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伏見城の戦い

伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦。豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康は、慶長5年、度重なる上洛命令を無視した上杉景勝を公儀に反抗する逆臣として征伐すると称し、会津攻めを開始した。すでにこの前年には、家康と並び称された親豊臣派の大老・前田利家が病死しており、五奉行の石田三成ら反家康派も失脚していた。家康は畿内の守りとして、譜代の家臣である鳥居元忠、内藤家長、松平家忠、松平近正、安藤定次ら1,800名ほどの兵を伏見城に残すに留め、徳川軍主力を率いて会津攻めに向かった。畿内に軍事的空白が生まれたことを好機と見た石田三成は、毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵し、7月17日、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を叩きつけた。翌7月18日には、西軍総大将である毛利輝元の名で、伏見城の守将・鳥居元忠に対して伏見城を明け渡すように命令が出された。このころに同じく伏見城を任されていた木下勝俊は早々に退去したが、家康に同城の死守を命じられていた元忠はこれを拒絶し、西軍は大挙して伏見城を包囲、攻撃を開始した。伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋で、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂、大谷吉継などが攻城側に参加し、総勢4万人の大軍であった。これに対して、守備軍は鳥居元忠を総大将とした1,800人であった。なお、徳川家康から要請を受けていた島津義弘が1,000人を引き連れて加勢を申し出、入城を求めたが、その話が鳥居元忠に伝わっておらず、入城を拒否されている。伏見城は豊臣秀吉が築き上げた巨郭であるとは言え、兵力差から考えれば短時日で決着するはずの戦いであったが、攻城側は苦戦を強いられた。城将の鳥居元忠とその兵達が予想外の奮戦を見せ、また包囲軍の内部にも三成らに強制的に西軍として与させられた者がおり、戦意が上がらなかったなどの要因があったためとされる。状況を打開するため、五奉行の長束正家に伏見城内にいた甲賀衆の妻子一族を捕縛させ、内通しなければ家族を磔にすると脅迫した。正家は近江水口岡山城の領主であったため、甲賀衆に属す家臣がいたが、伏見城内にも徳川氏の伊賀衆の他に甲賀衆もいた。甲賀衆はこの脅迫に応じ、伏見城内に火事を起こした。この裏切りによって支えきれなくなり、8月1日に元忠は自分の所にやってきた敵将の鈴木孫一に首を刎ねられ、討死し、伏見城はようやく落城した。この戦いは、9月15日に行なわれることになる関ヶ原本戦の前哨戦であった。本来なら数日で落とせたはずの伏見城に10日以上もの期間をかけたため、西軍のその後の美濃・伊勢方面に対する攻略が大きく遅れる要因となったとされる。また、島津義弘の加勢についての行き違いによって、当初は東軍に加わる予定だった島津家が、翻意して西軍に加わることとなった。また、徳川家康が鳥居元忠らわずかな守備兵を伏見城に残して会津攻めに向かったのは、石田三成ら反家康派を挙兵させる狙いがあったからだとも言われている。事実、家康は7月18日の時点ではまだ江戸城にあり、7月21日になってようやく会津に向かって進軍を開始していた。

出典:wikipedia

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