祈祷書( はキリスト教の一派であるイングランド国教会から始まった世界の聖公会教会が広く使っている礼拝の式文の集大成である。聖公会において、祈祷書(きとうしょ、The Book of Common Prayer)とは、聖公会系の教会で使われる、祈祷・礼拝・儀式における手順を示した規則書である。誕生・洗礼から婚姻また葬儀まで、起床から就寝まで、信者の公的および私的信仰生活のすべての局面が一冊の本である「祈祷書」に集成されており、この一冊のみを用いることは、聖公会の著しい特徴のひとつである。祈祷書は現在も、世界各地の聖公会系の教会・礼拝で使われている。祈祷書はイングランド宗教改革のなかで、カトリックの聖務日課(時祷書)から派生して作られた。祈祷書以降、その規則にのっとりそれまでのラテン語による礼拝から英語が礼拝で使われるようになった。16世紀から17世紀にかけて幾度か大幅に改訂された。ヘンリー8世からメアリ、エリザベス1世治世下でプロテスタント・カトリックのせめぎ合いがおこり、そのたびに祈祷書も大きく変更されたが、大きな改訂は1662年が最後になった。しかし祈祷書の細かい修正はその後もたびたび行われた。聖公会における典礼神学の安定を反映して構成上の大きな改訂がなされなかった一方、祈祷書の源泉をなす聖書の読み、すなわち英語翻訳は、イングランドにおける聖書学および古典文献学の発達をその時々に反映し、細かい表現の改訂がたびたび行われた。欽定訳は長く改訂がなされなかったが、しかし典礼で実際に用いられる頻度の高い祈祷書の改訂を通じて、近世の聖公会は本文研究の成果の恩恵に多く浴していたということができる。英国国教会で最も初期の英語祈祷書は、1544年につくられた「訓戒と詠唱」(Exhortation and Litany)である。「訓戒と詠唱」はマルティン・ルターの訓戒とマイルス・カヴァーデール訳の新約聖書から多大な影響を受けていた。議会の指示を受けて訂正を加え、1548年、カンタベリー大司教のトマス・クランマーによって完成をみた。これがイングランドの最初のプロテスタント信仰祈祷書となった。この祈祷書による礼拝は、当初既存のラテン語によるミサに追加する形で行われた。以降1552年を皮切りにして、幾度にもわたる改訂が行われるが、クランマーの言葉のいくつかは現代まで祈祷書に残っている。しかし1553年カトリックの女王メアリが即位すると、イングランドに宗教改革への反動がおこった。クランマーは1556年3月21日焚刑に処され、祈祷書の使用は禁止された。祈祷書がふたたび日の目をみるのはエリザベス1世の時代になってからである。エリザベスは即位した翌1559年、新しい祈祷書を出版した。この版は100年以上にわたって使われ、ステュアート朝においても公式祈祷書となった。1559年版祈祷書はアメリカの最初の国教会系教会の礼拝にも採用されている。この祈祷書は以下の特徴を持ち、クランマー版よりもカトリック寄りに作られており、エリザベスの中道への志向がみてとれる。チャールズ1世がスコットランドに実施しようとして主教戦争をおこしたのも、1559年版祈祷書であった。この版は、1645年にピューリタンが多数を占めた長期議会によって違法とされるまで広く使われていた。王政復古ののち、新しい祈祷書がつくられた。この版はそれまでの中道路線から、プロテスタントの方向へ大きく舵を切る改訂となった。イングランドの聖職者たちがピューリタニズムの影響を受けており、それが反映されたためである。これ以降も改訂がなされたが、いずれも小幅にとどまり、大枠としては1662年版の路線で現在も使われ続けている。1662年の改訂は、古語をわかりやすい語に改めるいっぽう、クランマーの路線を継承していた。この祈祷書はイギリス帝国の世界進出のなかでに公式聖公会祈祷書として使われ、その結果、世界的な国教会派教会(英語の他の宗派の典礼)の祈祷書として広まった。1662年版以降、祈祷書改訂の大きな動きは見られなくなった。17世紀後半にプロテスタント化をさらに徹底させた祈祷書も作られたものの、国教会は受け入れなかった。しかしこの祈祷書は、多くのイギリス植民地の国教会系の教会に広がった。祈祷書改訂の動きが出てくるのは20世紀初頭になってからである。1927年に完成した改訂版は、国教会保守層にも受け入れられるように、礼拝の方法は各々の教会・教区によって決められるとした。こうした柔軟な対応が受け入れられ、国教会の聖職者会議・総会は1927年版を承認した。しかし、カトリック寄りであるという批判もあって、イギリス議会下院は採択を否決した。このため、正式の祈祷書として用いられることはなかったが、1部の式文はThe Alternative Service Book(1980年)に再録された。2000年に、英国聖公会は新しい祈祷書を含むシリーズ「」の使用を始めた。これは、それまで代替的に使用が許可されていた「」(1980年発行)に代わるもので、「聖書日課」は3年サイクルの「改訂共通聖書日課」が採用され、これまでの祈祷書と共に併用されていく。スコットランド聖公会()は長老派教会がスコットランドの大多数を占める中にあって、独立した祈祷書(Scottish Book of Common Prayer)を持っており、1764年に大きな改訂が行われて、1929年には完全な形で発行されている。以来1982年にはユーカリスト文が現代風のものが追加されるなどのたびたびの改訂も行われている。 アメリカ独立戦争の時にイギリス聖公会からの使徒継承ができなくなったアメリカの聖公会教会はスコットランド聖公会に助けを求め、1784年にイギリス以外での初めての主教がアメリカで誕生し、その後独立して米国聖公会を1607年に正式に発足させている。米国聖公会祈祷書( )は当時のイギリス聖公会およびスコットランド聖公会の両聖公会祈祷書も参考にして1790年初めてまとめられ、幾たびかの小改訂を経て、1928年、1979年に大改訂が行われて、現在は「第2ユーカリスト式文」(Rite 2、現代風)、交読詩編(The Psalter)、改訂共通聖書日課などが入ったこの1979年版を一般に用いている。 日本聖公会でも、全国統一の祈祷書が用いられている。1859年に日本での布教が開始されたときには英国国教会・米国聖公会の宣教師が持ち込んだ派遣元の祈禱書およびその日本語訳が用いられていたが、1879年にすでに中国語に翻訳されていた祈祷書を基にした’’聖公会祷文’’が発行され、その後も改訂増補をされながら使用されていた。1959年に翻訳版でない日本独自の祈祷書である’’日本聖公会祈祷書’’が日本聖公会教務院によって発行された。文庫本サイズで黒色のハードカバー表紙に十字架があり、背表紙には金文字で’’日本聖公会祈祷書 詩編付‘’と記されている。1959年版祈祷書には全編を通じて文語が用いられており、聖餐式で用いられる主日ごとの特祷・使徒書・福音書なども掲載されている。当時の時勢を受け、諸祈祷・感謝の項には、神道という非聖公会・非キリスト教宗教の長である天皇や皇室に対してキリスト教の神の助けを願うという特異な祈りも加えられた。(なお、1988年、祈祷書から天皇と皇室のための祈祷を除去している)。現在使用されているのは、「日本聖公会 祈祷書」(1990年版、発行:日本聖公会管区事務所)である。1959年版祈祷書をベースに、教義や社会情勢の変化などを取り入れて改訂が行われた。文体が口語体に改められ、文書レイアウトも縦書きから横書きへと変更された。2000年に日本のカトリック教会と’’主の祈り’’の共通口語訳を発表したことなどに伴い改訂が行われている。葬儀の際に用いられる「土は土に、灰は灰に、塵は塵に(earth to earth; ashes to ashes, dust to dust)」という有名なフレーズも祈祷書(The Book of Common Prayer)の「埋葬の儀式」の一節である。また、毎年の「灰の水曜日」の礼拝にも使われるフレーズで、司祭がそういいながら信徒の額に灰で十字を切るので、聖公会信徒にはおなじみのものである。日本では、「灰は灰に、塵は塵に」と紹介されることも多い。1990年版の日本聖公会祈祷書では「土を土に、灰を灰に、塵を塵に返し」とある。聖公会祈祷書のアメリカ版の全文は以下のようになっている。なお、この一節の原典は、旧約聖書の創世記第3章「蛇の誘惑(失楽園)」19節の以下の部分であるとされている。この一節は、アダムとイブが楽園から追放されるとき、神がアダムに対して語りかける場面である。楽園から追放されたことによって死する存在となったアダム(人間)を象徴させる場面である。なお、アダムはヘブライ語で「土」と「人間」の両方を意味する言葉であり(正確には「土」はアダマーという)、アダムは元々神が土から作ったため、アダムが死ねば土に還るという背景が暗示されている。2003年、米国ローマ・カトリック教会は「ローマ・カトリック教会の認可した祈祷書」を発表している。1928年版をローマカトリック式にアレンジしたものであり、主にアメリカでの米国聖公会からカトリックに改宗した者向けに作られた。
出典:wikipedia
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