全日空羽田沖墜落事故(ぜんにっくう はねだおきついらくじこ)は、1966年2月4日に東京湾の羽田空港沖で起きた全日空のボーイング727-100型機の墜落事故である。合計133人全員が死亡し、単独機としては当時世界最悪の事故となった。事故機の全日本空輸60便ボーイング727-100型機(JA8302、1965年製造)は、1966年2月4日の午後6時に千歳空港を出発し、目的地である羽田空港へ向かった。60便は東京湾上空まで問題なく飛行を続けたが、東京湾に差し掛かる際、計器飛行 (IFR) による通常の着陸ルートをキャンセルし、有視界飛行 (VFR) により東京湾上空でショートカットする形での着陸ルートを選択した。このルート変更の理由は不明であるが、当時は現在のように計器飛行方式 (IFR) が義務付けられておらず、飛行中に機長の判断でIFRで提出したフライトプランをキャンセルし、目視による有視界飛行方式 (VFR) に切り替える判断が容認されていた。そのため、航空路を無視したり、最大巡航速度(マッハ0.88)で巡航するなどして、東京・大阪27分、東京・札幌46分といった"スピード記録"を競うパイロットもいたという。なお60便の近くには、日本航空の沖縄・那覇空港からの国際線として運行中のコンベア880機が飛行しており、60便を目撃していた。羽田空港に向けて着陸進入中の午後7時00分20秒の「現在ロングベース」との通信を最後に、突如通信を絶った。その後空港管制室が「聞こえるか、着陸灯を点けよ」など繰り返し連絡を取ろうとしたものの、後続機の日本航空のコンベア880や、カナダ太平洋航空のダグラスDC-8が平行滑走路に次々と降り立っているにもかかわらず着陸灯も見当たらず、また返答もなかった。そのうちコンベア880の乗員から東京湾で爆発の閃光を目撃したとの通報もあった。その後も空港管制室は呼びかけを繰り返した他、近隣に位置する海上自衛隊の下総航空基地や陸上自衛隊の木更津基地などにダイバートしていないかを同時に確認したものの、該当機は確認できなかった。30分以上の間呼びかけを続けたものの応答がなくなったため、捜索救難調整本部が羽田空港内の航空保安事務所内に設営された。その後全日空機が行方不明になったことがテレビやラジオで報じられた。午後8時過ぎには全日空のフォッカー F27が捜索に向かった他、海上保安庁や航空自衛隊の船舶や航空機も捜索に加わった。午後9時には、搭載されていた燃料も尽きたはずであり、着陸不可能な状況ではなく(当時の天候は快晴)、別の空港へダイバートした様子もなかったことから捜索救難態勢が発令された。後続機の日本航空のコンベア880の操縦士や、東京湾上を航行していた船舶の乗務員、対岸の丸善石油に勤務していた社員などが、墜落時に起きたと思われる炎を東京湾上に目撃していたことから、羽田沖の海上を中心に捜索が行われ、午後11時30分過ぎには第三管区海上保安本部管下の千葉海上保安部の巡視艇が遺体や機体の部品を発見し、墜落したことが確認された。なお、具体的な墜落時刻は不明であるが、午後7時00分20秒に最後の交信があってから数十秒後と思われる。墜落時刻に関しては、19時05分12秒で止まった航空機関士席の計器板の時計の写真がある。その後、相次いで遺体や機体の残骸が発見され、4月14日までに乗客一名を除く乗客乗員132名の遺体が発見された。5月10日に遺体の捜索は打ち切られたが、最後の乗客1名の遺体は8月9日に横須賀の夏島の岸壁で漂着していたところを発見された。導入されてまだ間もない最新鋭機であったことや、日本における初の大型ジェット旅客機の事故で、ほぼ満席の乗客(多くはさっぽろ雪まつり観光客)と乗員の合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故となったこともあり、世界中から注目を集めた。乗客にはスタンダード靴の懸賞当選者(約5000人の応募者の中24人が当選)や関連会社の社員が含まれており、また団体客や接待旅行に参加していた出版業界の関係者(旭屋書店創業者の早嶋喜一、柴田書店創業者の柴田良太、月刊自家用車初代編集長の清田幸雄、美術出版社社長の大下正男らを含む)など多数が巻き込まれたため、大きく報道された。また、被害が甚大であったことから2月4日から同年5月10日にかけて、海上自衛隊の自衛艦隊や横須賀地方隊も災害派遣された。事故後多くの機体の残骸(機体の90%近く)が引き上げられ、運輸省(当時)の事故技術査委員会(FAA、ボーイングなどの技術者を主体とした製造国のアメリカ側の事故技術調査団との協力体制を取った)により事故原因についての綿密な調査が行われたものの、コックピットボイスレコーダー、フライトデータレコーダーともに搭載していなかったこともあり、委員会は高度計の確認ミスや急激な高度低下などの操縦ミスを強く示唆しつつも(後の調査で東京湾上の時点では、水平もしくは緩やかな降下での飛行が判明したが、東京湾上に差しかかる時点で既に通常より低い高度で飛行していたとの目撃報告もあった)、最終的には原因不明とされた。収容された乗客の遺体の検視結果は衝撃による強打での頸骨骨折、脳・臓器損傷によるものと溺死によるものが多数を占めた。その中で、や、残骸や遺体の髪の毛に火が走った跡があったため、第3エンジンの不調説。また、アメリカ側調査団の協力により、この事故に先立ってアメリカで前年1965年に起きていた同型機による3件の着陸時の事故調査結果も参考にされたものの、製造元のボーイング社の技術員を中心としたアメリカ側調査団は「機体の不具合や設計ミスがあったとは確認されず、操縦ミスが事故原因と推測される」と主張し続けた。その後の調査では、「操縦ミスによる高度低下」、「第3エンジンの離脱による高度低下」、「スポイラーの誤作動による高度低下」が主に取りざたされた。このような中で、事故調査をめぐり事故技術調査団が紛糾した。事故技術調査団の山名正夫・明治大学教授が、事故後早い段階から、操縦ミス説を主張する団長・木村秀政日本大学教授らと対立し、辞任した。これらの事故調査団内の対立と、内幕・事故調査の進展は、当時NHK社会部記者で事故についての取材を行った柳田邦男の「マッハの恐怖」に詳細に記されている。木村団長ら調査団の多数は、「夜間の目視飛行の中で予想以上に高度を下げすぎた」という操縦ミスを事故原因とした方向での草案を作成した。この根拠として、60便は計器飛行による通常の着陸ルートをキャンセルし、目視飛行を行い通常の着陸ルートを東京湾上空でショートカットすることや、この事故に先立ってアメリカで起きていた同型機による着陸時の事故調査結果においても、ボーイング727型機の降下角度がプロペラ機のみならず、他のジェット機に比べても急であることに対する操縦員の不慣れによる操縦ミスが墜落原因とされたこと、さらに同型機は全日空が導入してまだ1年程度しかたっていない新鋭機であるだけでなく、同型機は全日空にとって初のジェット機であったため慣熟が行き届いていなかったことも指摘された。しかし、。第一次草案で指摘された、第三エンジンの計器だけが他のエンジンと違う値を示していること、第三エンジンの消火レバーを引いた痕跡があること、操縦室のスライド窓操作レバーが開になっており窓が離脱していること()、後部のドアの1つのレバーが開になっていること、着陸前であるにもかかわらずシートベルトを外している乗客が多数おり(なお。)、乗客によって姿勢が異なることや、後続の日航機と丸善石油従業員が一瞬の火炎を確認しており、遺体の一部に軽度のやけどの跡があること等の不審な点については、「原因は不明であり、はっきりしていない。揚収時に操作された可能性もある」などと修正された。そうした中、1968年7月21日に日本航空の727-100型機 (JA8318) で、本来は接地後にしか作動しないグランド・スポイラーが飛行中に作動するトラブルが発生し、その原因が機体の欠陥にあることが判明した。これを受け、事故機でもグランド・スポイラーが作動した可能性の調査が行われ、山名教授は模型による接水実験と残骸の分布状況から接水時の姿勢を推測し、迎え角が大きくなると主翼翼根部で失速が起き、エンジンへの空気の流れが乱れ異常燃焼を起こすことを風洞実験によって確かめ、「機体の不具合、もしくは設計ミスのため()にスポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」というレポートを様々な実験データと共に調査団に報告した。しかし、最終報告書案ではそれらを取り上げずに終わった。こうした対立や決定的な原因を見つけられずに事故調査報告書の決定までは約4年を要し、その間ずっと、事故機の残骸は羽田空港の格納庫の一角に並べられたままになっていた。この事故をきっかけに、日本国内で運航される全ての旅客機に、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの装備が義務づけられた。また、この事故以降はフライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するのが原則になったという。
出典:wikipedia
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