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モンテプリンス

モンテプリンスは日本の競走馬。蹄の形などの問題で道悪馬場を大の苦手としたことから「太陽の王子」との異名を持つ。全弟にモンテファスト(天皇賞(春))がいる。1982年「優駿」ドリーム賞(特別賞)受賞。馬齢は当時の表記とする。モンテプリンスは1979年8月、函館でデビュー。新馬戦を2戦したが2戦連続2着と勝てなかった。だが、3戦目の東京での未勝利戦で主戦騎手となる吉永正人が騎乗して勝利した。その後、400万条件戦の葉牡丹賞を勝つなど、5戦2勝でこの年を終えた。4歳になったモンテプリンスだったが、東京4歳ステークスは6着、弥生賞は4着、スプリングステークスは3着、クラシック第1戦の皐月賞は4着と勝ち切れないレースが続いた。勝ち切れないのは苦手な道悪馬場が原因だった。事実、弥生賞は重馬場、スプリングステークスと皐月賞は不良馬場とモンテプリンスは道悪馬場に泣かされた。だが、良馬場になったNHK杯でモンテプリンスは2着のレッドジャガーに7馬身の差を付けて圧勝、初めて重賞を制覇した。このNHK杯での圧勝劇でクラシック第2戦の日本ダービーでモンテプリンスは1番人気に支持された。ところが、レースでは最後の直線で先頭に立つもオペックホースの強襲の前にクビ差の2着と敗れた。秋になるとモンテプリンスはセントライト記念で復帰、2着のドロッポロードにハナ差で競り勝ち、菊花賞制覇に向けて好スタートを切ったかに見えた。しかし、続く京都新聞杯は不良馬場に泣かされて5着に終わり、クラシック最終戦の菊花賞では1番人気に推されたが、最後の直線でノースガストの強襲の前にハナ差の2着と敗れ、結局モンテプリンスはクラシックを1つも勝つことができなかった。5歳になったモンテプリンスは天皇賞(春)を目指すものの、復帰初戦のダートのオープン戦で2着になった後に血行障害による疲労で天皇賞(春)を回避、秋まで休養することになった。秋になると、モンテプリンスは毎日王冠から復帰したが全く見せ場を作れず10着と大敗した。続く天皇賞(秋)では、毎日王冠での大敗が原因で5番人気まで人気が落ちていた。しかし、レースが始まると終始先頭、最後の直線でホウヨウボーイとのマッチレースとなったが、またしてもハナ差で2着に敗れた。だが、この天皇賞(秋)での2着が高評価となり、ジャパンカップでは日本馬最高の2番人気に支持された。しかし、レースではメアジードーツの前に全く歯が立たず7着に敗れた。その後、暮れの有馬記念にも出走したが、同年齢のアンバーシャダイ、ホウヨウボーイに次ぐ3着に終わり、善戦ホースのまま、この年を終えた。6歳になったモンテプリンスは初戦の東京新聞杯で1年4カ月ぶりに重賞を制覇すると、中山記念2着を経て、天皇賞(春)に出走した。レースでは積極的な先行策から一転して中団待機策を選択、最後の直線で他馬をごぼう抜きして優勝。5歳にして初のGI級レース制覇となった。また、鞍上の吉永にとっても初めての八大競走制覇となった。現在でいうところのGI級レースでの惜敗が多かったため「無冠の帝王」というありがたくないニックネームがつけられていたが、それを返上した。関西テレビの杉本清アナウンサーはかつてのタイテエム(クラシックは無冠。天皇賞(春)でGI級レース初制覇)と比較して、「無冠の貴公子に春が訪れてから9年目、無冠のプリンスにも春が訪れました」と実況している。このレースにおいて、モンテプリンスは積極的に先行しては後ろから追い込んできた馬に競り負けるというレース振りが嘘のような勝ち方で、2着のアンバーシャダイに1馬身1/4の差を付けての快勝劇だった。続く宝塚記念でも2着のカツアールに1馬身1/2の差を付けて優勝、GI級レースを連勝していよいよ頂点に登り詰めた感のあったモンテプリンスであったが、宝塚記念の後に繋靭帯炎を発症してしまう。年内休養の可能性もあったが、ファンの声に応える形で年末の有馬記念に出走。しかし、レースでは果敢に先行したものの11着と惨敗、そのまま現役を引退した。この有馬記念ではモンテプリンスを管理していた松山吉三郎調教師が「もし途中で競走を中止したら自分の責任。自ら跨って出走が可能かどうか確かめてきた」と自ら追い切りを行うほど、脚元は限界に近い状態だったという。引退式はシービークロスと合同で行われた。当時、引退式に2頭ないしそれ以上の数の馬と合同で行う事例は極めて少なかった。近年ではメイショウドトウとテイエムオペラオーが合同で引退式を行ったのが有名である。引退後、モンテプリンスは種牡馬になり、グレートモンテ(札幌記念、愛知杯)やサークルショウワ(クイーンカップ)などを輩出したが、ステイヤー血統のために冷遇された感が否めず、その後が続かなかったために種牡馬引退、廃用→屠殺場送りの危機に立たされた。種牡馬初年度にタマモクロス(天皇賞(春)などGI3勝)を出し、その後もホワイトストーン(セントライト記念など重賞3勝、菊花賞2着)などを輩出したシービークロスとは対照的である。しかし、東京大学農学部付属牧場に引き取られて種牡馬として供用されることになったため、種牡馬引退を免れた。種牡馬引退後は茨城県内の個人牧場に引き取られ、2002年に老衰で死亡した。全弟にモンテファスト(天皇賞・春)、半弟モンテジャパン(父パーソロン)は中山記念 (GII) 3着、東京新聞杯 (GIII) 3着。

出典:wikipedia

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