」と批判した。チャーチルは1909年に労働党議員の要請を受け入れて、失業保険法案(Unemployment insurance bill)を議会に提出するも、この法案は貴族院で廃案にされた。その結果、労働党の「労働権」確立を求める運動は強まっていった。イギリスの国際的地位は1870年代以降、後発資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。後発資本主義国の中でもとりわけドイツがイギリスに急追していた。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1890年代後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して帝国主義外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった。これに対抗したイギリスの海軍増強は保守党政権時代に開始されたが、キャンベル=バナマン内閣は保守党の海軍増強計画を若干縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した。1908年2月にドイツ帝国議会で海軍法修正法が可決し、ドイツ海軍は毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦合わせて58艦の保有を目指した。これを受けてイギリスでも野党保守党やイギリス海軍軍部を中心に海軍増強が叫ばれるようになった。アスキス内閣発足後、自由帝国主義派と急進派の閣僚の間で海軍増強論争が起こった。海軍大臣レジナルド・マッケナや外務大臣エドワード・グレイら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。これに対して大蔵大臣ロイド・ジョージや通商大臣チャーチルら急進派閣僚は海軍増強より社会保障費の財源確保を優先させるべきと主張した。チャーチルは1908年8月15日のスウォンジでの演説で「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」としてドイツ脅威論を一蹴している。ウィンザー城管理長官代理であるレジナルド・ベレット (第2代イーシャ子爵)は「チャーチルは信念や主義で海軍増強に反対しているわけではなく、自由党急進派を自分が指導しようという野心から反対している」と分析した。しかしグレイ外相が「海軍増強が受け入れられないなら辞職する」と脅迫し、また1908年に訪独したロイド・ジョージがドイツ脅威論をある程度認めるようになったことでロイド・ジョージとチャーチルは1909年と1910年の2年間に4艦の弩級戦艦の建艦を認めるに至り、これにより閣内対立は一時収束した。しかし1909年1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に止めようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深め、海軍増強論争が再燃した。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4隻以上の弩級戦艦を建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相を脅迫した。結局アスキス首相は1909年2月24日の閣議で折衷案をとり、1909年の財政年度にまず4艦、情勢次第で1910年にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派の双方に一定の満足を与え、この時も閣内対立を収束させることができた。大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「」を議会に提出した。この予算はドイツとの建艦競争や社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった。「人民予算」の増税案は所得税率の引き上げ、相続税の引き上げと累進課税性の強化、そして土地課税制度導入など富裕層から税金を取り立てるものだった。しかし野党保守党は「富裕層から取るのではなく、関税改革によって歳入増加を図るべき」と主張して人民予算に反対した。この論争でイギリス社会は二分された。チャーチルは「人民予算」を支持する者たちを糾合して「予算賛成同盟(Budget League)」を結成した。一方保守党のウォルター・ロングらはこれに対抗して「予算反対同盟」を結成した。世論の支持はチャーチルの「予算賛成同盟」にあった。ただロイド=ジョージによればチャーチルは従兄弟のマールバラ公から圧力を受けており、「人民予算」にいまいち熱心ではなかったという。「人民予算」は1909年11月4日に庶民院を通過したが、保守党・地主貴族が牛耳る貴族院から「土地の国有化を狙う社会主義予算」として徹底批判を受け、11月30日に圧倒的大差で否決された。これを受けてアスキス首相は議会を解散した。1910年1月に行われた解散総選挙でチャーチルは再びスコットランドのダンディー選挙区から出馬したが、スコットランドでは地主貴族や保守党に対する反発が強かったので当選は安泰だった。そのため選挙戦中、チャーチルは自分の選挙区よりも他の選挙区の自由党候補の応援演説に駆け回った。全国的には自由党は苦戦を強いられ、選挙の結果は、自由党275議席、保守党273議席、アイルランド国民党82議席、労働党40議席となった。前回比で自由党は104議席も失った。人民予算については自由党を支持するが、海軍増強問題では大増強を訴える保守党を支持するという者が多かったのが原因だった。この選挙で自由党は過半数を失い、以降アイルランド国民党と労働党の閣外協力を得て政権を維持することとなった。この両党の支持を得て「人民予算」は可決成立した。この選挙後、チャーチルは重要閣僚職である内務大臣に就任した。35歳での内務大臣就任であり、これは歴代内務大臣で第2位の若さである(1位はサー・ロバート・ピール准男爵の33歳)。キャスティング・ボートを握るアイルランド国民党はアイルランド自治法案成立の妨げになっている貴族院の拒否権を縮小する貴族院改革を主張し、労働党党首ケア・ハーディはさらに貴族院廃止を主張した。自由党も政権維持のため貴族院改革に乗り出さねばならなくなった。1910年4月14日に「議会法案」を議会に提出した。これは財政法案に関する貴族院の拒否権を廃止し、また財政法案以外の法案についても貴族院が反対しても庶民院が3回可決させた場合は法律となるという内容だった。チャーチルは庶民院におけるこの法案の審議を任された。審議最中の5月6日に国王エドワード7世が崩御し、ジョージ5世が新国王に即位した。政界に「新王をいきなり政治的危機に晒してはいけない」という空気が広まり、自由党、保守党双方の話し合いの場が設けられた(「憲法会議(Constitutional conference)」)。この時の融和ムードを利用してロイド・ジョージは自由党と保守党の中の「極端分子」を排除して大連立政権を作ることさえ計画し、バルフォアら保守党幹部に折衝を図った。チャーチルもこの計画に乗り気であり、保守党内の知り合いの議員に折衝を図ったが、保守党のチャーチルへの嫌悪感は強く、ロイド・ジョージの大連立構想にとってチャーチルは邪魔な「極端分子」に該当したようである。結局大連立構想も「憲法会議」も決裂し、首相アスキスは国王から「貴族院改革を問う解散総選挙に勝利したならば国王大権で貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する」との確約を得たのち、1910年11月16日に議会を解散した。こうしてこの年二度目の総選挙が行われ、自由党は貴族院改革、保守党は関税改革を争点にして選挙戦を戦った。チャーチルは前回選挙と同様、自分の選挙区より他の選挙区の自由党候補の応援に駆け回り、貴族の特権をはく奪すべきことや、生活費の上昇をもたらす保守党の関税改革を批判する演説を行った。総選挙の結果は前回とほとんど変わらず、自由党272議席、保守党・自由統一党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席をそれぞれ獲得した。しかし自由党とアイルランド国民党をあわせれば過半数を得たことから、アスキス首相は議会法案を再度提出。新貴族院議員任命をちらつかせて貴族院をけん制し、1911年8月10日に議会法は成立し、庶民院の優越が確立した。チャーチルは国王への報告書の中で「長期に及んだ不安な憲法危機が終結した」と報告している。この議会法制定により蔵相ロイド・ジョージは国民保険法を制定させることができた。この法律は第1部と第2部に分かれており、第1部は賃金労働者のほとんどを加入対象とする健康保険制度、第2部は建設や造船関係の業種の労働者を対象とした失業保険制度を定めたものであり、廃案になった先のチャーチルの失業保険法を再導入したものだった。失業保険は一部の職種の労働者に限定されているが、これは実験的導入であるためであり、成功した場合には他の業種の労働者にも拡大させるとしていた。チャーチルは商務大臣だった頃から引き続いて失業保険問題を担当し、同法第2部の具体的制度の構築にあたった。ロイド・ジョージが主導する健康保険の方は既存の民間保険団体や医療関係者の既得権とぶつかり合い、大揉めになったが、チャーチルの主導する失業保険の方はほとんど抵抗を受けなかったという。資本家は自分たちが必要としない労働者を失業保険が面倒を見てくれるということで基本的に歓迎し、労働組合も失業した組合員を持てあましていたため、反対の声は小さかったのである1910年11月16日、ロンドンのイースト・エンドハウンズディッチの宝石店で警官三名の殺害を伴った強盗事件が発生した。チャーチルは殉職した警察官たちの国葬を執り行った。捜査を進めると、ロシアから亡命してきたレット人の反帝政革命家グループの犯行である可能性が濃厚となった。1911年1月、グループの隠れ家がシドニー街にあることが判明し、警察が踏み込もうとしたが、銃で応戦され、シドニー街の戦いと呼ばれる銃撃戦が勃発し、チャーチルは現場で警官隊の直接指揮を執った。やがてその家から火の手が上がると、チャーチルは消火しようとする消防隊を押しとどめて、その家が燃え尽きるまで待機を続けた。家が焼け落ちた後、警察がその跡を調べたが、犯人の焼死体は2体しか出ず、他の者がどうなったかは不明だった。この事件によりチャーチルの脳裏には社会主義への恐怖が焼きついたという。社会政策に取り組み、軍拡に反対したチャーチルの急進性もこの頃から弱まっていくことになる1910年11月8日に南ウェールズロンダ渓谷の炭鉱労働者たちがを起こした。チャーチルは、戦争大臣リチャード・ホールデンを通じてネヴィル・マックレディ将軍率いる軍隊や警察部隊を派遣し、炭鉱夫労働組合指導者に対して「軍事力を行使することも躊躇しない」と恫喝した。この軍事的恫喝のおかげで炭鉱夫2人の殺害だけでスト鎮圧に成功した。チャーチルは個人的には炭鉱夫たちに同情していたが、内務大臣として法令の遵守を第一とし、また挑戦を受ければ退却しない性格と相まって決断を下した。それでも鎮圧軍を派遣するにあたっては軍隊に対し、「軍は炭鉱経営者たちの個人的使用人ではない」ことや「労働争議に介入したり、スト破りの役割を果たしてはならない」ことを訓令した。この事件以降チャーチルは労働者の激しい憎悪の対象となり、「トニパンディを忘れるな」は労働運動の合言葉になった。労働党もチャーチルやロイド=ジョージら「自由党急進派」への不信を高めた。国民保険法はこうした労働者の不満を抑えるためのものであったが、それもむなしく、1911年6月にはイギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発し、各港は海運機能が麻痺し、革命前夜の空気さえ漂った。一時下火になるも8月には鉄道労働者が海運労働者と連携したストライキを起こした。同時期の1911年7月にフランスが植民地化を推し進めているモロッコ・アガディール港にドイツ軍艦が派遣されるという第二次モロッコ事件が勃発し、独仏戦争の危機が発生した。アスキス内閣のエドワード・グレイ外相はドイツがこの港を獲得したら英国本国と英領南アフリカや南米との通商海路が危険に晒されるとしてドイツの行動に断固反対の立場をとった。アスキス首相はこの事件を機に対独戦争準備を急がせた。戦争準備が決定された中での大ストライキであり、政府としては緊急に処理しなければならなかった。チャーチルは弾圧路線を変更するつもりはなく、あちこちに軍隊を派遣してはストライキ弾圧を行った。労働者たちは軍隊派遣に強く反発し、むしろ軍隊が派遣された場所で積極的な暴動ストライキが発生した。ロンドン、リヴァプール、ラネリーでは軍隊の発砲で多数の労働者が死傷する事態となった。ここに至ってチャーチルも自分の弾圧路線が誤りであったことを認めざるをえなくなった。ルーシー・マスターマンはこの頃のチャーチルについて「打ちのめされたようだった」と語っている。結局このストライキはロイド・ジョージが経営者を回ってドイツとの戦争が不可避かつ間近であると説得し、労働者に対して融和的態度を取らせたことで収束に向かった。労働党議員ラムゼイ・マクドナルドは「この危機に際して、チャーチル内務大臣が、民衆操作に通じていたなら、市民的自由の意味を理解していたなら、内相の権限を機能的に行使できる能力があったなら、こんな大混乱には陥らなかっただろう」と語っている。チャーチルは1911年8月15日の庶民院で「軍隊は国王陛下の物であるから、本来は労働争議にも干渉できる。しかし労働争議の仲裁は商務省に任せら

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