能登線(のとせん)は、かつて石川県鳳珠郡穴水町の穴水駅と石川県珠洲市の蛸島駅を結び、のと鉄道が運営していた鉄道路線である。能登半島の北部、奥能登の南岸を走っていた路線である。1959年に国鉄能登線として開業。過疎地域に建設された上に、開業当時には既に自家用車が普及しつつあったため、乗降客は数年増加したのち減少を始め、1968年には早くも赤字83線に名を連ねている。その後、奥能登観光ブームにより一時的に盛り返すも、沿線道路網の発達などにより乗客減に拍車がかかった。国鉄再建法により全国の不採算路線を廃止する方針が示される中、沿線自治体の存続活動もむなしく、能登線は1985年に第3次特定地方交通線(以下・第3次指定)候補に選定され、国鉄の路線として廃止となる可能性が高まった。これを受け石川県は、「能登振興のために鉄道は必要」として、第三セクター鉄道としての存続に意欲を示し、共に三セク化によって第3次指定路線の存続を企図していた高知県・愛知県(それぞれ土佐くろしお鉄道・愛知環状鉄道を設立)とともに能登線の早期の第3次指定を国に求め、その結果1986年5月末に第3次指定に先行承認されることとなった。こうして1987年に第三セクター「のと鉄道」が設立され、1988年にのと穴水駅(現・穴水駅) - 蛸島駅間が「のと鉄道能登線」として開業した。転換後に列車のフリークエンシーを向上させた結果、収支はほぼ均衡を保ち、転換交付金を積み立てた基金で営業損失を補填した結果、のと鉄道は開業後3年間黒字を計上した。しかし、のと鉄道が七尾線の経営を引き受けた頃からのと鉄道の赤字額が目に見えて増大し始め、同時に能登線の乗客も減少していった。2004年3月23日ののと鉄道の取締役会で能登線の廃止が決議され、2005年4月1日付で廃止に至った。廃止後は能登中央バス・奥能登観光開発の2社(現在は統合されて北鉄奥能登バスに一本化)による路線バス(代替バス)に転換された。乗客の平均乗車距離は13.9kmと長く、通学客への影響は大きかった。珠洲市内から列車で石川県立七尾高等学校に通っていた学生は下宿を余儀なくされ、珠洲市内の高校へ向かう学生も混雑の激しいバスでの通学を強いられているという。能登線の全49のトンネルにはいろは順に起点から平仮名がふられていた。これには事故等があった場合にその発生場所を即座に知らせるという目的もあった。※廃止時点廃止直前時点では各駅に停車する普通列車のみが運行されており、運行系統としては七尾線とほぼ一体であった。廃止直前時点でおおむね2時間に1本が運行されていた。転換当初は、毎時1本程度の運行であり、金沢から直通の急行「能登路」や、自社のパノラマ気動車NT800形を使用した急行「のと恋路号」も運転されていたが、「能登路」は2002年3月23日のダイヤ改正で、「のと恋路号」はさらにその半年後の2002年10月に廃止された。なお、穴水駅 - 珠洲駅間の上下最終列車が快速として運転されていた時期もあった。のと鉄道時代の使用車両。すべて気動車。1922年には既に改正鉄道敷設法で飯田までの建設が定められていたが、戦後まで着工されなかった。1953年になってようやく着工されるが、国鉄ローカル線合理化のさなか建設が推し進められたため、政治路線との批判に晒されることとなった。1959年に穴水 - 鵜川間、1960年に鵜川 - 宇出津間が開業。このうち後者には開業から1961年5月20日までの間通常の1.6倍の割増運賃が適用された。1961年4月6日の運賃改定で当該区間が割高となるため割増率が1.3倍に軽減され、同年5月に新線建設補助特別措置法が成立し、補助金が支給されるようになるとこの割増運賃制度は撤廃された。さらに1962年には改正鉄道敷設法別表に飯田 - 蛸島間が追加され、1963年に宇出津 - 松波駅間、1964年9月に松波 - 蛸島駅間が開業、このうち後者は日本鉄道建設公団による初めての建設線であった。1994年から1996年にかけて近代化補助金を活用して列車集中制御装置 (CTC) の設置を行っている。1996年に蛸島駅より東の鉢ヶ崎海岸で第16回全国豊かな海づくり大会が開催されるにあたり、そのアクセス路線として当路線の延長が1993年より検討された。1994年には県議会で、同年度中の免許取得や施工認可を得て1995年度より土地買収や工事の着手に当たりたいという県企画開発部長の答弁もなされている。しかし予定ルートに道路との交差があり、そこを立体化しないと運輸省の認可が下りないことが判明する。さらに阪神・淡路大震災を受けて運輸省が鉄道施設等の耐震基準を見直したことも加わり、この二つの理由で工費が当初の予定よりも大幅に増加することから、構想は取りやめになった。廃止から1年が経過しようという2006年3月19日、廃止を推し進めた現知事と能登線復活を公約する候補が県知事選挙で戦うことになった。廃線に向けた動きが出てきた頃、存続を求める沿線住民らで市民団体が結成された。廃止手続きが実施されると事業の継承が困難になることから、鉄道事業廃止を休止にするよう国土交通省などに要望が出され、廃線直前の2005年2月には存続の受け皿会社を設立することを発表していた。廃線に反対した市民団体は廃線後も復活に向けて活動していたが、2006年11月より全線にわたる線路の撤去作業が開始され、復活は幻となった。2005年10月に公共交通問題に取り組む地元市民グループが元利用者を対象に、「奥能登の公共交通と暮らしに関するアンケート」として、廃線によって地域や生活がどのように変化したかを調べるアンケートを実施した。その結果、96.8%の人が「廃線が地域商業、観光、通学生等に影響があったと思う」と回答し、「現在、能登線の廃止についてどう思っているか。」という問いに対しては59.1%の人が廃線は失敗で、もっと反対をすれば良かった・復活を望むと回答、「今後の奥能登の公共交通はどうあるべきか。」という問いには68.3%の人が鉄道を復活整備と回答していた。線路・施設の撤去は2006年11月1日より本格的に開始された。現在ではほとんどの区間でレール・枕木が撤去されており、橋梁、路盤の撤去も頻繁に行われ、能登線の痕跡は消えつつある。なお、地元自治体ならびに沿線住民の希望により、以下の区間は線路が残されている。
出典:wikipedia
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