ジークフリート・カルク=エーレルト(Sigfrid Karg-Elert, 1877年11月21日 - 1933年4月9日)はドイツの作曲家。オーベルンドルフ・アム・ネッカー出身。1902年ごろに職業音楽家として活動を開始するに当たり、姓「エーレルト」に母の旧姓を組み合わせて二重姓とし、名前の綴りを Siegfried から縮めて Sigfrid に改めた。エミール・ニコラウス・フォン・レズニチェクに作曲の個人指導を受けた後、ライプツィヒ音楽院でザロモン・ヤーダスゾーンとカール・ライネッケに師事。1919年には自らもその教壇に立った。エドヴァルド・グリーグに認められて作曲活動に取り組む一方、クロード・ドビュッシーやアレクサンドル・スクリャービン、アルノルト・シェーンベルクに心酔した。その影響は調性を拡張し、独自の半音階的な書法を発展させるのみにとどまらず、オルガンのストップの詳細な指定から彼ならではの色彩感の強調が伺える。付加6の和音の終止は確実にオリヴィエ・メシアンへ影響を与えた。彼はクンストハルモニウムのために好んで作曲し、はじめフランス製の精巧な楽器 (Mustel) を入手、後にドイツ製の楽器 (Titz) を愛用した。その結果としてクンストハルモニウムのための唯一の教則本を残した。そのほかにコラールや室内楽曲、ピアノ曲、オルガン曲がある。フルート業界では「ソナタ・アパッショナータ」が教育の現場で頻繁に用いられる。作曲と演奏の両面で活躍していたカルク=エーレルトに、グリーグは「作曲で活躍せよ」と助言を与えた。カルク=エーレルト作品は、とりわけオルガン曲が、アメリカ合衆国やイギリス、フランスで人気があった。カルク=エーレルトは演奏家としてはあまり評価されず、ドイツ本国にいたっては作曲家としても評価は高くなかった。新古典主義や無調が主流になった1920年代のドイツでは、半音階主義は既に過去の遺物になっていたためである。ドイツの楽壇に見切りをつけた彼はイギリスへ渡航し、その地では確実に成功した。その後、評価を苦にした彼は単身1930年代初頭にアメリカ合衆国へ演奏旅行に乗り出した。既にマルセル・デュプレなどのヴィルトゥオーソが知られた地域であったこともあり、技術上の問題から結果は芳しくなかった。が、没後も彼の作品が同地で出版されるなど、アメリカ合衆国のオルガン業界に確実に影響を与えた。糖尿病を長く患った末に1933年に死去し、ライプツィヒに埋葬された。没後にわかに忘れられたが、1970年代後半から再評価が始まり、録音数は増え続けている。彼は後期にあるフルーティストと気が合い、フルートのための作品を連続して残しているが、これらは現在でもフルート教育に欠かせない教材になっている。最初はワーグナーの影響を強く受けたものの、近代音楽の時代に入り調性音楽の崩壊を目の当たりにした彼は、主要音をのこしながらも調性の境界が明解でない方向へ舵を切った。このため、ドイツ本国では「フランスとイギリスの影響を無駄に受けた折衷主義者」と批判され、亡くなる頃にはほとんど支援者がいなかった。オルガン作品とクンストハルモニウム作品は詳細にストップが指定されており、当時の流行であった「ネオ・ゴシック」モデルを基準に作曲されているせいか、作曲上の効果が現れるモデルは少ない。オルガン曲はマックス・レーガーに匹敵するほどの難易度であり、カルク=エーレルト自身も書簡でレーガーに言及している。晩年に子どもでも弾ける「センプレ・センプリーチェ」を作曲した。彼はピアニストとしても若年期に活躍していたこともあり、ピアノ曲にも心血を注いでいたものの、ピアノ業界では彼の作品の評価はいまだ定まっていない。クンストハルモニウムも製造が中止されたこともあり、その作品の受容が危ぶまれたが、少数の熱狂的なプロ奏者がYouTubeを通じて作品の普及に努めている。結局のところ、全66曲から成る『コラール即興曲集』の「凱旋行進曲《いざ諸人よ、神に感謝せよ》」が、最も有名である。金管楽器バンドとの共演が可能であり、セレモニーなどにも頻繁に世界中で用いられている。1987年には、彼の功績をたたえイギリスで「カルク=エーレルト・アーカイブ」が設立された。ドイツ本国にも「カルク=エーレルト協会」があり、定期的にイベントを開いている。現在は1990年代からリバイバルが進んでおり、まとまった数のオルガン作品の音源の入手は容易である。
出典:wikipedia
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