ノボトゥルーはアメリカ合衆国で生まれ、日本で調教を受けていた元競走馬である。2008年春より種牡馬となっている。2001年のフェブラリーステークスに勝ち、12歳まで競走馬として現役をつとめた。主戦騎手は武豊、オリビエ・ペリエなど、担当調教助手は牧浦充徳(現調教師)。以下、馬齢は新年齢表記で統一する。1998年10月、岡部幸雄を鞍上に東京競馬場・芝1600mの新馬戦でデビューし、結果は4着であった。2戦目も芝のレースを選択したが、ここでも敗れ、3戦目のダート1600m戦で初勝利を飾った。続く中京競馬場・ダート1600mの樅の木賞でも2着に健闘し、以後はダート路線を進むこととなる。この年は1月5日の500万下で始動し、1番人気に支持されたが5着に敗れた。以降、3月21日、4月4日、4月25日と勝ち切れず、5月15日に未勝利脱出から6戦目にして漸く500万下条件戦に勝利した。続く6月13日の菖蒲ステークスではオープンレース初出走ながら1番人気に支持されたが、8番人気のバクシンヒーローから1.2秒差の10着に敗れた。夏は休養にあて、休み明けには初重賞であるユニコーンステークスに900万下の身ながら挑戦したが、勝ったゴールドティアラから1.3秒差の10着に敗れた。その後しばらくの間は900万下で勝ちきれないレースが続くことになる。2000年は条件戦ばかりを11戦して3月26日と降級後の10月14日に900万下を1勝ずつしたのみに終わった。12月には自身3度目となる芝のレースにも出走しているが、勝ったタマモヒビキから1.5秒差の8着に敗れている。この年の暮れには、(有)池ばたの旧社長の横領疑惑などで馬主の名義変更が行われて森秀行厩舎に転厩を余儀なくされたことが競走生活そのものよりも大きく取り上げられた。1月14日、年明け初戦となるジャニュアリーステークスに勝利してオープンクラスに昇格すると、1月29日にはオリビエ・ペリエを鞍上に迎えて根岸ステークスに出走し、コースレコードでサンフォードシチー、ブロードアピール、ゴールドティアラらを下して重賞初勝利を飾った。続けてG1競走である2月18日のフェブラリーステークスにも出走した。レースには前年度の上位1 - 3着馬であるウイングアロー、ゴールドティアラ、ファストフレンドに加えてトゥザヴィクトリーやイーグルカフェらも出走していたが、GI競走初出走ながら5番人気に支持され、2着ウイングアローに1・1/4馬身差をつけて初めてのG1勝利を挙げた。次走はドバイミーティング・ゴドルフィンマイルに海外遠征したが9着であった。帰国後はかしわ記念で2着、マイルチャンピオンシップ南部杯でアグネスデジタル・トーホウエンペラーに続く3着、JBCクラシックでレギュラーメンバーの4着、ジャパンカップダートでクロフネの4着と堅実な成績を残したが、年末の東京大賞典では9着と掲示板を外している。この年は自身最多となる年5回のG1級競走に出走している。この年は前年にも制した根岸ステークスから始動し、結果は2着であった。次走のフェブラリーステークスではドバイワールドカップ2着のトゥザヴィクトリーや南関東三冠馬のトーシンブリザードらを押さえて2番人気に支持され、勝ったアグネスデジタルから0.3秒差の3着で入線した。その後、黒船賞で7着、かしわ記念で3着して休養に入った。秋には鞍上に初めて武豊を迎え、初めのうちは日本テレビ盃10着、マイルチャンピオンシップ南部杯4着と振るわなかったが、徐々に手があってきたこともあってかJBCスプリントではスターリングローズからクビ差2着の活躍を見せ、12月にはとちぎマロニエカップに勝利、続く兵庫ゴールドトロフィーでも勝利を収め、重賞2連勝で1年を終えた。この年も根岸ステークスから始動し、結果は4着であった。続けてフェブラリーステークスにも出走し、結果は6着であった。その後は、黒船賞2着、群馬記念4着、かしわ記念3着、と重賞の常連として堅実な走りを示し、9月にはさきたま杯を制覇して重賞5勝目をマークした。しかし、続くJBCスプリントでは6着、ジャパンカップダートでは14着と、G1競走では結果を出すことができなかった。年末には連覇を狙って兵庫ゴールドトロフィに出走し、勝ったスターリングローズに0.1秒届かずの2着であった。この年も根岸ステークスからスタートし、結果は3着であった。続くフェブラリーステークスでは5番人気に支持されたが9着に敗れ、2004年中で唯一の掲示板を外す結果となった。その後は、黒船賞2着、かきつばた記念2着、かしわ記念3着、北海道スプリントカップ2着、クラスターカップ3着、さきたま杯3着、東京盃5着とG2・G3で堅実な走りを示し、とちぎマロニエカップで横山典弘を背に重賞6勝目を挙げ、年末の兵庫ゴールドトロフィでも単勝1.4倍と人気を集めたシーキングザダイヤ を追いつめ0.1秒差の3着に入線して古豪健在をアピールした。しかし、結果的には、とちぎマロニエカップ優勝がノボトゥルーにとって最後の勝利となってしまった。この年はG1競走の川崎記念から始動して結果は4着であった。続くフェブラリーステークスでは流石に衰えを隠せずに14着に敗れたが、得意の地方交流重賞では黒船賞2着、かきつばた記念2着、さきたま杯4着、北海道スプリントカップ2着、クラスターカップ4着と奮闘し、東京盃9着を挟んで出走したJBCスプリントでも旧馬齢でいうと10歳という高齢ながらブルーコンコルドの3着に健闘した。しかし、結果としては善戦するも勝ちきることのできなかった1年であり、勝ち星を挙げることなく1年を終えたのはノボトゥルーにとっては初めてのことであった。これまで大きな事故もなく走り続けてきたノボトゥルーであったが、2006年5月かきつばた記念7着後に骨折していることが判明、10月には戦線に復帰するも、これまで好走を見せてきた地方交流重賞でも上位進出が難しくなり、これ以降は掲示板に載ることが出来なくなった。12歳となった2008年は2005年のフェブラリーステークス以来3年ぶりとなる中央競馬 (JRA) の主催レースであるガーネットステークスに出走したが13着に敗れた。さらに続けて根岸ステークス、フェブラリーステークスにも出走したが、それぞれ7着・14着と敗れ、フェブラリーステークス後の2月27日に競走馬登録を抹消して競走馬を引退した。ノボトゥルーは2001年1月29日の根岸ステークスから引退レースとなった2008年2月24日のフェブラリーステークスまで63戦連続で重賞競走ばかりに出走したが、これは連続重賞出走数としては日本最多記録である。2008年春より2009年春まで日高スタリオンステーションで種牡馬として繋養されていた。現在はクラウンホースメイトにて繋養されている。初年度産駒は2011年にデビュー、ノボピュアリティが中央競馬の未勝利戦を勝ち上がっている。
出典:wikipedia
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