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塩川正十郎

塩川 正十郎(しおかわ まさじゅうろう、1921年(大正10年)10月13日 - 2015年(平成27年)9月19日)は、日本の政治家。自民党の政治資金団体たる財団法人国民政治協会会長及び党友組織自由国民会議代表、東洋大学総長、財団法人関西棋院前理事長、特定非営利活動法人武士道協会理事長。愛称は「塩爺」(しおじい)。毎年11月に日本テレビ系列で放送される『ベストヒット歌謡祭』では大会実行委員会名誉会長を務めていた。衆議院議員(11期)、自民党総務会長(第1次橋本内閣時代)、運輸大臣(第52代)、文部大臣(第108代)、内閣官房長官(第50代)、自治大臣(第42代)、国家公安委員会委員長(第52代)、財務大臣(第2代)などを歴任。大阪府中河内郡布施村(現在の東大阪市)に生まれた。父は旧布施市市長の塩川正三。大阪府立八尾中学校(現大阪府立八尾高等学校)出身。郷里の高等学校にでも進学するつもりだったところ、父から「田舎の学校へ行ったってしょうがない。都会の、それも慶應へ行け。慶應へ行くんだったら、経済じゃないか。それ以外は、あかんぞ」と言われ慶應義塾大学経済学部へ入学。在学中、学徒出陣により出征する。大学では高橋誠一郎の講義を熱心に聴講し、登山にも熱中した。終戦後、会社を設立し、経営者となる。その後、青年会議所や信用組合の幹部、市役所の助役を経て1967年の総選挙で旧大阪4区より当選、衆議院議員となる(当選同期に山下元利・増岡博之・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫・水野清など)。当選後は福田赳夫派に入会し、福田赳夫内閣の発足時には内閣官房副長官に抜擢された。党内では森喜朗、三塚博、加藤六月らと共に安倍派四天王と称され、安倍晋太郎の総裁就任が悲願だった。税制など経済政策に精通しており、地価税を導入した時の党税調会長として知られる。鈴木善幸内閣で運輸大臣として入閣したのを皮切りに文部大臣(第3次中曽根内閣)、内閣官房長官(宇野内閣)、自治大臣・国家公安委員会委員長(宮澤内閣)を務めた。選挙では中選挙区時代に10回連続当選したが、小選挙区比例代表並立制導入後初めての選挙である第41回衆議院議員総選挙では重複立候補を辞退し、大阪13区から出馬するが、新進党新人西野陽に破れ落選。2000年の第42回衆議院議員総選挙で当選し、国政に復帰した。2001年自由民主党総裁選挙で森派の後輩・小泉純一郎の選対本部長を務める。その後成立した第1次小泉内閣で財務大臣に就任。。金融実務や党税調会長の経験を生かし、小泉構造改革の旗振り役をつとめた。第1次小泉第1次改造内閣でも留任し第1次小泉第1次改造内閣発足時に退任し第43回衆議院議員総選挙不出馬で引退。小泉とは「30年来の朋友」(2001年の小泉内閣メールマガジン)という間柄で、青木幹雄と組んで党内融和を説く森とは一線を画し、小泉の後見人として影響力を行使した。日本相撲協会運営審議会委員、東洋大学総長、財団法人尾崎行雄記念財団顧問、財団法人国民政治協会会長、自由国民会議代表、時代を刷新する会会長(三代目)、ベストヒット歌謡祭実行委員会名誉会長を務めた。また『産経新聞』にて毎月第3木曜日にコラム「塩爺のよく聞いてください」(2008年4月 - 2013年2月)を連載していた。2004年には東洋大学に於いて国際交流並びに外国人留学生の育成を対象とした奨学金『塩川正十郎奨学金』を創設した。2015年9月19日、肺炎のため大阪市内の病院で死去。。葬式の際、小泉純一郎が弔辞を読み上げた。没後、日本政府は正三位と銀杯一組の追贈を閣議決定した。群馬県邑楽郡板倉町にある東洋大学板倉キャンパス内に塩川正十郎の銅像がある。これは、塩川が本大学の理事長を務めたことによるもの。尚、塩川は他界するまで東洋大学総長を務めた。父は旧布施市市長の塩川正三。大阪大学名誉教授(応用化学)の塩川二朗は弟。長男の塩川耕士は近鉄バス社長。TBS元プロデューサーの塩川和則は親戚筋に当たる。甥の一人は大学で一気飲みを強要された後、急性アルコール中毒で急死した。朝日新聞への投書でこの風潮に問題提起している。

出典:wikipedia

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