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清水章夫

清水 章夫(しみず あきお、1975年9月9日 - )は、大阪府豊中市出身の元プロ野球選手(投手)。小学生から野球を始めるがライトで8番打者。中学でも野球は続けたが本人も下手くそだったと振り返る。大阪高校進学を期に野球を止めるつもりだったが、友人に誘われ見物した軟式野球部に入部し、ここで初めて投手を務めた。2年連続で大阪大会で優勝し注目を集めた。しかし硬式野球への憧れは捨てがたく、名門の近畿大学セレクションを受け合格。一年目は二部(夜間部)に入学し二年目に一部に編入された。二岡智宏、宇高伸次、藤井彰人、山下勝充らとチームメイトになり、4年時にはチームを全日本大学野球選手権大会優勝、明治神宮野球大会優勝などアマチュア五冠に導く。関西学生リーグ通算16試合登板、11勝1敗、防御率1.14。最優秀選手1回、最優秀投手2回、ベストナイン1回受賞。ドラフト時は6球団の争奪戦の末、日本ハムファイターズが逆指名で獲得した(ドラフト1位)。入団後の2年間は左肩やひじの故障に泣いたが3年目のに先発投手として6勝を挙げる。しかしその後思うように勝ち星を増やせず、に中継ぎに転向し50試合に登板した。は42試合に登板したが防御率6.88と低迷。同年オフ、何かを変えたいと投球フォームをサイドスローに変更した。だがキャンプの投球練習中にひじを壊し、は6年ぶりに一軍登板無しに終わった。にはオーバースローに戻した。一軍で中継ぎとして出番を与えられ、4月1日のオリックス戦で約2年振りの白星を手にした。清水の日本ハム球団所属選手時代に球団は04・06の2度プレーオフ進出も清水自身は登板機会皆無。6月28日に歌藤達夫・萩原淳との交換トレードで木元邦之と共にオリックスへ移籍した。移籍先のオリックスではこの年一軍登板無しに終わった。しかし、この年二軍で二軍投手コーチの清川栄治の指導を受けてサイドスローに再転向した。秋のフェニックス・リーグで好投をテリー・コリンズ監督に見せ好印象を与えたが、の一軍キャンプには呼ばれなかった。しかし腐らずに練習に打ち込み、二軍戦で13試合自責点2の好成績を挙げ、住友平二軍監督の推薦を受けて5月17日ロッテ戦で一軍昇格した。さらにコリンズ監督が退陣して二軍コーチ陣が一軍の指揮を執ると重用されるようになり、主に左のワンポイントとして34試合に登板。5月25日の横浜戦で、移籍後初勝利を挙げた。8月14日、古巣の日本ハム戦で6年振りとなるセーブを挙げた。8月28日のソフトバンク戦では、2点リードの8回裏2死2,3塁の場面で登板したが、本多雄一に初球で内野安打を許して降板。その後、本多が決勝のホームを踏んだため、プロ野球史上22人目の1球敗戦投手を記録した。大阪ドームでの2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ1stステージ初戦で中継ぎ登板し自身の現役生活唯一のポストシーズン出場。もワンポイントリリーフとして一軍に定着し、共に自己最多となる58試合登板、11ホールドを記録した。8月25日の日本ハム戦では、2点リードされた10回表に登板し、稲葉篤紀を初球でレフトフライに仕留めると、その裏に味方打線が奮起して逆転サヨナラ勝利を収め、史上28人目の1球勝利投手を記録した。これに伴い、1球勝利投手と1球敗戦投手を両方記録した史上3人目の投手となった(落合英二・林昌樹が過去に記録)。は肘の故障に苦しみ一軍出場無し。2010年10月2日付で、球団から戦力外通告を受け、現役引退。引退後は広島県福山市で、夫人の実家の自転車店「サイクルハウス ケンズ」で義父母と共にスタッフとして働いている。球団スタッフとして、業界に残る道もあったが、未練や悔しさを断ち切るために全く異業種への転向となった。2013年には三原市で開催されたトライアスロンにも参加している。

出典:wikipedia

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