青木 勇人(あおき はやと、1977年5月6日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(投手)。2011年度から、広島東洋カープの3軍投手コーチ。1977年に東京都江戸川区で生まれる。幼少期は巨人ファンで、桑田真澄・斎藤雅樹・原辰徳らに憧れていた。江戸川区立上一色南小学校1年から野球を始め、中学時代も軟式野球部に所属し、遊撃手で活躍した。修徳学園中学校・修徳高等学校に進学して硬式野球部に入部したが、本人と推薦組の選手達との間にある待遇の差に、1ヶ月で退部した。一時は野球を辞めようと思ったが、軟式野球部の監督に誘われて軟式に転向。エース投手として活躍し、3年時は全国高等学校軟式野球選手権大会でベスト8に進出。一般入試で進学した同志社大学では準硬式野球部に所属。1年時の全日本大学準硬式野球選手権大会で優勝する。準硬式の関西六大学リーグでは通算28勝、全公式戦39勝を挙げた。硬式の経験が長くないにも関わらず1999年のドラフト会議で西武ライオンズから6位指名を受けて入団。ドラフト6位と下位指名ながら、1年目のから17試合に登板して防御率2.60の結果を残した。には登板数を伸ばし、大事な場面での登板も増え、46試合で防御率2.96、プロ初勝利を含む4勝を記録した。も36試合に登板した。3年目までは126イニングで四死球は32とかなり少なく、主力投手として活躍した。2002年シーズン中に肩を故障。に復帰するも、対大阪近鉄バファローズ戦にて中村紀洋に死球を与えた時、青木が帽子に手をやることもなかったため、そのことに激高したタフィ・ローズに突き飛ばされ、外傷性頸部症候群(むち打ち症)になってしまう。それによる降格以降は思い切りの良さが消え、故障も重なって低迷が続いた。これ以降3年連続防御率2桁台と不振に陥った。3月23日、福地寿樹との交換トレードで広島東洋カープに移籍した。2006年は8試合のみの登板だったが、被安打4で防御率0.00と安定していた。は梅津智弘の不振と上野弘文の経験不足もあり、8月から中継ぎとして活躍し、防御率3.00・15ホールドを挙げた。四球の少ない投球で防御率は途中まで1点台と、抑えの横山竜士と共に安定していたが、終盤になって打ち込まれるケースが多かった。9月1日、前田智徳の通算2000本安打達成試合において1/3回登板ながら5年ぶりの勝利を挙げた。は前年から被打率が悪化して11試合の登板に終わった。は再び出場機会を増やし、29試合に登板した。は6試合の出場に留まり、10月3日に戦力外通告を受けて同年限りで現役を引退した。2011年からは広島の3軍投手コーチを務める。高校では軟式、大学では準硬式と硬式野球の経験が全く無いにもかかわらず、プロ野球球団にドラフト指名された異色の選手。適応力と抜群の野球センスを発揮し、早い時期から中継ぎとして頭角を現した。投手でありながら俊足でもあり、投手としての守備力も高かった。サイドスローから平均140km/h前後の速球と多彩な変化球を低めに集めるスタイル。スライダー、シュート、シンカーなどを投げ分ける器用さが持ち味で、コントロールも非常に良い。初球から勝負を意識し、どんどん攻めるスタイルという事もあり、2007年は四死球が1試合平均0.82という少ない数字であった。プロ入り当初はスリークォーターのフォームからナックルボールを多投する変則派であったが、2001年シーズン半ば頃よりサイドスローの軟投派に転向した。2006年、当時の2軍投手コーチだった石井丈裕と「スピードが無い分、打者からボールの出所を見にくくするため」としてフォームを研究。広島移籍後は西武時代と比べると腕の位置が大きく下がった。小林幹英からは「いつも変わらない投球ができる」という高い評価を受けていた。2000年8月7日のオリックス対西武19回戦(神戸)において、9回表2死満塁の場面で代打として登場した投手の松坂大輔が2点タイムリーを放ったが、青木はその直後に松坂の代走として出場している。これは西武ベンチが野手を全員使い切ってしまっていたためであり、松坂に代えられたのも試合途中から9番に入っていた投手のデニーであった。当時の東尾修監督はその場面での代打候補として松坂と青木の2人を考えていたという。
出典:wikipedia
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