日本のダムの歴史では、日本におけるダムの歴史を時代ごとに詳述する。日本のダム事業史は616年頃に建設された狭山池より始まり、時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な環境も変わっていく。本記事では、1964年(昭和39年)改訂の河川法・1976年(昭和51年)施行の河川管理施設等構造令に準拠して高さ15メートル以上のものを「ダム」と表記し、それ未満の高さを有する河川構造物については基本的に「堰堤(えんてい)」・「堰」と表記する。また記事中における人物の肩書き、地域・自治体・組織・施設名は当時の名称を用い、「現在」という表記は2015年(平成27年)を基準とする。日本におけるダム建設が何時頃から開始されたのかは、明確な資料がないために不明である。中国大陸より弥生時代に稲作が伝来し、水田や畑地に用水を供給するための灌漑技術が次第に浸透したが、具体的に灌漑用のため池に関する記述が登場するのは『古事記』と『日本書紀』であり、特に5世紀に入ると渡来人であった倭漢氏が土木技術において先進的な技能を有していたと記されている。仁徳天皇の時代に茨田(まんだ)堤や横野堤といった堤防が建設されたという伝承があり、渡来人または仏教を伝来した僧侶が中国大陸の最新土木技術を日本に伝え、次第にため池やダム建設技術が向上していったと考えられている。「日本最古のため池」とされている奈良県奈良市に建設された蛙股池(かえるまたいけ)は162年に建設されたという説と607年推古天皇の治世下で建設されたという説があり、決着を見ていない。こうした古代におけるため池建設において、21世紀の今に残る河川法上のダムは大阪府の狭山池(西除川)と香川県の満濃池(金倉川)がある。狭山池は『日本書紀』の中で崇神天皇が詔を発して狭山池を建設した、また『古事記』で垂仁天皇が印色入日子命に命じて狭山池を建設させたという記事があったが、明確な建設時期は長らく不明であった。建設時期についての調査に具体的な進展を見たのは「平成の大改修」と呼ばれる狭山池ダム再開発事業が1980年(昭和55年)から2001年(平成13年)に掛けて施工された時であった。この事業は灌漑専用目的の狭山池をダムかさ上げと貯水池掘削によって貯水容量を増大させ、洪水調節目的を持たせるというものであったが、この事業において発掘された木製の樋管を年輪年代測定法で測定した結果、616年に伐採された木材であったことが判明。『古事記』・『日本書紀』の伝承は否定され、少なくとも7世紀前半に建設されたという結論を得た。完成した狭山池は645年の大化の改新により公地公民制を打ち出した大和朝廷によって直轄管理され、いわゆる国直轄ダムの端緒にもなった。732年(天平4年)には狭山下池の改修が行われたが、この時に改修の総指揮を執ったのが後に東大寺大仏の建立にも関わり、聖武天皇の信頼を得て大僧正にまで上り詰めた行基である。しかし762年(天平宝字6年)に狭山池の堰堤が決壊、延べ8万3,000人を動員して修復が行われた。その後狭山池は幾つかの記録に残され、清少納言は『枕草子』の「池は」の段で「狭山の池」に言及している。鎌倉時代に入ると、狭山池は1202年(建仁2年)に大改修が実施されるが、この総指揮を執ったのは平重衡による焼き打ちに遭った東大寺の再建に尽力した重源である。以後安土桃山時代まで狭山池に関する記録はなくなるが、江戸時代に入り再び大改修(慶長の大改修)が行われた。関ヶ原の戦いで天下人の後継者から摂津国・河内国・和泉国68万石の大名に転落した豊臣秀頼の家老・片桐且元が奉行となって堰堤基礎の補強や樋管の交換がなされている。豊臣氏が大坂夏の陣で滅亡した後狭山池は河内狭山藩主となった後北条氏が一旦支配するが、1699年(元禄12年)から1721年(享保6年)、および1749年(寛延2年)に江戸幕府の天領となり再び国直轄ダムとなった。明治以降は1904年(明治37年)、1926年(大正15年/昭和元年)にそれぞれ改修され、2001年平成の大改修を経て現在に至る。狭山池は完成から1,400年近く経過しているが現役で運用されている日本最古のダムである。満濃池は大宝年間(701年-704年)に讃岐国国司道守朝臣によって建設されたという記録(満濃池後碑文)が残っているが、818年(弘仁9年)に洪水が原因で決壊した。当時の天皇である嵯峨天皇は821年(弘仁12年)路真人浜継(みちのまひとはまつぐ)を築池使に任じて満濃池の修築を命じたが、浜継は修築に失敗した。事態を重くみた嵯峨天皇は信任する空海(弘法大師)を築池別当として再度讃岐へ派遣した。空海は着任後約2-3カ月という短期間で修築を完成させた。この大改修によって再建された満濃池は周囲約8.25キロメートル、湛水面積約81ヘクタールという大規模な人造湖だった。しかし30年後の851年(仁寿元年)再び洪水によって決壊、国司であった弘宗王が853年(仁寿3年)に再建を果たしたものの、1184年(元暦元年)5月1日に三度洪水で決壊した。これ以降満濃池は狭山池とは異なり、鎌倉時代の守護、室町時代の守護大名細川氏、戦国時代に讃岐を支配した三好氏や長宗我部氏の何れも再建を手掛けず放棄した。池の跡地には次第に人が住むようになり、「池内村」という村落が形成された。満濃池が再建されるのは実に江戸時代のことである。讃岐は豊臣秀吉の天下統一以降生駒氏が讃岐一国を領有していたが、1631年(寛永8年)に高松藩17万石の第4代藩主である生駒高俊の代に至り満濃池は450年の時を経て再建された。しかし実際の指揮を執ったのは藩主である高俊ではなく、幕府の信任が厚く外祖父として高俊を後見していた伊勢国津藩主・藤堂高虎であった。高虎自身築城の名手として土木技術に精通していたが、彼は1621年(元和7年)家臣である西嶋八兵衛之友を高松へ派遣させた。当時若干26歳という若武者だった八兵衛だが、土木技術に秀でその才能は他藩にも聞こえていた。高松藩客臣として着任した八兵衛は相次ぐ災害で荒廃した領内を視察し、高虎の助言や藩重臣の協力を得て藩内の河川整備を開始する。手掛けた事業は多岐にわたるが特に大規模だったのが香東川の改修と満濃池の再建であり、1628年(寛永5年)に着手した満濃池再建は3年という短期間で完成した。これにより33郡44村の農地が再び水の恩恵を受けることになった。八兵衛は満濃池のほか90か所におよぶため池も改修したが、灌漑だけでなく治水にも役立てる改修を行っており昭和以降の河川事業の基本となる河川総合開発事業の先駆をなすものであった。八兵衛は1639年(寛永16年)に役目を果たし帰藩、以後伊賀奉行などの藩要職を歴任したが高松藩生駒氏は藩重臣の内部抗争に端を発する生駒騒動が翌1640年(寛永17年)に勃発し、その責めを負い改易された。讃岐は高松藩・丸亀藩・多度津藩に三分割され、高松藩内にある満濃池は藩の支配から離れて狭山池と同様に天領として幕府の直轄管理下に置かれた。その後も改修が行われるが1854年(安政元年)7月9日に安政の大地震が発生してダム底を通る石造の樋管が破損したことが原因でダムが決壊。時期が幕末の動乱期に当たっており早急に再建できる状況下ではなかった。これを憂慮した榎井村庄屋・長谷川喜平治は私財を費やし再建に奔走したが事ならず無念の死を遂げた。高松藩家老松崎渋右衛門佐敏は榎井村の長谷川佐太郎や金剛寺村の和泉虎太郎と共に喜平治の志を継ぎ満濃池再建を目指したが、尊王攘夷派だった渋右衛門は志半ばで政敵の高松藩佐幕派に暗殺された。中心人物2名が相次いで非業の死を遂げたものの明治維新後に渋右衛門の遺志を受け継いだ倉敷県参事島田泰雄が佐太郎らへの支援を継続、1870年(明治3年)にようやく再建された。満濃池はこの時点で貯水容量が584万6,000立方メートルという日本最大のダムであったが、1906年(明治39年)、1930年(昭和5年)の2度にわたるかさ上げを経て規模を拡張。1941年(昭和16年)には現行規模に拡張する第3次かさ上げに着手、太平洋戦争による中断を挟みながら工事は続けられ1950年(昭和25年)には昭和天皇が工事を視察するなど注目された大事業は1961年(昭和36年)完成した。満濃池は日本最大級のため池として慢性的な水不足に悩む讃岐平野を潤している。上記2ダム以外で古代から中世の日本ダム事業史において特色を持つダムとして摂津国の昆陽池(こやいけ)と大和国の大門池がある。昆陽池は兵庫県伊丹市にあるため池であるが、このため池は狭山池や満濃池とは異なる目的を持っていた。昆陽池は武庫川支流の天神川に隣接して建設されたが、この土地は西に武庫川、東に猪名川が流れ箕面川が合流する地点であり洪水常襲地帯であった。昆陽池は行基によって建設が進められたが、この地の灌漑に加えて洪水調節による治水を昆陽池の目的に据えて731年(天平3年)に完成させた。昆陽池は治水ダムとしても多目的ダムとしても記録に残る日本最初の堰堤であり、流域の治水・利水に貢献した。昆陽池は1,300年近く経た現在、治水機能は無くなったものの上水道専用貯水池および公園として伊丹市が管理しており、阪神・淡路大震災では活断層上にあって強い揺れを受けたにも関わらず現役で運用されている。一方大門池は奈良県生駒郡三郷町、信貴山の麓を流れる大和川水系大門川に1128年(大治3年)建設された灌漑専用のため池であるが、完成時の高さが32.0メートルという規模は紀元前240年頃趙によって建設され当時高さ世界一であったグコーダム(北宋)の記録(30.0メートル)を破り世界最高の高さに躍り出た。この記録はその後14世紀末にスペインのアルマンサダムによって破られるまで約300年間にわたり続いた。完成以来約900年間流域の農地を潤していたが、大門川の治水を目的に2012年(平成24年)完成した大門ダムによって水没した。鎌倉時代、続く室町時代は重源の狭山池改修以外に取り立ててダムを含む土木技術に関して特段の進歩はなかった。応仁の乱や明応の政変、関東地方における享徳の乱を契機に日本は室町幕府の統制力が衰微し、群雄割拠の時代に突入する。戦国時代・安土桃山時代を通じて治水・灌漑整備が進み、停滞していた土木技術の発展に寄与した。甲斐国では甲府盆地の富士川(釜無川)における信玄堤築造や御勅使川治水が中世後期から近世にかけて進み、加藤清正・成富茂安・川村重吉などの土木技術に精通した戦国武将も登場し、彼らによって培われた技術はやがて江戸時代の大規模河川事業へと発展して行く。麻のように乱れた日本の平定に動いた武将として織田信長がいるが、信長は本能寺の変で明智光秀に殺害された。信長の遺志を継ぎ天下統一に乗り出し、1590年(天正18年)に統一を果たしたのが豊臣秀吉である。秀吉の合戦は三木城や鳥取城における兵糧攻めが知られているが、兵糧攻めと共に用いた攻城方法として水攻めがあった。この水攻めにおいて軍事目的に特化した堰堤を建設している。1582年(天正10年)、中国地方の大大名である毛利輝元の部将・清水宗治が籠る備中国高松城を攻撃するに当たり、高松城が周囲を湿地帯に囲まれた要害であることを知った秀吉は付近を流れる足守川を利用した水攻めを企図した。黒田孝高(官兵衛)の献策とされるこの高松城水攻めは高さ7.0メートル、堤頂長約3,000メートル、堤体下部幅約16.7メートルという堰堤を高松城周囲に短期間に建設し、足守川の水を引き入れることで低湿地にある高松城を浸水させるというものであった。水攻め中に本能寺の変が発生し秀吉は毛利氏と和睦、宗治は自刃して戦いは終結する。光秀を討ち織田氏家中の第一人者として天下取りに邁進する秀吉は柴田勝家ら敵対勢力を滅ぼして行くが、徳川家康と結んで反抗的な姿勢を見せる根来寺や鈴木重意ら雑賀衆などを討つべく1585年(天正13年)に紀州征伐を催した。この戦いにおいて紀伊国の国人衆・太田党が籠る太田城を攻撃(太田城水攻め)する際にも秀吉は水攻めを用いた。水攻めで建設された堰堤の規模については諸説あるが、和歌山大学が土木工学の立場から各種史料を検討した調査によれば導水堤と囲い堤からなる長大な堰堤は高さ6.0メートル、堤体下部幅約30.0メートルの規模と推定され、紀の川や支流宮井川の河水を導水することで総貯水容量は両堤併せると同じ和歌山県にある山田ダム(野田原川)を上回る389万4,000立方メートルになるとした。3月28日より開始された建設作業は4月5日にほぼ完了、途中堰堤が決壊するものの4月22日に太田城は開城した。紀州征伐、四国征伐、徳川家康との講和、九州征伐を経て残された敵対勢力は関東を支配する北条氏政・氏直父子となり、1590年に秀吉は小田原征伐の号令を発した。この戦いにおいても秀吉は水攻めを用いている。武蔵国忍城(おしじょう)は後北条氏に従属する成田氏長の居城であったが、難攻不落の城であった。秀吉は石田三成に忍城を水攻めにするよう命じる(忍城の戦い)。三成は大谷吉継・長束正家などと共に軍勢を率いて忍城を包囲、6月5日より地形を検分した上で利根川・荒川が形成した自然堤防を利用した全長約28キロメートルの堰堤(石田堤)を約1週間で建設し、利根川・荒川の河水を導水して忍城を水没・開城させる方針を採った。忍城では城主氏長が小田原城に籠城していたため氏長夫人や娘の甲斐姫、城代成田長親以下3,000の兵が防戦していたが標高の高い忍城は水攻めを受けても浸水せず、堤防の決壊で却って包囲する豊臣軍に損害が出るなど水攻めは失敗した。忍城は関東の北条方諸城が続々陥落する中で攻撃を凌ぎ、最終的には後北条氏の本拠・小田原城が7月6日に開城した後、氏長の説得によって7月16日に忍城は開城して戦いは終了した。小説・映画『のぼうの城』で知られる忍城の戦いは水攻めの失敗例であるが、備中高松城・紀伊太田城に見られる水攻めは土木技術に通じた秀吉ならではの戦いであり、治水・利水には全く関係ない軍事目的のものとはいえ貯水池を形成する堰堤を短期間で建設している。なお、小田原征伐で滅亡した後北条氏の城郭群には、障子堀と呼ばれる独特の築城形態があった。1973年(昭和48年)山中城復元整備中に発掘された障子堀は堀の底部に規則的な間隔で並べられた畝が存在するもので、江戸時代に刊行された山鹿流軍学書である『武教全書』によれば侵攻してきた軍勢の行動を阻害する本来の防衛目的に加え、平時には堀の水流調節や貯水を行うダム機能があったと解説されている。後北条氏滅亡後、旧領に封じられたのは徳川家康であった。家康は関東入国後一族や有力家臣を各地に配置すると同時に利根川・荒川の治水、灌漑整備に力を注いだ。関ヶ原の戦いで石田三成らを破り、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に叙されて江戸幕府を開くと、関東における治水・利水事業をさらに加速させるがこの一連の事業に中心的な役割を果たしたのが、伊奈忠次を祖とする関東郡代伊奈氏であった。備前渠用水や葛西用水路など21世紀の今でも供用されている用水路の整備を手掛けた伊奈氏であるが、ダムや堰についても手掛けている。利根川中流域では埼玉県さいたま市・川口市付近に存在していた自然の湖沼である見沼を寛永年間(1624年-1643年)に関東郡代伊奈忠治(忠次の次男)が八丁堤という堰堤を建設して貯水量を増加させ、見沼溜井を完成させた。溜井とは河川を利用した貯水施設のことであるが、こうした溜井は葛西用水路でも建設され、大落古利根川の松伏溜井や琵琶溜井、元荒川の瓦曾根溜井などの溜井が建設され流域の農地に用水が供給された。また小貝川では「関東三大堰」と称される堰が建設されたが、1634年(寛永11年)に完成した岡堰、1669年(寛文9年)に完成した豊田堰、1722年(享保7年)に完成した福岡堰は何れも溜井と同様に河道に貯水を行う形で建設された堰であった。見沼溜井は供給量の限界に伴い8代将軍・徳川吉宗の命により勘定吟味役である井沢弥惣兵衛為永が1728年(享保13年)6月に見沼代用水を建設し、見沼は干拓されたがそれ以外については新田開発に寄与している。一方、幕府が開かれて以降江戸の町は急速に人口が増加し、当時のロンドンやパリよりも多い100万人の人口を抱えるようになり上水道の供給も大きな課題となっていた。1590年、家康は大久保長安に命じて小石川上水を建設。1629年(寛永9年)頃には井の頭池や善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水が、そして1653年(承応2年)には多摩川を取水元とする玉川上水が完成して江戸の水需要を賄った。こうした用水路に加え、現在の東京都千代田区永田町から港区赤坂付近には赤坂溜池というため池と虎ノ門堰堤という上水道専用堰堤があった。この地には元々濠があったが、堰堤を建設することで濠をせき止め貯水量を増加させて上水道を供給した。歌川広重の『名所江戸百景』に「虎ノ門外あふひ坂」図があるが絵の右側に水が越流する堰堤が描かれており、竹村公太郎はこの絵から堰堤の規模は高さ4.0メートル程度の石積み堰堤ではないかと推定している。虎ノ門堰堤・赤坂溜池は明治時代以降に消滅し現存しないが、溜池山王の地名にその名を残している。関東以外でも農業用のため池が日本各地で建設されているが、代表的なものに愛知県の入鹿池(五条川)がある。当時の尾張国は家康の四男・松平忠吉が清洲城に封じられたが病死、その後九男・徳川義直が名古屋城を本拠として62万石を領有した。徳川御三家の一つである尾張藩であるが他藩と同様に新田開発を積極的に実施していた。既に伊奈忠次の指導監督下で尾張藩直轄事業として宮田用水が完成していたが、なおも残る小牧周辺の農地灌漑を図るため、地元の郷士である江崎善左衛門ら入鹿六人衆は新田1,000町歩開発を目的に大規模なため池建設を計画した。調査の結果、入鹿村地点に有力なダムサイトがあることが判明し当地に満濃池に匹敵する巨大なため池を建設することにした。善左衛門ら6名は尾張藩庁に建設許可申請を行うが、これに対し尾張藩は藩主・義直が鷹狩りと称して自ら現地に赴き実地検分を行い、藩として強力に事業を推進する決定を下した。入鹿池の建設工事は技術的な問題があって難航するが、河内より招聘した河内屋甚九郎という堤防建設の名手の指導で建設が進み、1633年(寛永10年)に完成した。完成当時の高さは26メートル、長さは約180メートルという大規模なダムであり、完成によって小牧周辺の新田開発が進んだ。入鹿池は1868年(慶応4年)5月14日に入鹿切れというダム決壊事故を起こし、死者941名、負傷者1,471名、流失家屋807戸を出してダム事故としては日本最悪規模の大惨事となったが再建。1991年(平成3年)には従来の灌漑目的に加え洪水調節目的を付加するダム再開発事業を実施し、満濃池と並ぶ日本最大級のため池となった。以上のように、古代から江戸時代までに建設されたダムは基本的に灌漑目的専用であり、ダムの型式もアースダムに限定されていた。コンクリートダムの登場は明治時代を待たねばならなかった。1853年(嘉永6年)6月3日、浦賀沖にマシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国の艦隊が来航した。翌1854年(嘉永7年/安政元年)に日米和親条約が締結されて国是であった鎖国政策が崩壊。1858年(安政5年)に日米通商航海条約が締結されるにおよび日本国内は尊王攘夷運動の嵐が吹き荒れ、江戸幕府の権威は急速に低下。1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いより始まる戊辰戦争という内乱を経て、日本は明治維新を迎えた。開国に伴い欧米の様々な最新知識が日本に導入されたが、ダムなどの土木技術のみならず後年ダムの建設目的となる電力・水道などの知識が導入され、「文明開化」の下次第に日本に普及していった。明治時代は、日本のダム事業史にとっても大きな転換期であった。日米和親条約により下田と箱館、日米通商航海条約により箱館・横浜・新潟・兵庫(神戸)・長崎が開港した。その後も開港する都市は増え続け、貿易や人口の増加もこれに比例して増加していく。ところが人的交流の拡大は感染症伝播の危険性を高め、殊に上水道の衛生整備が不十分だった日本では水系感染症であるコレラや赤痢が流行した。特にコレラは無治療時の死亡率が60パーセントと高く、江戸市中や神戸などで多数の死者を出し「コロリ」と呼ばれて恐れられた。こうした水系感染症を防止するための衛生的観点と、度々都市を襲った火災による延焼被害を未然に防ぐための防災的観点から、近代水道整備の重要性が叫ばれた。1887年(明治20年)横浜市において実施された相模川を水源とする水道事業が日本最初の水道事業であるが、1890年(明治23年)には日本初の水道関連法規である水道条例が施行され、水道事業は原則市町村が所管することが定められ、以後相次いで水道事業が各都市で開始された。水道を安定的に供給するための水源が求められ、ダムによる水道用貯水池が建設されるようになった。水道用ダム建設を日本で最初に手掛けたのは長崎市である。1889年(明治22年)の市制施行と同時に本格的な水道施設建設に着手した長崎市は、市内を流れる中島川水系に水源を求めた。1891年(明治24年)、中島川上流部にアースダムである本河内高部ダムを完成させたがこのダムが日本最初の上水道専用ダムである。本河内高部ダム完成により浄水場も整備され同年5月16日に市内へ給水が開始された。長崎市は水道事業の拡大を続け、1903年(明治36年)には本河内高部ダムの直下に本河内低部ダム(中島川)を、翌1904年(明治37年)には西山ダム(西山川)を建設して増大する水道需要に対処した。また1890年にコレラが大流行して1,000人を超える死者を出した神戸市では1892年(明治25年)より上水道事業に着手したが、市内を流れる生田川と新湊川に水源を求めた。1897年(明治30年)神戸市はイギリス人写真家でありながら帝国大学工科大学教授・内務省衛生局顧問技師の職に在ったウィリアム・K・バートン(バルトン)と日本人技師佐野藤次郎らの指導下、生田川上流部に布引五本松ダムの建設を開始。1900年(明治33年)完成させて市内に給水を開始した。布引五本松ダムは高さ33.0メートルの重力式コンクリートダムであり、ここに初めて日本においてコンクリートダムが建設された。また布引五本松ダム完成後の1901年(明治34年)には新湊川の支流である石井川に立ヶ畑ダムの建設が開始され、1905年(明治38年)に完成した。立ヶ畑ダムも重力式コンクリートダムであるが、曲線を描いた堤体である。長崎市・神戸市の例を見る通り、水道事業の進展はそれまでアースダムしか建設されなかった日本においてコンクリートダムの建設技術が導入された画期的な出来事であり、布引五本松、本河内低部、西山、立ヶ畑の順に続々と完成している。市営水道のほか、大日本帝国海軍も軍港の整備に伴って需要が高まった上水道を整備した。このうち青森県糠部郡大湊村(むつ市)に設置された海軍大湊要港部は軍港に水道を供給するため、付近を流れる宇田川に水道用の堰堤を建設した。大湊第一水源地堰堤である。1909年(明治42年)に完成したこの堰堤は、高さ7.0メートル、総貯水容量5,000立方メートルと極めて小規模な堰堤であるが、日本で最初に完成したアーチ式堰堤である。設計者は当時海軍横須賀鎮守府建築科長・海軍技師の職に在った桜井小太郎であり、後に旧丸の内ビルの設計も手掛けている。また、舞鶴鎮守府では高さ12.4メートルの桂貯水池堰堤を1901年に完成させ、給水を開始した。桂貯水池堰堤は1921年(大正10年)に完成した岸谷貯水池堰堤と共に21世紀の今も舞鶴市の水道水源地として利用されており、布引五本松ダムや大湊第一水源地堰堤共々国の重要文化財に指定されている。このように、水道事業の発展に連動するように日本のダム技術も急速に発展したが、これに先立つこと1882年(明治15年)欧米のダム技術を日本に紹介した人物がいる。戊辰戦争の最終戦である箱館戦争を榎本武揚や土方歳三らと戦い抜いた旧幕臣・大鳥圭介である。当時工部省工部技監の職に在った大鳥はアメリカ・オハイオ州スプリングフィールドで刊行された "Construction of Mill Dams" というダム関連の専門書を何らかの方法で入手し翻訳、4月に丸善より『堰堤築法新按』として出版した。内容はアメリカのダム建設工程を挿絵などを用いて初心者にも分かり易くかつ詳細に記し、建設図面も原本で掲載した本格的な土木工学専門書である。この本を出版するに当たり、勝海舟と伊藤博文が推薦文を載せている。こうした国外最新技術の紹介のほか、バートンを始めファン・ドールン、ローウェンホルスト・ムルデルなど当時多数来日した「お雇い外国人」達が日本人に土木技術を伝え、ダムのみならず日本の河川改修に多大な影響を与えた。また当時完成した水道用ダムのほとんどは21世紀の今も現役で供用されており、本河内高部ダム・低部ダムは1982年(昭和57年)の昭和57年7月豪雨(長崎大水害)、布引五本松ダム・立ヶ畑ダムは1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災という激烈な自然災害を経験しても致命的な損害を受けなかったことは、建設技術の高さを示している。また明治時代の経験が、大正時代の本格的なダム建設ブームに繋がってゆく。布引五本松ダム(生田川)に始まるコンクリートダムの建設は、日本人にダム建設の技術革新をもたらしこれ以降事業者はコンクリートダムを日本各地で計画するようになる。一方、殖産興業政策が軌道に乗った日本は国力を次第に高めて行った。日清戦争(1894年-1895年)や日露戦争(1905年-1906年)を通じ日本では重工業が発展するが、重工業の発展は水道需要のみならず電力需要の増大をもたらした。これらを背景に日本では電力会社が次々と各地で誕生し電気事業が活発に行われ、1911年(明治44年)には電気事業法が成立した。大正時代のダム事業はこの電気事業を抜きには語ることができない。電気事業の発展は、日本のダム技術を大きく花開かせる契機になった。日本の電気事業は1886年(明治19年)7月の東京電燈設立を最初とし、1887年(明治20年)には日本橋周辺に電力供給を開始している。水力発電事業は1888年(明治21年)宮城県において紡績工場に電力を供給するための三居沢発電所運転開始が日本初であり、翌1890年(明治23年)には足尾銅山の精錬事業に電力を供給する間藤原動所が運転を開始する。しかし前二者は自家用であり商業用としては1892年(明治24年)に田辺朔郎が琵琶湖疏水を利用して建設した京都府の蹴上発電所が第一号であり、京都市に路面電車を走らせた。それまでの水力発電は概ね小規模に留まり、ごく簡単な取水用固定堰で事足りていた。日清・日露戦争を経て重工業の発展や一般家庭への電力供給といった電力需要の急増はより大容量での水力発電が必要となり、発電所から都市へ送電するための長距離高圧送電技術と並行して調整池を有する規模の大きなダム、特に重力式コンクリートダムを建設するようになった。その端緒となったのが栃木県に1912年(大正元年)完成した高さ28.7メートルの黒部ダム(鬼怒川)である。鬼怒川水力電気が首都圏方面への送電を目的に建設したこのダムは日本で5番目に建設された重力式コンクリートダムであるだけでなく、日本初となる発電用コンクリートダムであった。続いて東京電燈は1907年(明治40年)に運転開始した駒橋発電所に続く発電所として下流に八ッ沢発電所を計画、その調整池として上野原を流れる相模川支流の谷田川に大野ダムを建設した。大野ダムは高さ37.3メートルのアースダムであるが、1914年(大正3年)の完成時日本一の高さを有した。北海道では王子製紙が苫小牧工場の電力需要を満たすため、不凍湖であった支笏湖の莫大な水量を利用すべく藤原銀次郎が中心となって支笏湖と流出する河川である千歳川の開発を計画。1904年(明治37年)に千歳第一発電所を建設した。取水堰堤として建設された千歳第一堰堤はコンクリート堰堤としては北海道初であったが、王子製紙は千歳川流域の電力開発をさらに推進。1918年(大正7年)に千歳第三ダムを完成させた。千歳第三ダムは高さ23.6メートルの重力式コンクリートダムで、北海道で初めて建設されたコンクリートダムとなった。北陸地方では新潟電力が新潟県の加治川に当時重力ダムとしては高さ日本一の飯豊川第一ダムを1915年(大正4年)に建設。近畿地方では宇治川電気が淀川本流、通称宇治川に高さ29メートルの大峯ダムを1924年(大正13年)に完成させ、中国地方では山陽中央電気が広島県に帝釈川ダム(帝釈川)を1924年完成させた。帝釈川ダムは名勝・帝釈峡に建設され、中国地方で最初のコンクリートダムとなったが完成時の高さ56.4メートルは、当時日本一の高さであった。このように日本各地で盛んに建設された発電用コンクリートダムの中で、日本のダム事業史に特筆されるものとして岐阜県の大井ダム(木曽川)がある。日本有数の大河川である木曽川の本流にダムを建設するこの事業は、福沢諭吉の養子で大同電力社長職に在った福沢桃介により手掛けられた。1921年(大正10年)7月より着工された建設事業は木曽川本流の膨大な洪水などに阻まれ難航、さらに1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で資金調達が滞り事業継続が危ぶまれるなど度重なる困難に直面した。桃介は渡米して大同電力の社債を売り出すことで資金を調達、また女優・マダム貞奴の援助などを得て事業を進めた。アメリカから4名の土木技術者を招聘して工事を進め、半川締切方式の採用、ボーリング調査の導入など日本初の手法を用いて難工事に対処、総事業費1,952万円(当時)の巨費と従事者数延べ146万人という莫大な投資を行い31名の殉職者を出して1924年完成した。高さ53.4メートル、総貯水容量2,940万立方メートルは完成当時日本最大級のダムであり、ダムに付設された大井発電所(出力4万2,900キロワット)は当時愛知県全県の電力需要の半分を賄える電力量に相当した。さらにダムにより恵那峡という新たな観光地も誕生する。桃介は大井ダム完成後、大井ダム上流の木曽川本流に落合ダムを1926年(大正15年)11月に完成させ、木曽川水系の電力開発に道筋を付けた。大井ダムを始めとする発電用ダムの完成により、大都市への長距離送電技術の向上と相まって東京・大阪などへの本格的な電力供給が可能になった。水道専用ダムも明治に引き続きコンクリートダムの建設が続けられ、まず1918年に大日本帝国海軍は呉海軍工廠への水道供給を目的として本庄ダム(二河川)を建設、完成当時は東洋一と称された。続いて神戸市は1919年(大正8年)千苅ダム(羽束川)を完成させ、福岡市は1923年曲渕ダム(室見川)を完成させた。長崎市は1926年3月に小ヶ倉ダム(鹿尾川)を完成させたが、小ヶ倉ダムは完成当時日本最大の高さを有する水道専用ダムとなった。また工業用水道専用ダムとして、官営八幡製鐵所(新日鐵住金八幡製鐵所)が1919年より施工を開始し1927年(昭和2年)に完成させた河内ダム(河内貯水池)は建設当初東洋一であった。このように大正時代はコンクリートダムの建設が積極的に進められ、ダムの高さに関しては次々に日本一の記録が破られた。ダム建設技術はさらに向上して昭和にはより大規模なダム建設が進められて行く。大正時代のダム事業の特徴として挙げられるものの一つに、日本では稀少な型式を採用したダムの建設がある。その稀少なダム型式とはバットレスダムとマルチプルアーチダムである。バットレスダムとは貯水池から掛かる水圧を鉄筋コンクリートの遮水壁で受け、その遮水壁を複数のバットレス(扶壁)と横桁によって支えることでダムの安定性を保つ型式のダムであり、扶壁ダムとも呼ばれる。日本初のバットレスダムは函館市の笹流(ささながれ)川に1923年完成した笹流ダムである。函館市は横浜市に次いで日本で2番目に上水道事業を行った都市であるが、元々大きな河川が無い上に人口が急速に増加したことで深刻な水不足に悩まされており、大正時代に入ると連日6時間から12時間断水が行われる有様であった。1916年(大正5年)議会はより確実な上水道供給を図るため第二次水道拡張事業を決定し、その根幹事業として亀田川の支流である笹流川にダムを建設する計画を立てた。1921年に着工した笹流ダムであるが、設計を担当したのは函館出身の建築家である小野基樹であった。小野は当時極めて高価な資材であったコンクリートを節減するため、バットレスダムを笹流ダムの型式として採用した。後に小野は1924年の土木学会誌において「従来のダム建設は膨大な資材と日数を費やす極めて不経済な方法を採っている。バットレスダムは安全堅固で、構成する資材を減らすことで工事費や工期を最小限にできる優越な工法」と主張している。函館の大火に起因するセメント工場の操業停止による工事中断や、関東大震災による資材の到着遅延など工事は困難を極めたが1923年に完成した。以降コンクリートの凍害などに対応するため1949年(昭和24年)と1984年(昭和59年)の二度修理が行われた。このうち1984年の修理ではバットレス間をコンクリートで埋めて重力式コンクリートダムにする計画案もあったが、歴史的に貴重なダムを改変することを回避。繁雑ではあるがバットレスダムのまま修理を実施した。なお小野は後年東京市水道局長として小河内ダム(多摩川)の建設事業に携わった。バットレスダムはその後1927年岡山県に恩原ダム(恩原川)、1929年(昭和4年)富山県に真川調整池(牛首谷川)と真立ダム(マッタテ川)、1931年(昭和6年)群馬県に丸沼ダム(大滝川)そして1936年(昭和11年)鳥取県に三滝ダム(三滝川)が建設された。しかしバットレスダムはコンクリートの量こそ節減可能であるが、構造が複雑であるため型枠を造るための人件費が高騰する上、薄い部材は気象の影響を受け易いことから完成後のメンテナンスも頻繁に実施しなければならないというデメリットがあった。しかも当時は高価だったコンクリートが次第に廉価になるに従い、相対的に不経済になることから三滝ダムを最後に日本では全く建設されなくなった。また上記のダムのほかに新潟県に高野山ダム、長野県に小諸発電所第一調整池というバットレスダムも存在していたが、高野山ダムは1971年(昭和46年)にダム再開発事業が行われてロックフィルダムに変更、小諸発電所第一調整池は1928年(昭和3年)に7名の死者を出した小諸発電所第一調整池決壊事故後に撤去され何れも現存しない。日本では8か所建設され6か所が現存する稀少な型式であり、日本最大規模のバットレスダムである丸沼ダムは国の重要文化財、恩原ダムは国の登録有形文化財に登録され、残りも土木学会選奨土木遺産に認定されている。一方マルチプルアーチダムであるが、日本では香川県観音寺市の柞田(くにた)川に建設された豊稔池ダムが初の例である。満濃池を筆頭に数多くのため池がある香川県は慢性的な水不足に悩む土地柄であり、安定した用水の供給が絶えず求められていた。香川県は用排水改良事業を県西部の柞田川流域で実施する方針を打ち出し、柞田川上流にダムを建設して下流農地に農業用水を供給する計画を立てた。これが豊稔池ダムであり、当初重力式コンクリートダムとして計画したところ、基礎岩盤が当初の計測よりも深い位置にあったことから型式を当時アメリカで最先端のダム技術であったマルチプルアーチダムに変更した。1926年3月より開始されたダム建設の設計指導は日本初のコンクリートダム・布引五本松ダムの設計・建設に携わった佐野藤次郎が担当し、技師2名が参加。毎晩講習会を開いて技術者を養成しながら地元民を中心に延べ15万人を動員する工事を行い、4年の歳月を費やして1930年(昭和5年)完成した。豊稔池ダムは老朽化対策のため1994年(平成6年)にダム再開発事業を実施したが、地元住民から「外観を変えないで欲しい」という要望が多かったことから、景観や外観を損なわないように上流面中心の補修を実施した。再開発終了後、ダムは日本唯一の五連マルチプルアーチダムという稀少性や農業史的に重要であるなどの理由で2006年(平成18年)に国の重要文化財に指定された。なお日本のマルチプルアーチダムは豊稔池ダム以外では1961年(昭和36年)宮城県で完成したダブルアーチダムの大倉ダム(大倉川)のみで、日本では2か所しかなくバットレスダムよりもさらに稀少である。こうして大正時代のダム事業は主に電気事業者が中心となって日本各地にダムを建設していった。しかし、水力発電のために河川から取水することで下流の水量が減少し農業用水、あるいは当時盛んに実施されていた流木に対する影響が表面化した。1896年(明治29年)に日本初の河川関連法規である旧河川法、1911年には電気事業法が成立したがこれらの法律では対応し得ない状況であり、江戸時代以前より農業用水を取水している農民や林業を営む流木業者が持つ慣行水利権と電気事業者が獲得した新規発電用水利権が衝突する例が発生した。この時期の農業に関する慣行水利権者と電気事業者の対立として知られるのが宮田用水事件である。宮田用水は徳川家康が御囲堤の建設を伊奈忠次に命じた1608年(慶長13年)にその歴史を遡る。当初は御囲堤によって従来使用していた農業用水取水口が閉鎖されることに対する代替事業の性格があったが、その後長期間を掛けて整備された農業用水であり、木津(こっつ)用水と並んで濃尾平野南部約1万7,000ヘクタールの主要な水源となっていた。1924年8月16日に大井ダムは貯水を開始したが、宮田用水組合はこの時期は灌漑期間中であるから9月下旬まで貯水開始を遅らせて欲しいと事前に大同電力へ要望していた。ところが大同電力は組合に無断で貯水を開始したことから下流の農地では折からの旱魃もあって取水量が減少して農民は大混乱を来たし、流域各所で水争いが頻発した。組合側はこれを福沢桃介ら大同電力の暴挙と厳しく非難、下流水利権の保護を強力に要請した。当初大同電力は大井発電所使用許可における付帯命令書で下流水利権への支障がある場合は関係者と協議して適当な対策を講じることという条項があったため、木曽川に仮堰を設置して用水取水を円滑にする対策を採っていた。しかし仮堰の設置に掛かる費用が重くなり1929年1月に仮堰設置負担金の支払いを拒否した。このため再度取水量が不安定になり下流域の農地では流血を伴う水争いや小作争議にまで発展する事態になった。宮田用水組合と木津用水組合は水利権の許認可を持つ岐阜県を始め愛知県や河川行政を監督する内務省、電力行政を監督する逓信省、農政を監督する農林省に対し繰り返し陳情書や意見書を提出した。1930年より愛知県知事が調停に立つ姿勢を見せ、1933年(昭和8年)には両組合が大井ダム下流に逆調整池を建設して木曽川の水量を一定にするよう陳情書を提出したことから事態は動き出す。逆調整池とは発電用ダムの放流によって下流の河川水量が不均等になることで起こる弊害を防ぐため、ダムを建設して上流からの放流水を貯水することで水量を貯水池で調整し(逆調整)、下流には均等な水量を放流して水位の変動による影響を最小限に抑える目的をもったダムのことである。当時大同電力と、飛騨川流域の電力開発を進めていた東邦電力は奇しくも同じ地点に逆調整池の建設計画を進めていた。この逆調整池が今渡ダム(木曽川)である。木曽川と飛騨川の合流点直下に建設するこのダムによって、大井ダムのみならず飛騨川上流の水力発電所から放流される水量も調節できることで急速に計画が具体化。大同・東邦両電力は愛岐水力という合弁会社を設立して1935年(昭和10年)より今渡ダムの建設を進め、1939年(昭和14年)に完成する。しかし放流する水量を巡る意見の相違が解決せず、戦時中の1942年(昭和17年)5月に至り灌漑期間中の条件付きではあるが毎秒100立方メートルの放流が義務付けられたことで、都合20年近くにおよぶ争議は解決した。一方流木に関する慣行水利権者と電気事業者との対立として知られるのが庄川流木事件である。1917年(大正6年)、日本電力の子会社である庄川水力電気社長・浅野総一郎は庄川本流に小牧ダムを建設するため、富山県に発電用水利権の許可申請を提出。2年後の1919年に許認可が下りて1925年(大正14年)に小牧ダムの建設に着手した。しかし庄川本流にダムを建設することで、飛騨・五箇山方面からの流木が途切れることで木材運搬と従事する労務者の生活に多大な支障が出ること危惧した飛州木材はダム建設に反対、1926年10月5日にダム建設差し止めの仮処分申請を裁判所に提出した。この争議において中心的な役割を果たしたのは、飛州木材専務取締役の平野増吉であった。平野は1927年12月31日にある人間の仲介で浅野総一郎と面談したが、席上浅野は「流木が流れないから発電工事に故障を申し立てるのは怪しからん」と出会い頭に放言、さらに「君の山には木が何本あって、一本幾らだ。山ぐるみ残らず買ってやるから値段を言いなさい。名古屋での相場で買ってやる」と高飛車な態度に終始した。その後庄川水力電気と飛州木材の対立は先鋭化して法廷闘争や流血事件に発展、知己である中野正剛の調停も失敗に終わるなど泥沼であった。膠着した事態が動くのは1930年10月、大阪地方裁判所で行われた堰堤仮排水路締切禁止の仮処分申請を巡る民事訴訟であり、大阪地裁は飛州木材の流木権を認め、庄川水力電気の横暴を戒める一方で双方の和解を勧告した。民事訴訟は取り下げられ、同時期に行われた行政訴訟は敗訴したものの庄川水力電気が木材会社の株式取得や流木業者の失業補償、さらに国道156号の原型となる「百万円道路」建設などを行うことで1933年(昭和8年)8月に全面解決を見た。なお飛州木材は飛騨川筋においても、瀬戸第一発電所の取水を巡る日本電力との紛争が発生し一時は一触即発の事態に陥ったが、岐阜県議会議長の仲介によりダムに流筏路を建設することで1924年和解が成立した。これを益田川流木事件と呼ぶ。何れの例も、私権の保護が不十分であった時期の紛争であり、庄川流木事件を戦った平野も「日本国憲法があればここまでにはなっていなかっただろう」と後に語っている。ダム事業を巡る補償問題の初期例であり、戦後ダム事業が積極的に進展するに連れ補償問題はより複雑なものになって行く(後述)。大正時代のダム建設ブームにより日本のダム技術は明治以前に比べて飛躍的に向上し、高さ50メートルを超えるダム建設も盛んに行われた。一方で宮田用水事件や庄川流木事件に見られる慣行水利権者との摩擦は、日本における河川行政・法整備が実情に追い付いていないという現実を露呈させた。さらに治水事業との整合性や利水事業者同士による開発事業の衝突など、旧河川法や電気事業法では解決できず政治家による調停に委ねる例も出て、河川行政の抜本的な改革が問われつつあった。また、満州事変以降次第に日本は軍国主義の風潮が高まり、河川事業にもその暗い影が差して行ったのが昭和初期のダム事業を取り巻く環境である。1896年(明治29年)に制定された旧河川法では治水事業は堤防整備を主体とした河川改修が主眼であり、ダムを活用するという流れはなかった。またダム事業自体も単一事業者が単一の目的で建設しており、複数の事業者が関与することもなかった。こうした状況下で宮田用水事件や庄川流木事件、あるいは同一河川における水力発電事業で複数の事業者が水利権の所在を巡り対立するなどの事案が多発する。従来の法整備では太刀打ちできない現実を目の当たりにした行政は、大正時代より逓信省、農林省がそれぞれ水力発電・灌漑目的の立場から法改正を画策したが河川行政を管轄する内務省の猛反対によって陽の目を見なかった。ようやく法整備に関する事態が動き出したのは1926年(大正15年)8月26日に勅令第270号として公布された河川行政監督令である。即ち当時盛んだった水力発電に係る河川占用の許可を内務大臣の許認可事項とする内容のもので、内務省の河川行政への専管業務を強化する意図があった。またダムの基準についても従来曖昧だったものを統一するため、1935年(昭和10年)5月27日内務省は省令第36号として河川堰堤規則を、6月15日には逓信省が省令第18号として発電用高堰堤規則をそれぞれ制定。二つの政令によって「基礎岩盤からの高さが15メートル以上(河川堰堤規則ではアースダムは高さ10メートル以上)」というダムの基準が日本で初めて確立した。こうした流れの中、一人の学者がその後の日本における河川行政の流れを大きく変える論文を発表する。東京帝国大学教授・東京帝国大学地震研究所研究員・内務省土木試験所長の職に在った当時38歳の物部長穂である。物部は1920年(大正9年)に耐震構造に関する論文で第一回土木学会賞を受賞、その後耐震構造学の権威として重力式コンクリートダムの耐震理論を確立し今日まで地震による重力ダムの致命的な損壊を防ぐ重要な基礎を築いた。河川工学にも精通する物部は1926年に『わが国に於ける河川水量の調節並びに貯水事業について』という論文を発表し、河川総合開発・多目的ダム建設の必要性を主張した。論文の要旨は以下の通りである。同年12月には内務省内務技師である萩原俊一も共同貯水池建設事業の国による斡旋と調査の必要性を内務大臣に上申しているが、物部論文は大きな反響を呼ぶ。内務省では内務省内務技監・後に内務省土木会議議長を兼務した青山士(あきら)がこれに注目した。青山は日本人で唯一パナマ運河の建設事業に参加し、帰国後大河津分水路や荒川放水路の建設事業で総指揮を執るなど当時第一線で活躍していた内務官僚である。当時アメリカでは1910年(明治43年)よりテネシー川流域開発公社(TVA)によるテネシー川総合開発が始まり、1913年(大正2年)からはマイアミ川総合開発に基づく5か所のダム建設も実施していた。また法整備という面でも1913年に治水・利水の統一水法として近代水法の模範となったプロイセン水法を皮切りに欧米で相次いで河川関連法規が制定、1934年(昭和8年)にそれら欧米水法の完成形としてオーストリア水法が成立するなど国外では河川総合開発に対する動きが加速していた。青山は1935年(昭和10年)10月に土木会議を開催、物部論文を最優先とする河川事業を国策で推進することを決定した。ここに河川総合開発事業の前身となる河水統制事業が開始された。第一に計画されたのは五十里ダムである。利根川の大支流・鬼怒川に合流する男鹿川に計画された五十里ダムは鬼怒川改修計画の一環として治水を主目的に1926年より計画されたが、河水統制事業としてその後水力発電目的が加わり1940年(昭和15年)より着工された。完成例としては愛知県が庄内川水系山口川に1933年完成させた山口ダムが日本初であり、治水・灌漑・上水道供給が目的の河水統制事業であった(後に廃止)。翌1934年(昭和9年)には青森県が沖浦ダム(浅瀬石川)、1935年には香川県が長柄ダム(綾川)の建設にそれぞれ着手するなど当初は地方自治体が先駆けて河水統制事業を手掛けた。1937年(昭和12年)になると念願であった河水統制事業調査費が予算として認められ、内閣に河水調査協議会が設置されて本格的な調査が64河川で開始、1940年には調査費の国庫補助も開始された。こうした動きにより右表にある通り多くの河川で多目的ダムなどの河水統制事業が着手され、1940年には現存する日本初の多目的ダムとして山口県が向道ダム(錦川)を完成させた。地方自治体にやや遅れて内務省も直轄ダム事業による多目的ダム建設を計画、琵琶湖河水統制事業や北上川五大ダムの第一弾である田瀬ダム(猿ヶ石川)、釜房ダム(碁石川)、大野ダム(由良川)、猪名川ダム(猪名川)などが計画・施工された。しかし河水統制事業は程なく軍部に翻弄されてゆく。当時の日本は1895年(明治28年)日清戦争の勝利によって台湾を併合、1910年に日韓併合を行い朝鮮半島を併合し両地域は日本の統治下にあった。日本統治下の台湾や朝鮮半島においても、ダム建設が進められていた。台湾において日本人が手掛けた代表的なダムとして、烏山頭(ウサントウ)ダムがある。台南州を流れる曽文渓は全長140キロメートルの台湾第三の大河であり、流域には香川県と同面積の15万ヘクタールにおよぶ嘉南平原が広がる。しかし嘉南平原は慢性的な水不足と排水不良に悩まされており、農業生産力の向上には嘉南平原の灌漑整備が不可欠であった。台湾総督府は嘉南平原に農業用水を供給するため、用水路である嘉南大圳(たいしゅう。用水路のこと)の整備を計画する。この嘉南大圳建設に携わったのが台湾総督府内務局土木課に勤務していた八田與一である。小樽港築港に携わった東京帝国大学教授広井勇門下で、物部長穂・青山士と同門である八田は曽文渓支流の官田渓に烏山頭ダムを建設すると共に台湾最大の河川である濁水渓より水を導水して、嘉南平原に水を供給するという嘉南大圳事業を計画した。1920年(大正9年)より着工された烏山頭ダムは高さ56.0メートルのアースダムであり、総貯水容量は1億5,000万立方メートルと完成当時日本最大、東洋一の規模を誇る大ダムであった。ダム建設はトンネル工事中に石油が噴出したことによる爆発事故で50名が死亡したり、関東大震災の余波で事業費が削減され労務者を大量解雇せざるを得ないという苦難に遭遇したが、解雇した労務者の再就職に奔走したり、学校や病院などを建設して労務環境を高めるなど現地での信頼を高めて行った。総事業費5,413万円と10年の歳月を費やしダムを含む嘉南大圳は完成し、コメやサツマイモなどの増産に大きく寄与する。完成当時「八田堰堤」と呼ばれていた烏山頭ダムの人造湖は珊瑚潭と命名された。その後も八田は土木事業に携わるが1942年に灌漑事業調査のためフィリピンへ大洋丸で向かう途中アメリカ海軍の潜水艦に雷撃を受けて船が沈没し殉職、妻は1945年の日本敗戦時に烏山頭ダムの放水口に投身自殺するという悲劇を産んだ。しかし愛知用水の10倍におよぶ給水面積を有する嘉南大圳はその後も嘉南平原を潤しており、台湾で八田は「嘉南大圳の父」として尊敬されて銅像が建立され、八田の命日である5月8日には毎年地元農民によって墓前祭も催されるほか、2011年(平成23年)には八田與一記念公園が完成し馬英九台湾総統も記念式典に出席している。長編アニメ映画『パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜』は八田を描いた作品である。なお台湾では烏山頭ダムのほかに日本統治下で建設されたダムとして水社ダム(日月潭水庫)がある。水力発電を目的に1934年建設されたこのダムの人造湖は日月潭の名で知られるが、元々天然湖沼である日月潭にダムを建設すると同時に濁水渓に建設した武界ダムから水を導水して貯水容量を増加させることで発電を行う。総貯水容量1億7,200万立方メートルに規模が拡大した日月潭は台湾最大の湖であり、台湾の主要な観光地の一つでもある。ダムは日本の敗戦で中華民国に接収された後、台湾電力が管理している。朝鮮半島における日本人が手掛けた代表的なダムとしては、鴨緑江の水豊(スープン)ダムがある。水豊ダムは朝鮮総督府と中国東北地方に日本が建国した満州国との共同事業として建設されたダムである。日本の傀儡政権であった満州国では重工業の発展や南満州鉄道の敷設が進む一方で電力需要に対する供給が不足していた。朝鮮総督府や関東軍、満州国国務院は豊富な水量を有する鴨緑江の河川総合開発を企図、1936年に南次郎が第7代朝鮮総督に就任したことで計画は積極的に進められ、1937年1月には鮮満鴨緑江共同技術委員会を設置。ダム建設に関する具体的な調査が開始された。8月には事業主体である鴨緑江水電が設立され、初代社長には朝鮮半島で水力発電事業を展開していた朝鮮窒素肥料の野口遵(したがう)が就任した。ダム建設によって朝鮮・満州国合計で約1万5,000戸という空前規模の移転戸数が生じ、約7万人もの住民が移転を余儀なくされたが、移転に従う住民がいる一方で自作農などはダム建設に強硬に反対し、事業者側は宣伝工作や強制撤去などの実力行使を以って移転させている。また労務環境も悪く、多くの殉職者を出している。こうした経緯を経て水豊ダムは1944年(昭和19年)に完成する。高さ107.0メートル、出力70万キロワットという当時日本最大のダム・水力発電所であった。なお野口遵は朝鮮半島において1929年赴戦江に漢岱里ダム、1937年長津江に葛田里ダムなどを建設したほか、水利組合により1927年蟾津江に蟾津江ダムが完成している。さらに旧満州国内では第二松花江に豊満(フォンマン)ダムが1937年より満州国国務院水力電気建設局の手で施工を開始している。松花江総合開発の一環として天然湖沼である鏡泊(チンポー)湖の水力発電事業と共に計画された高さ91メートル、長さ1,110メートル、総貯水容量125億立方メートル、出力70万キロワットの多目的ダムで、当時アメリカのフーバーダム(コロラド川)に次ぐ東洋一の巨大人造湖であったが移転戸数が8,400戸とこちらも多くの住民が移転を余儀なくされている。豊満ダムも戦時中の物資不足によって工事が中断、続く日本の敗戦と満州国崩壊によってソビエト連邦軍が侵攻し発電機を奪われ、さらに国共内戦で中国人民解放軍と中国国民党軍がダム争奪戦を繰り広げるなど完成まで激動の歴史であった。豊満ダムでも労務環境が悪く、多くの中国人労働者が腸チフスや発疹チフスに罹患して死亡した。これについて日本では「強制労働」と誤った報道がされたため、当時ダム工事に従事した技術者が書籍を出版して劣悪な条件下で落命した中国人労務者に謝罪する一方で「強制労働」の誤報に反論した。日本人労務者は1953年(昭和28年)まで当地に留まりダム管理を行っている。これら日本統治下に在った地域のダムは、日本の敗戦により現地政府に接収されている。電力会社による発電用ダムの建設は大井ダム以降、より大規模なダムの建設を手掛ける方向性が強くなった。
出典:wikipedia
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