アフガニスタン紛争(1978年 - 1989年)では、アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、1978年に成立したアフガニスタン人民民主党政権に対するムジャーヒディーンの蜂起から、1979年にソビエト連邦が軍事介入を行い、1989年に撤退するまでの期間を扱う。日本のメディアでは、ソ連軍の侵攻以降の局面はアフガニスタン侵攻などと呼ばれる事も多い。ソ連・アフガン戦争と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内での戦闘は、1979年の出兵から1989年の完全撤収まで約10年に及んだ。ソ連側は1万4000人を超える兵士が戦死し、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となった。1978年にアフガニスタンでは、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党による政権が成立したが、これに対抗する武装勢力の蜂起が、春頃からすでに始まっていた。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。ソ連軍は1979年12月24日に軍事介入した。ソ連国家保安委員会 (KGB)は政体混乱の収拾能力が無いとみたハフィーズッラー・アミーン大統領を特殊部隊で襲撃(嵐333号作戦)して死に至らしめ、バブラク・カールマルを新たな大統領とし、アミーン政権に対立していた人民民主党内の多数派による政権が樹立された。共産主義政権とソビエト連邦軍に対してムジャーヒディーンと呼ばれた抵抗運動の兵士たちが戦った。また米国中央情報局(CIA)やチャールズ・ウィルソンらによる極秘の武器供給など、ムジャーヒディーンの支援に数十億ドルを費やした。これらの資金は陸上からの支援ルートを握っていたパキスタン経由で行われ、パキスタンが同国国内に影響力を保持するきっかけとなった。また、ムジャーヒディーンには20以上のイスラム諸国から来た20万人の義勇兵が含まれていた。その中にはサウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となり、後にアメリカ同時多発テロを行うことになる、ウサーマ・ビン=ラーディンも参加していた。多くの人は、この戦争は主権国家への正当な理由のない侵略行為だと見なしている。たとえば1982年11月29日の国連総会でソ連軍はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連決議 37/37 が採択されている。一方でソ連を支持した人もおり、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為、あるいはイスラム原理主義のテロリズムを封じ込める為の攻撃としている。ただし、この紛争をきっかけにして、後にイスラム原理主義テロリストの活動が活発になった事実もある。最終的にソ連軍は1988年5月15日から1989年2月2日の間にアフガニスタンから撤退した。ソ連は全ての軍隊は1989年2月15日にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。さらにソ連撤退後もアフガニスタンに平和の日々は訪れず、ムジャーヒディーンの内部抗争、タリバンの台頭、タリバンに対する米国および有志連合諸国、アフガニスタン・イスラム共和国政府との戦闘など戦火は続く。1919年の独立以降、アフガニスタンは王国であり、1933年以降はザーヒル・シャーが国王として統治していた。しかし、アフガニスタンは部族社会であり、地方の権力は部族の長が握っており、政府の権力は十分に浸透していなかった。また国王も部族会議のロヤ・ジルガによって推戴されていた。ザーヒル・シャーは従兄弟のムハンマド・ダーウードを首相として起用したが、ダーウードの急進的な改革に反発が高まり、ザーヒル・シャーはダーウードを解任した。1973年、ダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のためにイタリアに赴いた隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させた。ダーウードは中立的な外交政策でソ連とアメリカの両方から援助を引き出し、国内の開発を進めようとした。1978年4月27日にダーウードはアブドゥル・カディル大佐に暗殺された。共産主義政党アフガニスタン人民民主党が政権を掌握し、4月30日に革命評議会布告第1号によって国名をアフガニスタン民主共和国(DRA)とした。5月1日に発足した政権の首班はヌール・ムハンマド・タラキー革命評議会議長兼首相で、バブラク・カールマルが副議長兼副首相、ハフィーズッラー・アミーンが副首相兼外相となった。革命政府は1978年12月2日の革命評議会布告第8号により、封建的土地所有を解体する土地改革を実施する方針を打ち出した。耕地としての価値で区分した7等級のそれぞれに所有の上限を設け、限度を越えた分を無償で没収し、農民に無償で分配するものである。土地改革は1979年1月から実施され、4月までに26万866.4ヘクタール(2686km²)が13万2264家族に分配されたという。部族指導者の物的利益を直撃する土地改革は、彼らの強い反発を招いたが、政府は軍隊を派遣し農民に武器を配って改革を実施した。また、政府が男女平等政策を進めたことも、宗教意識を逆なでするものであった。外交的には非同盟・中立を標榜したが、ソ連寄りの姿勢は早くからはっきりしており、5月15日にソビエト連邦と共同声明を発してあらゆる分野での協力を約し、12月5日には善隣友好条約を結んだ。この条約は軍事協力に関する条項を含んでおり、ソ連は1979年1月に軍事顧問団を派遣した。人民民主党には政権掌握前から派閥の対立があり、革命政府樹立後も政権幹部の左遷・解任・逮捕が相次いでいた。1979年3月、革命評議会議長はそのままで、首相職がタラキーからアミーンに交代した。この3月に、東北部のヌーリスターンで反乱が起こった。さらに西部ヘラートでソ連人技術者が殺され、ファラーで空軍基地が襲われるなど、反乱は全国に拡大した。夏には全州の半分以上に何らかの反乱がおき、首都でも衝突が発生した。ソ連の軍事顧問が反政府ゲリラとの戦いに参入したが、ゲリラの勢力はむしろ拡大し、ベトナム戦争を思わせる泥沼状態に陥った。内戦が深刻化する中、タラキーは1979年9月16日に失脚して、アミーンが革命評議会議長になった。この政変でソ連はアミーンの追い落としをはかってタラキーを後押ししたと言われる。10月6日にアフガニスタンのシャー・ワリ外務大臣は社会主義諸国の大使の前でソ連の陰謀を非難した。ヘラートのアフガン政府第17軍が崩壊したことを受け、1979年3月17日より、ソ連の政治局ではアフガン情勢について討議が行われた。しかしレオニード・ブレジネフ不在の中で政治局員達の意見は分かれた。国防相ドミトリー・ウスチノフやKGB議長ユーリ・アンドロポフは「侵略者のレッテルを確実に貼られることを意識」するとしながらも軍事介入を主張した。しかし首相アレクセイ・コスイギンは政府軍への支援が先決であると消極的であり、アンドレイ・キリレンコは明確に反対していた。一方で外相のアンドレイ・グロムイコは「いかなる場合でも、アフガンを失うことはできない」としながらも、軍事介入には消極的であった。翌3月18日にはタラキーから、援助がなければ政権が崩壊するため、アフガン政府軍の制服を着たソ連軍を派遣するよう要請が入った。しかしコスイギンは発覚の確率が高く、ソ連が非難を受けるとして拒否した。この日の会議ではデタントの流れや非同盟諸国への影響を懸念したアンドロポフとウスチノフも介入回避に傾き、19日にはブレジネフもこの方針を承認した。しかし9月にタラキーがアミーンのクーデターによって排除されると、ソ連指導部はアミーンに対して不信を抱き始めた。10月19日にはアミーンがアメリカと接触するなど、「バランス外交」を志向している上に政府が腐敗していると報告があり、12月にはGRU(参謀本部情報総局)の派遣が決定された。12月12日にはアフガン問題をグロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフの三人に一任する決定が行われ、介入決定も行われたと見られている。12月26日にはブレジネフの別荘で最終確認が行われ、翌12月27日には「アミーン政権の腐敗と統治能力の欠如」「1978年12月のソ連・アフガン条約に基づくカールマルの軍事援助要請」を主な理由として、本格的な軍事介入を開始した。介入決定の大きな要因として、アミーンの政治姿勢が1978年以来のソ連の勢力を失わせる危険があったことがあげられる。1979年12月31日にアンドロポフらが政治局に提出した報告書では、「四月革命の成果と我が国の安全保障上の利益が危険な状態」にさらされているため、軍事介入が必要であるとしている。アフガニスタンはソ連にとって要衝であり、アフガンの喪失は安全保障に多大な影響があると考えられた。また米国の軍事支援の影響もあった。当時の米国政府はパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンに提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは当時進行していた米ソデタントの動きからも不利益と判断された。ソ連政府は武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。もう一つの要因としてイスラム原理主義の動きから発生したイランでのイラン革命が挙げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝政府が倒され、ルーホッラー・ホメイニーを中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。なぜならアフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起こればソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンではイスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的及び経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソ連の指導者レオニード・ブレジネフが、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した「ブレジネフ・ドクトリン」によって裏付けられている。その後勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのもソ連であった。また、アメリカの外交政策の転換も重要な要素として挙げられる。1978年5月にはワシントンでNATOの軍事費増大計画が決定された。1979年の秋にはテヘランのアメリカ人人質解放のためといい、航空機や核兵器など積んだ大量の軍をペルシャ湾へ派遣した。冬には本格的なアメリカの軍事拡張計画(五ヶ年計画)、ミサイルの生産とヨーロッパ配備の決定などが下された。反ソを目的とした中国とも接近もあり、SALT II批准の可能性は皆無と見られていた。これら緊張緩和放棄政策に、ソ連も何かしら応える必要があった。まず、ソビエト連邦は、アミーン大統領によるソ連軍派遣要請を受けて派遣部隊をアフガニスタンに進入させた。しかし、ソ連軍はアミーン大統領の拘束殺害を目的とした宮殿への襲撃作戦(嵐333号作戦)を立案し、KGBアルファ部隊やGRUスペツナズなどの特殊部隊を投入して実行した。公式には、アミーンは革命裁判で「国家に対する罪」を宣告され処刑されたと、アフガニスタンラジオが発表した。その後は親ソ的なバブラク・カールマルを首班とする新政権を擁立してアフガニスタンを早急に安定化させ、部隊を長くとも半年程度で撤退させることを計画していた。しかし、その後、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。ソ連軍は下記のような戦術を用いてアフガニスタンでの戦闘を行った。ムジャーヒディーンはそれぞれ分派を作ったため、ベトナム戦争における南ベトナム解放民族戦線や北ベトナム人民軍のように統合された指揮系統や思想は存在しなかった。また、中東におけるソ連の影響力の浸透を怖れたアメリカとパキスタンはムジャーヒディーンの支援に乗り出した。前述のスティンガーの供与などが代表的である。また、武装勢力の中には中立の勢力や、ソ連派の勢力もあったが、戦局の進展によっては反ソ連派に結集することもあった。一般に1979年12月24日を紛争の始まりとすることが多いが、どの出来事を始まりとするかについては解釈の違いがある。1979年の戦死者: 86人1980年の戦死者: 1,484人1981年の戦死者: 1,298人1982年の戦死者: 1,948人1983年の戦死者: 1,446人1983年、戦闘行動はアフガン全土に拡大。1984年の戦死者: 2,343人1984年からカーブル市内でも、ムジャーヒディーンのテロ攻撃が頻発するようになった。1985年の戦死者: 1,868人1985年中、第8次、第9次パンジシール作戦が行われたが、マスードを捕らえることに失敗。1986年の戦死者: 1,333人1987年の戦死者: 1,215人1988年の戦死者: 759人1989年の戦死者: 53人ソビエト連邦軍はゲリラに対して決定的な勝利を得られないまま1989年に全面撤退したが、戦争の当事国双方に大きな影響が残された。ソビエト連邦軍は撤退したが、その後も政府軍やムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、アフガニスタンの紛争はなおも継続した。以降の経緯はアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)を参照。
出典:wikipedia
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