ジェファーソン・エアプレイン(Jefferson Airplane)は、アメリカ合衆国のロック・バンド。のちジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship)に改名し、スターシップ(Starship)などへ派生する。メンバーの離脱、再加入、ポール・カントナー()のソロ・プロジェクト、名称変更と再編成、80年代に起きた「ジェファーソン」名義継承権訴訟をへて、現在ではミッキー・トーマスが結成したスターシップ(Starship featuring Mickey Thomas)と、ポール・カントナーが再結成したジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship - The Next Generation)という似通った名の二つバンドが並立して存在している。前者は、エアプレインとは分立したバンドとして認識されている。ジェファーソン・エアプレインは1960年代後半のサンフランシスコのサイケデリック文化を代表するバンドであり、1996年にロックの殿堂入りを果たした。ジェファーソン・エアプレイン自体は1965年から1972年まで活動したバンドだが、「ジェファーソン」と名乗るバンドの鍵を握るのは、創設メンバーであるマーティ・バリン、ポール・カントナーであり、その2人の活動歴を軸に40年を超える変遷全体に触れる必要がある。この項では、エアプレインにとどまらず時代ごとに現在までの流れを記す。マーティ・バリン/ポール・カントナーの創始メンバーによる『ジェファーソン・エアプレイン』~『ジェファーソン・スターシップ』~『現在のジェファーソン・スターシップ』、『グレイス・スリック在籍の時期のスターシップ』~『スリック脱退後のスターシップ』、及び『ミッキー・トーマス率いる現在のスターシップ』は、それぞれ異なるファン層を持ち、時代の変化や新たな世代、音楽のジャンルや嗜好から別の流れを汲むバンドと見るのが妥当である。1960年代に吹き荒れたビートルズ旋風/ブリティッシュ・インヴェイジョン、その影響下で続々と誕生したアメリカンバンド第一世代を代表するグループ。反体制や薬物体験を歌った歌詞などにより、60年代カウンターカルチャーの申し子とされる。また、ドラッグカルチャーやライトショウを駆使したステージに象徴されるサイケデリアの時代にバンドは最初のピークを迎えたというイメージからか、日本では単に「サイケデリック・ロック」の代表格として語られる事も多いのだが、実際にはその時期は短く、もっと幅広い音楽的要素を持っていると言える。バンド創設者、マーティ・バリンは1962年にポップス/R&Rシンガーとしてシングル・デビューし、その後サンフランシスコに移りダンサーで活躍したり、フォーク・グループに参加していたが、バンド・スタイルで自分のグループ結成を目論む。一方、根っからのフォーキーであるポール・カントナーはフォーク・シンガーとしてサンフランシスコのコーヒーハウスなどで活動していた。この2人が出会い中心に、1965年にジェファーソン・エアプレインの母体が出来上がりライブ・デビュー。やがて、サンフランシスコ初のメジャー契約バンドとして1966年にはRCAからシングル/アルバム・デビューを果たし、一躍注目を集める。当初はバリンのボーカルを中心にしたストレートなフォーク・ロックのバンドではあったが、そのベースにはフォーク/R&R/R&B/ブルースが混ざり合い、男性/女性3人のボーカルに個性的でハイレベルなギター/ベース・サウンドが絡むスタイルはすでに確立されていた。1967年の『Surrealistic Pillow』制作前にはグレイス・スリックが加入してバンドに一大飛躍をもたらす。そのカリスマ性を体現するかのような強力な歌声で、アルバムから「White Rabbit」「Somebody To Love」の大ヒットが生まれた。また各メンバーも強烈に主張し始め、バリン作のメランコリックな曲、すでにホット・ツナを予感させるヨーマ・カウコネンの曲、3人のボーカルが絡み合うスリリングな曲など、その後長らくバンドを彩る多様なスタイルがすべて現れている。そして、モンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演によりエアプレインの名前は全米に広まった。高い演奏力とオリジナリティ溢れる創作力を持つメンバーが集まったことにより、これ以降、実験的な試みをスタジオ作品やライブで繰り広げ、サウンドは目まぐるしく変化し、音楽的クオリティも高まって行く。当初はバリンがリーダーだったが、3rdアルバムを制作する頃からは、独創性を発揮し始めたカントナーのリーダーシップや他メンバーの主張も台頭し、バンド内の力関係も変化し始める。傍目には危ういとさえ感じられるこの個性のぶつかり合いこそが、バンドを時代の頂点に押し上げる原動力になった。ちなみに、バリンはポップ・ソングやR&R/R&B、カントナーはフォーク・ミュージック、ギターのカウコネンはトラディショナルなブルースの追求者、ベースのジャック・キャサディはR&B、ブルーズ、R&R、ジャズと幅広く好み、ドラムスのスペンサー・ドライデンはジャズ出身という多様性を持っていた。当時の一大ムーブメントになった大掛かりなフェスティバルにもくまなく参加し、1968~1969年にかけて人気はピークに達する。ひたすら新しい音楽表現を追求したサイケデリアの時代が過ぎ、1969年のウッドストックに出演する頃にはベトナム戦争が泥沼化、バンドは反体制メッセージの代弁者としての存在感が増して行く。その中心は、政治的メッセージを発するカントナーとカリスマ性が頂点に達したスリックに移っていた。また、演奏スタイルも1970年代に入る頃にはストレートでよりヘヴィなものに変化して行った。一方、ビジネスとして巨大化し余りにも過酷になった活動の中で、よりパーソナルな音楽活動を望むカウコネンとキャサディは1969年ごろからブルーズ・デュオHot Tunaの原型をスタート。西海岸のミュージシャンとPlanet Earth Rock and Roll Orchestraと呼ぶセッションを活発に行なっていたカントナーは、1970年に自己のプロジェクトユニット、Paul Kantner Jefferson Starship名義でのアルバムを発表した。(ここでスターシップという次のコンセプトが生まれた。理屈の通らない権力者などは相手にせず理想を追求する人達で宇宙に脱出しようというストーリーは、1969年発表の曲「Wooden Ships」が原点。)さらに、オルタモントでの事件やジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンの死を契機に、バリンは音楽活動自体を見直したいと考えるようになり、自分が作ったバンドから1971年に脱退。RCAとの契約期間が終了したバンドは、このような状況においても1971年に自分達のインディペンデント・レーベル「GRUNT(グラント)」を設立し、同年、エアプレインとしてミリオンセラーのスタジオ作『Bark(バーク)』を制作。他のアーティストとも契約して作品をリリースするなど、チャレンジは続けた。しかしこの時期、L.A.勢力の台頭など音楽シーンの新旧交代も影響してエアプレインとしての活動は停滞。カントナーはスリックのソロを含むプロジェクト作品を1973年までに更に3枚制作してスターシップのコンセプトを発展、Hot Tunaもアルバム制作を続けるなど、各々のソロ活動が本格的になり、外に向かって行った。1972年に最後のツアーが行なわれた後、翌1973年にはそのライブ盤がリリースされた。しかし、Hot Tuna組の2人は完全にバンドを離れてしまい、ジェファーソン・エアプレインは正式に解散した。エアプレイン解散の翌1974年、カントナー・プロジェクト(1970-1973)のメンバーをベースにグレイス・スリックの1stソロをプロモートするツアーを行なう事になり、バンド名をパーマネントバンドとしてのジェファーソン・スターシップに決定。メンバーは、ポール・カントナー、グレイス・スリック、ディヴィッド・フライバーグ、パパ・ジョン・クリーチ、ジョン・バーベイタのエアプレイン最終組に、ギタリストのクレイグ・チャキーソ、ベーシスト/ギタリストにピーター・カウコネン(ヨーマの実弟)を加えたもの。この公演の後、ピーター・カウコネンがピート・シアーズに交代して1stアルバム『Dragon Fly』 が制作された。このように、ある時期を境にエアプレインからスターシップに単に改名されたのではなく、「エアプレイン」と「カントナーのスターシップ」が平行して活動し、エアプレインが解散した後でスターシップが改めてデビューしたのが経緯だった。1stアルバムとライブにはマーティ・バリンが早くもゲスト参加し、その曲「Caroline」はFMステーションでヘビーローテーションになる。2ndアルバム『Red Octopus』(エアプレイン以来初の全米最高1位獲得)からはバリンがフルタイムで復帰し、彼の作品「Miracles」(シングルチャート最高3位)が大ヒット。さらに77年から78年にかけては、「カウント・オン・ミー」もヒットした。復活したバリン/スリック/カントナーのコーラスワークを新しいバンド・アンサンブルに載せて、一気に人気グループの座を奪還した。エアプレインとは大幅に異なる音楽を取り入れて1970年代ロックシーンの本流に踊り出た形だが、この時はメンバー自身が主導して掴んだ成功であり、1980年代に起きた変化(後述)とは異なっていたと言える。1970年代のロックシーンで通用する音楽作りという面では、作曲・編曲で大活躍を見せたピート・シアーズの手腕が大きく貢献した。また、カウコネンとは全く違ったコンテンポラリーなスタイルを持つクレイグ・チャキーソも演奏・作曲で活躍する。4年余り続いたこの体制での全盛期にはバリンの存在感が圧倒的になり、エアプレイン結成以来ようやく彼の理想的なバンドが実現した時代でもあった。そして彼だけでなく、グレイス・スリックの歌唱力を生かした曲や、エアプレイン以来のボーカル・ワークを生かした曲も数多く生まれ、4枚のアルバムが成功を収める。バンドとしての調和もとれた時期だった。しかし、長らくバンドのシンボルであり続けたスリックが、精神的不安定から深刻なアルコールのトラブルを抱え一時脱退を余儀なくされる(1978年-1981年)。リードシンガーはマーティ・バリン一人という体制でツアーも続け、1978年にはこの編成での最終シングル「Light The Sky on Fire」を発表。これは、アメリカのTV版『Star Wars Holiday Special』のテーマ曲になり、バンドも演奏シーンで出演した。この後、ドラマーのジョン・バーベイタが自動車事故で活動できなくなり、エインズレー・ダンバーが参加する。バンドは、ラブ・バラード等を極力減らしてより強力な音楽でイメージチェンジを図ることを決め、新作のためのリハーサル/レコーディングに入る。しかし、再びバリンがバンドを離れる事態になり、後任として南部出身のミッキー・トーマスを起用。完成された1979年の『Freedom At Point Zero』は、トーマスの声質を生かしたハードロック路線だった。シングル盤はまずまずの成功を収めたが、60年代以来のファンからは産業ロック志向であるとの否定的な評価を受けた。その延長線上で創られた1981年の『Modern Times』にはグレイス・スリックがゲストとして参加、さらに1982年の『Winds Of Change』では正式復帰した。バンドは万全の体制に回復したかに見えたのだが、1980年代初頭から方向性の模索を続けなければならない状況に陥っていた。レコード会社は、当時のメインストリームになったジャーニー/ボストン/ヴァン・ヘイレン/カンサス/スティクス/ナイト・レンジャー/TOTOといったスタジアム・ロック/アリーナ・ロックスタイルのヒット曲を要求。そして、さらに急速に変化する音楽シーンはMTV全盛期に突入し、音楽ビジネスの先端は、ビジュアル戦略にも重きを置いたマドンナ/シンディ・ローパー/マイケル・ジャクソン/カルチャー・クラブ/デュラン・デュランなどのポップ・ソングに移って行った。会社は1960年代以来のベテラン・アーティストに厳しい対処をするようになり、ジェファーソンらしい音楽は急激に失なわれ、メンバー間の対立も深刻になった。それは一般的に伝えられたような、カントナーひとりが浮いてしまったという単純なものではなかった。より若いターゲットに向けてコンテンポラリーなMTV路線を志向するようになったミッキー・トーマス/クレイグ・チャキーソ/ドニー・ボールドウィン、それに対して、シンセサイザー/コンピューターを多用しながらも従来通りのコアなロック・ファンにアピールしたいと考えるポール・カントナー/ピート・シアーズ/ディヴィッド・フライバーグの2派に別れ、最後の切り札を握るのがグレイス・スリックという構図だったと伝えられる。この間、カントナーは13年ぶりにソロ・プロジェクトでの制作を復活、「Planet Earth Rock And Roll Orchestra」名義でのソロ・アルバム『Planet Earth Rock And Roll Orchestra』を発表、こちらの方が、本来のジェファーソンサウンドが展開されている作品だった。続くジェファーソン・スターシップの『Nuclear Furniture』では、当時最新のエレクトロ・ポップを大幅に導入。ここで本来のコンセプト・メーカーであったカントナーが突出してバンドと対立するようになる。この時期はレコードセールスの要因もあって、特に日本では「スターシップ」についての情報しか入らず、長いジェファーソンの歴史で単に最後のバンドがスターシップだった、という認識が強い。しかし、1985年以降の数年間は、スリックやトーマスを看板とするスターシップと、カントナーを中心としたKBC/再結成エアプレインに分裂していた。やがて、レコード会社やプロデューサーが求めるような、MTV時代に生き残るためのスタイルを受け入れようと考えたスリック/トーマスがバンドの方向性を握るようになる。バンドの変容は進み、あるライブでは女性バック・コーラスを配置する案まで出て、これにカントナーは激怒。また、最も勢いに乗っていた後進バンドジャーニーの前座を務めるという提案もあったが、かつて一緒にツアーをした時に比べ極度に安い報酬を提案されたために拒否、という話も残っている。このような経緯から、もはや主導権が取れなくなったカントナーは、もう1枚アルバムを制作した後に解散するという意思を表明するが、他メンバーは存続を要求。1984年、結局カントナーが単独で脱退し、残ったメンバー達にバンド名「ジェファーソン・スターシップ」を使わないように訴訟を起こす。(公判中、一時スターシップ・ジェファーソンと名乗って公演を続けたといい、事態の混乱を物語っている)1985年の判決の結果、両者とも使えないことになり、折衷案として「ジェファーソン」をはずして「スターシップ」となり、新たにRCAと4枚のアルバム制作の契約を結んで再出発した。バンドは当時先端のエレクトロ・ポップを全面的に取り入れ、マーティン・ペイジによるシングル「シスコはロックシティ(We Built This City)」(これは邦題だけで実際は特定の街を歌ったものではない。)は、エアプレイン時代から通算してもシングル初となる全米1位(1985年11月16日付 - 23日付)を獲得。アルバム『Knee Deep in the Hoopla』も成功を収め、エアプレイン以来果たせなかった日本公演も実現している。アルバム制作中に、元々脱退も考えていたディヴィッド・フライバーグが脱退。次のアルバム発表前である1987年には、1974年以来事実上の音楽的リーダーだったピート・シアーズも音楽性の変化に不満を感じて脱退。これにより外部ライターの楽曲を中心に完全にマーケティング主導型の制作をする体制になり、全く新しいファン層の獲得に成功。さらに勢いは衰えず「Sara」(1986年3月15日付)、映画マネキン (映画)の主題歌「Nothing's Gonna Stop Us Now(愛はとまらない)」(1987年4月4日付 - 11日付)の2曲のNo.1ヒットを生み、セカンド・アルバム『No Protection』も成功した。しかし1988年に年齢と音楽性の不一致を理由に、ジェファーソン・エアプレイン時代から在籍した最後のメンバーである、グレイス・スリックがライブ活動からの引退を表明、そのまま脱退してしまう。中心メンバーがミッキー・トーマスとクレイグ・チャキーソだけになったバンドは、メンバーを補充しながら活動を継続し、もう1枚のアルバム『Love Among The Cannibals』(最高64位)、シングル「It's Not Enough」(最高12位)、「I Didn't Mean to Stay All Night」(最高75位)がヒットして健闘を続ける。しかし、ドラマーのドニー・ボールドウィンがトーマスとの仲違いから脱退した(事実上は解雇)後の1990年に解散を決めた。次のアルバムではトーマス以外は全てスタジオミュージシャンを起用する事を要求する程にレコード会社のコントロールは熾烈になり、「バンドの音楽性もミュージシャンのパーソナリティも破壊されてしまった」と、1974年のジェファーソン・スターシップデビューから在籍し続けた最後の一人であったチャキーソが後に語っている。一方、カントナーは本来自分が目指してきた音楽をやる為に動き始めた。ソロ活動をしていたマーティ・バリンのライブで1984年中には早くも共演し、SVT(Hot Tuna解散後ジャック・キャサディが結成)が解散していたジャック・キャサディも加わって1985年にKBC(カントナー・バリン・キャサディ)BANDを結成。1986年にアリスタからアルバム『KBC BAND』(全米最高75位)を発表した。シングル「It's Not You, It's Not Me」が辛うじて最高89位などレコードセールス的には振るわなかったが、アルバム中数曲で8年ぶりにカントナー/バリンの共作も復活してジェファーソンの正統な流れを汲む演奏を聴かせ、事実上のファミリー再結集としてライブで人気を博した。当時、アメリカの抱える諸問題をストレートに取り上げたブルース・スプリングスティーンの「Born In The USA」やジャクソン・ブラウンの「For America」などがヒットしていた。KBC BANDでは1969年当時のエアプレインを思わせるような、カントナー/バリン共作のシングル「America(Arista AS1 9572)」を発表(12inchシングルやプロモーションビデオも作られたがチャートインはならず)。これは、ベトナム戦争後の問題や権力への批判を織り込みながらも未来を肯定するという内容で、商業成績という重石が取れ、晴れて軽やかに世の中に目を向けて歌えるようになった久々のカントナーらしいメッセージの曲だった。1987年、カントナーはアルバムに収録されていた曲「Mariel」がきっかけで、シンガーソングライターのクリス・クリストファーソンと共にニカラグアに長期滞在し、帰国後、ペーパーバック『Paul Kantner's Nicaragua Diary』を出版した。バンドは活発なライブ活動を続け、2ndアルバムにとりかかったがレコード会社のサポートは得られず解散した。短期間の活動に終わったが、この時のメンバーが、現ジェファーソン・スターシップ(JEFFERSON STARSHIP -The Next Generation)再結成の基盤にもなった。カントナーはKBC解散後、ヨーマ・カウコネン、ジャックキャサディと共に「Hot Tuna with Paul Kantner」としてツアーを行い、これが次の再編劇の幕開けとなる。1988年、ここに引退したはずのグレイス・スリックも加わり、エアプレインの4人が16年ぶりに顔を合わせた。そして1989年にはマーティ・バリンも参加を承諾し、かつてのドラマーだったスペンサー・ドライデンを除く全盛期の5人でジェファーソン・エアプレイン再結成が実現した。これは、スリックを含むメンバーでバンドにもうひと華咲かせようと望んだカントナーが奔走して実現したリユニオンであり、決してレコード会社主導のイベントではなかった。アルバム『Jefferson Airplane』は最高85位、シングル「Planes」「Summer Of Love」はチャートインを果たせなかったが、全米ツアーは成功を収める。東海岸でも数度のアリーナ公演をソールドアウト、地元ゴールデンゲイト・パークでは65,000人を動員するが、その直後にまた活動停止した。ホット・ツナ再始動に向けて動き始めたヨーマ・カウコネンとジャック・キャサディの再びの脱退が直接の原因になったとされる。ちなみに、カントナーの初来日となるはずだった日本公演は中止になっている。音楽メディアの反応は冷ややかで、1990年発表のRolling Stone誌の"Unwelcome-Back Band"(歓迎されない再結成)にビージーズらとともに選出された。このように1985年から1989年にかけては、かつての仲間同士が裁判沙汰になったり、再び手を組んだりという離合集散の動きが激しく、これに対してスターシップに残ったメンバーは激怒したといわれる。1989年のスターシップのアルバム『Love Among The Cannibals』は彼等を皮肉ったタイトルであるとトーマスはインタビューで語っていた。1989年、「スターシップ」「再結成ジェファーソン・エアプレイン」2グループのチャート実績は、前述のようにアルバム・チャートでは比較的拮抗するものの、シングル・チャートでは大きく明暗が分かれた。1990~1991年にかけては、カントナーはKBC BANDのキーボーディスト、ティム・ゴーマンと、ギタリスト、スリック・アギラーらとソロ・アコースティックユニットPaul Kantner's Woodenshipを組み全米でライブ活動を行なった。この当時のライブは日本向けに収録され、NHK-BSで放映されたことがある。また、Paul Kantner&Female Singers Projectを立ち上げてデモ音源まで制作したが正式には発表されないままになっている。但しここには、Jefferson Starship-The Next Generationに参加する女性シンガー、ダービー・グールドも参加し、この時の楽曲は後のスタジオ作でも取り上げられている。1992年、Paul Kantner's Woodenshipの3人に、ベースのジャック・キャサディ、フィドルのパパ・ジョン・クリーチ、新女性シンガーに地元シスコで活動していたダービー・グールドを加え、ジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship-The Next Generation)が結成された。翌1993年にはバリンも再合流し、1994年にはようやくの初来日(福岡・大阪・東京)を果たしている。権利関係の問題でエアプレインを名乗る事はできないが、ライブでは1965年デビュー以来の各ソロ作品も含めた膨大な楽曲を網羅し、1992-2007年までに21か国で計900回近くが行なわれている。またフル編成のJefferson Starship-The Next Generation、マーティとドラムスが外れたカントナーのソロステージに近いJefferson Starship-Acoustic Explorerの2種類があり、セットリストが大幅に異なる。1995年、新曲を含むライブCD(グレイス・スリックもゲスト参加)を発表。一部収録曲・ミックスの異なるスタジオ作品(グレイス・スリックもゲスト参加)を1998年(ドイツ盤)、1999年(アメリカ・日本盤)に発表。1999年には2度目の東京公演も行なった。2000年以降には、ライブCDやDVDをマイナーレーベルや公式サイトから数多く発売している。2005年以降は、ファミリーのデビュー40周年を祝うツアーを全米・ヨーロッパで続けている。2007.1現在のメンバーは、マーティ・バリン、ポール・カントナー、ディヴィッド・フライバーグ(2005年正式復帰)、ダイアナ・マンガーノ、スリック・アギラー、プレイリー・プリンス、クリス・スミス。ツアーによって、ダービー・グールド、トム・コンスタンテン、リンダ・インペリアル(クイックシルバー・ファミリーで、フライバークの夫人)、ピート・シアーズ、ピーター・カウコネン、ボビー・ヴェガ(ベーシスト)などがゲスト参加している。ソロ活動に転向していたミッキー・トーマスは、1992年に自己のソロバンド“Starship featuring Mickey Thomas”を編成。他にジェファーソン・ファミリーとして繋がりのあるメンバーは、かつてKBC BANDに在籍していたドラマーがひとり居るのみで、エルビン・ビショップ・グループ時代や、1979年以降に自分が関わった曲をパッケージしたツアー活動を続けている。2004年(東京)の日本公演はDVD/CDも発売され、2006年(米軍厚木基地内)にも来日した。一時、レコード会社と契約をしていたがスタジオ新作の発売は実現していない。2007年1月現在、女性シンガーを新たに加えて"Starship starring Mickey Thomas"と若干改名している。2008年に入り、歴代5人目になる新女性シンガー、が加入した。彼女は自分のバンドも持ち、ブロードウェイのヒット・ミュージカル「Love Janis」の主役も務めた経歴を持つ。また、彼女自身が長年のグレイス・スリック・ファンとの事である。前任のダイアナ・マンガーノはツアー活動を休止しているようだが完全に脱退した訳ではなく、さらに前任のダービー・グールドと同様、今後ツアーによっては再帰することもあり得る模様で、レギュラー/セミレギュラーの女性シンガーが合計3人いる状態になったとも言える。また、2005年からシンガーとして復帰したディヴィッド・フライバーグの夫人でシンガーのリンダ・インペリアル(Linda Imperial)もバックシンガーとしてライブには頻繁に参加しており、ジェファーソン・スターシップは再び、カントナーを中心に厚いボーカル陣を擁するプロジェクト的性格のバンドに変貌して来た。また、2005年以来ツアーに同行しているトム・コンスタンテンも、セミレギュラーメンバーとしての参加が続いている。プレイリー・プリンスは2007年より、The New Carsのツアー参加を続けているが、脱退してはない。現在のツアーメンバーは以下の通りの大所帯となっている。2008年4月現在、バンドはカリフォルニアのインディペンデント・レーベル、GRA(Global Recording Artists)にて、久々のスタジオアルバムを制作中。タイトルは『Jefferson Tree Of Liberty』で、2008年9月リリースの予定。※2014年現在もライブに出演しているメンバーを記載。※スターシップに在籍したメンバーは、スターシップ (バンド)を参照。以上、通算すると合計は31名となる。(シングルはUS初回リリース通常盤のみ)(以下は限定発売・CD-R仕様)Take Me to a Circus Tent: The Jefferson Airplane Flight Manual / Craig Fenton著Got A Revolution! The Turbulent Flight of Jefferson Airplane / Jeff Tamarkin著We All Are One / Gianluigi Blasi 著ストレンジ・デイズ 2008年3月号 / ジェファーソン・スターシップ記事(ストレンジデイズ刊, 2008)ストレンジ・デイズ 2005年9月号 / ジェファーソン・エアプレイン特集(ストレンジデイズ刊, 2005)レコード・コレクターズ 1987年8月号 / サンフランシスコ・サウンド(1) ジェファスン・エアプレイン(ミュージック・マガジン刊, 1987)レコード・コレクターズ増刊 / アメリカン・ロック Vol.1(ミュージック・マガジン刊, 1992)POP-SICLE (ポップシクル) Vol.4 No.10, December 1979(ポップシクル 木崎義二 刊, 1979)
出典:wikipedia
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