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鈴木鎮一

1898年に愛知県名古屋市に父・政吉と母・良の三男として生れる。父・鈴木政吉は、1888年(明治21年)よりバイオリン作りを始め、日本で最初のヴァイオリン工場を設立、鈴木バイオリン製造の創業者である。そのため幼児期よりヴァイオリンに囲まれる環境に育った。実家は兄弟妹13人(うち2人は夭逝)からなる大家族であり、少年時代は父親の工場へ遊び場の様に出入りしていた。商業学校に入ってからは夏休みになると工場で働く様に父に命じられ、バイオリン製作について一通りのことを覚える。卒業の前年頃、たまたま蓄音機を手に入れて、名バイオリニスト ミッシャ・エルマンが演奏するシューベルトの「アヴェ・マリア」のレコードを買ってきて初めて聴く。それまで兄弟喧嘩をしたときなどに、バイオリンで叩き合うほど身近であった為、バイオリンを玩具のようなものだと思っていた鎮一であったが、このレコードによって初めてプロのバイオリンの音に触れ、バイオリンがその様な美しい音を出すことに非常に驚き、大いに感動する。この時から、音楽・芸術に関心を持つ様になる。その後、エルマンのレコードを買い、ハイドンのメヌエットなど弾けそうな曲から譜面も無しに練習し、兄梅雄の手ほどきもあり、我流ながらもバイオリンを弾く様になる。<ref>『歩いて来た道』(音楽之友社)、井上さつき著『日本のヴァイオリン王 鈴木政吉の生涯と名器』(中央公論社)1916年(大正5年)、市立名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業。商業学校を卒業後、父親の方針からバイオリン工場の事務所に勤め、意欲的に働くも2年ほどして体調を崩し、興津へ転地療養する。その後3ヶ月ほどで名古屋へ帰るが、療養先で親しくなった柳田一郎の勧めで徳川義親侯爵の北千島探検(1919年)へ同行することになる。この頃にはバイオリンと鎮一は切っても切れない縁となっており、旅にはバイオリンを持参した。旅に使われた船のサロンにはピアノがあり、旅に同行していたピアニストの幸田延(幸田露伴の妹)の伴奏で鎮一はバイオリンの演奏を披露したりした。その旅の終わり頃、徳川、幸田から正式な音楽の勉強を薦められる。その後、徳川から父・政吉への説得もあり、鎮一は音楽の道に進むこととなった。1920年(大正9年)に上京、徳川義親侯爵家に寄宿し、ヴァイオリンを安藤幸(幸田延の妹)に師事。1921年(大正10年)、父親の許可を得て、徳川侯爵らの世界一周旅行に同行。その途中でドイツに留まり、最初の3ヶ月は師事すべく先生を選ぶ為、演奏家の音楽会を聴き回る。なかなかつきたいと思う先生が見つからなかったが、クリングラー・カルテットの演奏会に感動、クリングラーに弟子志願の手紙を出す。かねてから弟子を取らないクリングラーであったが承諾され、ベルリン高等音楽学校の教授カール・クリングラーに師事する。ベルリン滞在中、鎮一の世話役であった医学者のハンス・ミハエルス教授がアメリカのホプキンス大学の学部長に招聘されることとなり、代わりの後見人役にアルベルト・アインシュタイン博士をミハエルスから紹介される。以後、アインシュタイン博士の世話になり、博士の知友のグループから大きな影響を受けた とされる。ベルリン高等音楽学校の受験には失敗したものの、「空席があれば合格」というコメント付きだった。その後もクリングラー教授の個人的な弟子として約8年間研鑽を積んだ。<ref>井上さつき著『日本のヴァイオリン王 鈴木政吉の生涯と幻の名器』(中央公論社)『歩いて来た道』(音楽の友社)これに対して日本の才能教育研究会(本部:松本市)はクリングラー教授に学んでいた当時、レッスンの日時や曲目についてやり取りをしたクリングラー教授からの手紙をホームページにて公表している。また、アインシュタイン博士から贈られた「鈴木鎮一様 思い出に アルベルト・アインシュタイン」と書き添えられた自画像を、交流の証としてホームページで紹介している。1928年(昭和3年)、ヴァルトラウト夫人(旧姓プランゲ)と結婚したが、母危篤の知らせを受け帰国。その後兄弟と『鈴木カルテット』を結成して、東京に移転して演奏活動を開始するとともに、国立音楽学校(現国立音楽大学)に出講。1931年(昭和6年)には帝国音楽学校のヴァイオリン教授として、アレクサンドル・モギレフスキーとともに採用される。そのころ鈴木の演奏を聞いて感銘を受けた青年から入門の要請を受けて自宅でも教え始める。諏訪根自子もその頃の弟子の一人である。1931年からは江藤俊哉、豊田耕兒、小林武史、小林健次らの主要な門人を相次いで引き受ける。<ref>小島正美著『スズキ・メソッド 世界に幼児革命を』(共同音楽出版社)『愛に生きる』(講談社現代新書)太子]]をはじめとする日本の皇族の出席のもと、第1回全国大会「グランドコンサート」開催。2000名の生徒によるヴァイオリンの大合奏の風景は、後に映画『ミュージック・オブ・ハート』においても再現されることとなる。1964年(昭和39年)、代表的な10名の児童を連れ、アメリカ合衆国に最初の演奏旅行を行い、アメリカの音楽教育界に衝撃を与える。これ以降、1994年(平成6年)まで30回の訪米が繰り返される。1969年、ベルギーのユジェーヌ・イザイ財団よりイザイ賞を授与される。1970年(昭和45年)、勲三等瑞宝章を受章。1972年、アメリカ、ロチェスター大学より、名誉音楽博士号を授与される。1973年、人間能力開発機構スベクトラ賞を受賞。1975年(昭和50年)、第1回世界大会をハワイ州において開催。1976年(昭和51年)、モービル音楽賞を受賞。1978年(昭和53年)、日米親善コンサートのため100名の児童を率いて渡米、アメリカ側の100名の児童も加わってケネディ・センターで行われたコンサートは、カーター大統領夫妻が招待され、同月カーネギーホールでも同様の演奏が行われる。1982年、ソロプチミスト日本財団から、第1回千嘉代子賞を受賞。1985年、ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労賞を受章。1990年、アメリカ、クリーブランド音楽大学、イギリス、セントアンドリューズ大学より、また1992年、アメリカ、イサカ大学、1993年にメリーランド大学より名誉博士号を授与される。1979年(昭和54年)に松本市の名誉市民となる。1986年(昭和61年)、サントリーホールにて米寿記念コンサート。1991年(平成3年)、イギリスのサンデー・タイムス紙の特集「20世紀をつくった1000人」の中に選ばれる。1994年(平成6年)、サントリーホールにて95歳祝祭コンサート。1996年(平成8年)、鈴木鎮一記念館が開館。1997年(平成9年)、専修学校国際スズキ・メソード音楽院開校。1998年(平成10年)に松本の自宅で99歳で永眠し、世界中の門下生から弔辞が相次いだ。鈴木の思想は以下のようにまとめられている。<ref>『愛に生きる』(講談社現代新書)『才能開発は0歳から』(主婦の友社)

出典:wikipedia

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