秋篠 安人(あきしの の やすひと、天平勝宝4年(752年) - 弘仁12年1月10日(821年2月15日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は土師宿禰のち秋篠宿禰、秋篠朝臣。阿波守・土師宇庭(宇遅)または大学頭・土師千村の子。官位は従三位・参議。もともと土師宿禰姓であったが、同族の古人らが天応元年(781年)本拠地(大和国添下郡菅原)の地名に因んで、菅原宿禰に改姓したことと同様に、翌天応2年(782年)に安人も改姓を願い出て、本拠地(大和国添下郡秋篠)の地名に因み、併せて兄弟6人が秋篠宿禰姓を賜与された。改姓理由として、土師氏は埴輪を発明した野見宿禰の子孫として、専ら凶儀である葬送儀礼に携わってきたが、この状態は不本意であることを挙げている。なお、この時の官位は正八位上・少内記。延暦9年(790年)には朝臣姓を賜与されている。延暦8年(789年)正六位上から外従五位下、延暦10年(791年)従五位下に昇叙。延暦9年(790年)大外記・右兵衛佐、延暦10年(791年)大判事・少納言、延暦15年(796年)左少弁、延暦17年(798年)左中弁、延暦18年(799年)中衛少将と文武の諸官を歴任。延暦19年(800年)従四位下。この間、延暦16年(797年)には、桓武天皇より編纂の命を受けた『続日本紀』を菅野真道らとともに完成させている。延暦24年(805年)に菅野真道に続いて参議に任ぜられ公卿に列し、右大弁・近衛少将を兼ねる。翌延暦25年(806年)平城天皇が即位すると左大弁・左衛士督に昇進し、春宮大夫(春宮は神野親王のち嵯峨天皇)も兼ねるが、翌大同2年(807年)伊予親王の変に関与したとして、造西寺長官に左遷の上、他の官職を全て罷免され失脚する。しかし、大同3年(808年)右大弁に復すと、翌年には左大弁に任ぜられている。嵯峨朝に入ると、大同5年(810年)に発生した薬子の変後に復権、参議に還任されて、左大弁・左兵衛督を兼任する。弘仁6年(815年)には従三位に叙せられた。またこの間、嵯峨天皇の命により編纂された『弘仁格式』も手がけている。弘仁12年(821年)正月10日薨去。享年70。最終官位は参議従三位行近江守。注記のないものは『六国史』による。
出典:wikipedia
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