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相模原

相模原(さがみはら)は、神奈川県相模原市中央区にある町名である。また、同市内のJR東日本横浜線相模原駅周辺の漠然とした地域名として用いることもある。JR横浜線相模原駅南口前を中心としてJR横浜線と国道16号の間に広がる区域であり、一丁目〜八丁目からなる。1964年(昭和39年)5月1日に相模原市で最初に実施された住居表示により大字小山および大字清兵衛新田の各一部から成立した。相模原駅周辺には銀行や企業の事務所などが集まり、市役所が所在する中央地区とともに相模原市の中心業務地区となっている。駅周辺には多くの飲食店が集積し、1970〜80年代には大型商業施設が2店舗(ダイエーおよび忠実屋)進出するなど、同市の中心商業地となっているが、1990年代以降に再開発が行われた相模大野や橋本の成長によってその地位は低下している。区域内には江戸時代末期の新田開発によって開かれた清兵衛新田への入植者の集落が含まれるが、現在は全域が市街地化して農地は消滅しており、農村的景観はほとんど失われている。国道16号に面した区画にはレジャー施設や釣り具店などのロードサイド店舗が多く進出している。在日米軍相模総合補給廠正面入口前の大通りに面し、通りを挟んで隣接する矢部一丁目にまたがる西門地区は、元は基地労働者向けの飲食店街として成立したが、現在では徒歩圏内の住民を相手とする日用品小売商店街となっている。駅や大通り、およびこれらの商業施設から離れた区画は住宅地となっている。相模国高座郡の北部から中央部を占める台地上の原野は古くは相模野と呼ばれた。江戸時代には周辺農村の草刈り場として台地上に設定された入会地の総称として用いられ、地形について述べる際に用いられる「相模野台地」という呼称もこれによる。それに対して、相模原という呼称の使用例は比較的古い史料には見られないようである。住居表示以前の地籍図に記載されている小字名等を収録した『土地宝典』(1963年)には大字淵野辺およびここから分立した大字大沼に「相模原」という小字名が見られる。また、大字上溝の字戌四号 に含まれる区域の古い小字名として「相模原」と記載しているものがある。さらに「相模原軍都計画」に基づき1940年代に実施された区画整理事業以前の地図では、1889年(明治22年)の明治の大合併の際に溝村(1926年に町制施行し上溝町)に編入された旧田名村の飛び地 について「相模原」という小字名が記載されている。ただし、これらの「相模原」という地名がいつ頃から用いられていたかは明確ではない。1930年代後半以降、現在の相模原市域への陸軍施設の進出が相次いだが、それらの中には相模原陸軍病院(1940年(昭和15年)の開設当初は原町田陸軍病院。在日米陸軍医療センターを経て現・グリーンホール相模大野ほか)などのように「相模原」を称するものがあった。1938年(昭和13年)に臨時東京第三陸軍病院(現・国立病院機構相模原病院)が開設されると、付近を通過する小田原急行電鉄(現小田急電鉄)が小田原線上にこの病院への下車駅となる相模原駅を開業した。ただし、これらはいずれも現在の相模原市南区の小田急線沿線に当たる。相次ぐ陸軍施設の進出を背景にそれらの施設が集中する高座郡北部の上溝町、座間町ほか6村の合併による新都市建設への動きが活発化し、新自治体の呼称としてさまざまな候補の中から選ばれたのが「相模原」であった。これら2町6村の合併により1941年(昭和16年)4月29日に高座郡相模原町が発足した。1954年(昭和29年)11月20日に相模原市となる(旧座間町は1948年(昭和23年)に再分離し、現座間市)。相模原町発足に先立つ同年4月5日、省線横浜線上に相模原駅が開業した。この駅は軍都計画によって建設される新都市の中心駅として設定されたものである。省線相模原駅の開業にともない、同日、小田急線の相模原駅は小田急相模原駅と改称した。省線(国鉄)相模原駅の開業後、駅前に市街地が徐々に形成されたが、特に1954年4月に町役場(現市役所)が現在地に移転し、同じ頃に神奈川中央交通の営業所が駅前に移転して市内各地へのバス路線のターミナルとなると市内の中心商業地として発展した。1964年(昭和39年)に相模原市で住居表示を実施するにあたって最初の事業対象区域として市役所周辺とともに相模原駅周辺が選ばれ、同年5月1日、大字清兵衛新田と大字小山の各一部から相模原一丁目〜相模原八丁目が編成された。

出典:wikipedia

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