A-5は、アメリカ海軍が1960年代から1970年代に運用した艦上攻撃機および偵察機。愛称はヴィジランティ(Vigilante:「自警団員」の意)。1955年時点でアメリカ海軍は遷音速大型艦上核攻撃機A-3を運用していたが、当時の航空機の急速な発展により早々に陳腐化し後継機を必要としていた。これに対して、1953年半ばからノースアメリカン社がNorth American General Purpose Attack Weapon(NAGPAW)として自主研究していた超音速艦上核攻撃機の一つNA-233案が採用された。1956年8月29日に契約が結ばれ、その2年後の1958年8月31日にYA3J-1試作1号機(145157)が初飛行している。A3J1は高速力で敵防空網を突破するために野心的な設計となっていた。高翼配置のクリップド・デルタ形の主翼と全浮動式の水平・垂直尾翼や二次元可変インテイクで吸気する胴体後部の2基のJ79ターボジェットエンジン、さらにはエンジン回りなど重要な構造部にチタンを使用する等、後のMiG-25、F-15といった速力マッハ2以上の軍用機の先駆けともいえる構成となっていた。尚実物大モックアップの時点ではハンガーデッキの高さ制限を満足するためにMiG-25やF-15と同様の双垂直尾翼だったが、F-14の経緯と逆を行く一枚の垂直尾翼への改定要求から、主翼、機首に加え、垂直尾翼まで折り畳むようになっている。主翼外皮はアルミニウム-リチウム合金削り出しによる完全一体整形となっていた。高速化のための翼面積減と実用上は無意味な相対風速0での離艦という要求の両立のために吹き出しフラップを装備したが、着艦速度を抑えきれず、未熟、もしくは不注意な操縦士にとって困難な作業となった。フラップ部分を大きくするためにロール制御を水平尾翼の差動と左右各3枚のスポイラーの協調動作で行うことによりエルロンを省略している。空気抵抗削減のためにアレスティング・フックは飛行時は機内に収納し、空中給油装置も機内に収納する。またエンジンベイの熱反射に金を使用したり、高温になる機体の幾箇所では一般的な油圧ではなく窒素を使用したりもしていた。マルチモードレーダー、Pilot's Projected Display Indicator(PPDI)と呼ばれたヘッドアップディスプレイ、機首下部に設置されて画像をPPDIや後部席レーダーディスプレイに表示するテレビカメラ、夜間飛行用のRadar-Equipped Inertial Navigation System(REINS)、集積回路デジタルコンピュータVersatile Digital Analyzer(VERDAN)からなるAN/ASB-12航法攻撃装置を装備していた。操縦系にはフライ・バイ・ワイヤを装備したが整備を困難なものにしていた。主翼下のハードポイントに増槽を装備できたが、高速力発揮のために作戦時は機体内タンクのみを使用した。乗員は操縦士と爆撃兼航法手の2名である。前後席は独立したクラムシェル式キャノピーで、前席は強化アクリル製だが後席は金属製で両側面に小型窓を持つため、単座機のようにも見える。核爆弾の搭載は胴体内のリニアボムベイに収容する独特な設計となっていた。リニアボムベイに核爆弾と2個の燃料タンクを連結して搭載してあり、爆弾投下時はテイルコーンを切り離し、目標到達時点でほぼ空になる燃料タンクごと核爆弾をドローグガンで後方に射出する。これにより投下時の速度低下を極力抑えることを狙っている。タンクにはフィンを取り付けてあり投下コースを安定させる。この設計はカタパルト射出時の衝撃で燃料タンクが脱落するなどトラブルも多く、また、ベイ内には1発の核爆弾しか搭載できないので通常攻撃機への転用の道を閉ざすこととなった。なお、ベイ内の燃料タンクをホースなどの空中給油システムに変更し、空中給油機として運用することもできた。1957年には、前量産型A3Jが発注され、1960年からは量産型A3J-1が発注された。1960年12月13日に、アメリカ海軍の操縦士ルロイ・ヒース中佐と爆撃航法士ラリー・モンロー中尉により、1,000kgの搭載物を積載してM2.1からのズームアップにより高度27,874.2mまで到達した。この記録は13年以上破られることはなかった。1961年には訓練部隊の第3重攻撃飛行隊(VAH-3)から配備が開始されている。1962年9月18日には命名法改正が行われ、A-5Aに名称が変更されている。1962年8月から実戦配備されたが、攻撃機型は2個飛行隊(VAH-1,VAH-7)にしか配備されず、実働任務としては母艦航空隊として数回地中海へ派遣された。また1962年11月のキューバ危機では、VAH-1のA-5Aはフロリダ州のキーウェストに展開し、核爆攻撃をも辞さない脅しをかけた。早くも1964年には実戦部隊での就役が終了し、1967年には後述のRA-5も含めて、核攻撃任務から外されている。これは、ソビエトの防空体制の評価により、航空機の進入が困難と判断されたことと、潜水艦発射弾道ミサイルの実用化により海軍の戦略的核攻撃能力を航空機から弾道ミサイル搭載潜水艦にシフトすることとなったためである。高速飛行を目的とした軽量化のために初期型は3.5G、後に5G程度と耐G強度が低く、また、リニアボムベイをはじめ核爆弾投下に特化した設計であるために通常兵器主体の運用へ対応出来ずに攻撃任務から外され、最大速度がマッハ2以上と高速であることから偵察機に改修されることとなった。1962年から偵察機型RA-5の発注が開始された。新造機、改修機とも最終的にはRA-5Cとなっている。A-5Aからの変更点としては、大型ハンプパックの胴体上面への装着による燃料タンクの追加、各種偵察用カメラ(可視光線・赤外線)やAN/ALQ-61電子偵察システム用のPassive electronics countermeasures(PECM)アンテナ、AN/AAS-21赤外線センサー、AN/APD-7側方監視レーダーなどを搭載するカヌー型フェアリングの胴体下面への装着であり、リニアボムベイを転用しなかったため、運用当初のRA-5Cは核爆弾も搭載可能であった。ただし、偵察任務実施時、また本機が核攻撃任務から解放された後は、爆弾搭載箇所には燃料タンクが装備された。RA-5Cは1963年に第5重攻撃飛行隊(1964年以降は第5偵察重攻撃飛行隊(RVAH-5)に改称)から部隊配備が開始された。1964年からはベトナム戦争に投入され、南シナ海に展開する空母機動部隊から北ベトナム上空へ出撃している。高速力を生かした偵察を行ったものの、損害も大きく18機が撃墜されている。ベトナム戦争後も配備は続いたが、前述の機体強度の点や、艦上機としては並外れて大型である故に運用面で苦労が伴う(例えば格納庫では垂直尾翼も折りたたみ、エレベーター上では機首レドームも垂直にはね上げる必要があった)ことなどから、海軍はF-14偵察兼任型が充足するまでの間RF-8Gを(偵察能力が劣るのは承知の上で)つなぎで用いることとし、1979年11月までにRA-5Cは全機退役した。なお、理由は不明だがA-4やA-7といった攻撃機が海外に売られたのにも関わらず、外国軍隊への売却および配備はなされていない。
出典:wikipedia
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