渡辺 謙太郎(わたなべ けんたろう、1930年12月22日 - 2006年11月14日)は、日本のアナウンサー。東京府(後の東京都)出身。1953年2月、TBSにアナウンサーとして入社。民放のスポーツアナウンサーの草分けで、温かみのある実況の名調子は「謙太郎節」と呼ばれ、プロ野球中継に一時代を築いた。皇太子御成婚中継の他、メルボルン、東京、メキシコ、ミュンヘン各五輪の放送も担当。ワイドショーの司会等もこなし、1985年12月にTBSを定年退職。1986年1月、フリーに転向後はメディア・スタッフ代表取締役の他、東京運動記者クラブ会友、日本プロゴルフ協会学術委員、日本ボウリング場協会理事も歴任した。東京都立第五新制高等学校(のちの東京都立小石川高等学校)→早稲田大学文学部卒業。大学時代は軟式野球部に所属する傍ら、母校である小石川高校野球部の監督も務めていた。1953年2月にラジオ東京(KR→KRT。1960年11月29日より、TBS)へアナウンサー第2期生として入社。1963年11月報道局運動部兼ニュース部→1967年8月報道局運動部→1967年11月報道部運動部兼アナウンサー研修室→1970年7月ラジオ本部アナウンス室兼テレビ本部報道局運動部→1973年3月ラジオ本部アナウンス室→1976年11月ラジオ本部→1981年7月ラジオ局→1984年9月ラジオ局兼スポーツ局に在籍し、主に野球をはじめとするスポーツ中継の実況担当として活動。この間、ラジオ局専門職次長兼スポーツ局専門職次長→ラジオ局専門職局長兼スポーツ局専門職局長(1985年6月28日)等を歴任。1955年4月17日には、ラジオ東京テレビ(KRテレビ)初の野球中継である『東京六大学野球 明治対法政一回戦』の実況を担当。1956年にはKRテレビ史上唯一の自社制作による全国高等学校野球選手権大会決勝戦中継を担当した。近代オリンピックは、1956年のメルボルンオリンピック中継実況を小坂秀二と共に担当したのを皮切りに、1964年の東京オリンピックでは開会式・陸上競技・柔道などのラジオ実況を、1968年のメキシコシティオリンピック、1972年のミュンヘンオリンピックでは日本の民放アナウンサー代表として開会式の実況を担当している。1975年度には、テレビの『100万ドルテニスマッチ コナーズ対ニューカム』において、第1回アノンシスト賞 グランダ・プレミオを受賞。1980年には、テレビの早朝ワイド番組『テレビ列島7時』のメインキャスターも担当した。1985年12月にメディア・スタッフへ出向し、同月定年退職。その後はメディア・スタッフ所属のフリーアナウンサーとして活動する一方、代表取締役会長を務める。フリーに転向後も1990年代前半頃までTBSとの専属契約の形でプロ野球中継を担当した他、テレビ東京のゴルフ番組『日立・お楽しみゴルフ大学』→『日蔭温子の日立サンデーゴルフ』の司会進行やJリーグ中継、プロ野球マスターズリーグの場内実況なども担当した。2005年11月には、東京都千代田区体育協会の講演を神奈川県湯河原町の千代田荘で行った(当時の副会長・現会長が学友という関係から)。2006年11月14日午前2時44分、心不全のため、東京都新宿区内の病院にて死去。享年77(75歳没)。※特記ない限り、TBSでのもの。1967年4月30日、プロボクシング世界ジュニアウェルター級選手権試合、挑戦者の藤猛が王者サンドロ・ロポポロ()にKO勝ちして世界王座を奪取した試合のテレビ中継の実況を務めた。具志堅用高(WBA世界ジュニアフライ級王者、協栄)の世界戦のラジオ中継実況も数回担当している。1977年9月3日、プロ野球選手・王貞治の本塁打世界新記録となる756号を達成した試合(巨人対ヤクルト戦)を実況、達成したときに「王万歳!! 皆さんとともに、心からおめでとうと言いましょう」とコメントした。なお、この時の実況について、歴史的一瞬であるのだから、後々参照したときの記録のためにも、何月何日何時何分と日時を言っておくべきだったという後悔が残っていることを後年口にしていたと、後輩アナウンサーの吉川美代子は書いている。プロ野球実況では大阪・朝日放送(ABC)の植草貞夫と共に“東の渡辺・西の植草”と並び称され、ラジオの巨人対阪神戦中継では各チームの応援実況を行ったこともあった(巨人…渡辺、阪神…植草)。1994年に発表されたプロ野球漫画『あぶさん』(著:水島新司)で、景浦安武(架空の選手)のシーズン本塁打新記録がかかった試合のラジオ中継の実況を担当するエピソードが描かれた(解説:田淵幸一、ゲスト解説:王)。
出典:wikipedia
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