バダ・ハリ(, ラテン文字表記: 、1984年12月8日 - )は、オランダ出身の男性キックボクサー、プロボクサー。モロッコ系オランダ人。ショータイム、マイクスジム所属。初代K-1世界ヘビー級王者。初代IT'S SHOWTIME世界ヘビー級王者。入場曲はAPPAの「Badr Hari Bad Boy」。K-1参戦当初はバド・ハリと表記されていた。リング外での悪童ぶりとトラッシュトークも目立つが、試合運びは極めて正統派。アーネスト・ホーストやブランコ・シカティックも絶賛するほどの才能を持ち、15歳でプロデビューして以来、驚異的な勝率の高さを誇る。「THE GOLDEN BOY」というニックネームの由来は、バダ自ら「俺が触った物は全て金になる。俺がリングを触ればリングが金色に、俺が女の子を触ったら女の子が金色になる。だから俺はGOLDEN BOYだ」と言ったことによって定着した。「悪魔王子」の由来は、「悪魔王子」として恐れられた変則ボクサーナジーム・ハメドから。ハメドもバダ同様アラブ系である。K-1参戦前は「スネーク(蛇)」の異名で呼ばれていた。ピーター・アーツやブランコ・シカティックを輩出しているドージョー・チャクリキ、レミー・ボンヤスキーやアンディ・サワーを輩出しているメジロジムに所属した時期もあったが、現在はマイクスジムでメルヴィン・マヌーフ、ビヨン・ブレギーらと共に練習を積んでいる。2003年6月8日、IT'S SHOWTIME 6アムステルダム・アレナ大会でアレクセイ・イグナショフと対戦し、3ラウンドKO負け。なお、試合のわずか4日前にオファーをもらっての緊急参戦であった。2004年3月21日、Profighters Gala in Almereにてエロル・パリスと対戦。右フックで5ラウンドKO勝ち。5月20日、It's Showtime 7にてアジス・カトゥーと対戦。膝蹴りで腕を骨折させて2ラウンドKO勝ち。10月10日、2 Hot 2 Handleにてグーカン・サキと対戦。2ラウンド終了後、タオル投入によるTKO勝ち。12月12日、Rings Fightgala 〜Born Invincible〜にてゲーリー・ターナーと対戦。判定勝ち。これらの実績が評価され、同年のK-1 WORLD GP王者レミー・ボンヤスキーを抑えてオランダ格闘技界の年間MVPを19歳にして受賞した。2005年6月12日、IT'S SHOWTIME 8でステファン"ブリッツ"レコと対戦。優勢に戦っていたが、ボディへのバックキック一撃で逆転の1ラウンドKO負け。11月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦でK-1デビューを果たし、第2リザーブファイトにおいてステファン"ブリッツ"レコと再戦。前回自分がKOされた右バックスピンキックを顎に直撃させて2ラウンド失神KO勝ちでリベンジを果たした。試合後、「オランダに自分が理想とするスタイルのファイターはいない。オランダ人のトップになる。誰でもやってやる」とコメントした。2006年3月5日、K-1 WORLD GP 2006 IN AUCKLANDのOCEANIA GPに出場。この試合前日の記者会見では、1回戦の対戦相手ピーター・グラハムに因縁をつけ会見では喧嘩騒動に発展させてしまった。しかし、パンチはグラハムにかわされ、逆にタックルをまともにくらいテイクダウンをされている。上になられたところで周りの人が止めに入った。そして試合ではやや優勢に戦っていたものの、3ラウンドにグラハムの胴回し回転蹴り(ローリングサンダー)を喰らい失神したうえアゴを2箇所も骨折してのKO負け。病院送りにされ半年間の戦線離脱を余儀無くされた。9月30日、K-1 WORLD GP 2006 開幕戦にファン投票1位とK-1が発表し、推薦選手として参戦。ルスラン・カラエフと対戦。前日会見では居眠りをしたりビヨン・ブレギーのマイクのコードを引っ張ったりとやりたい放題だった。、また試合前の控え室ではK-1のルールを管轄する日本人スタッフが、バダ・ハリの使うルール違反の足の保護サポーターに対して「これは試合で使えない」と注意するとイライラを募らせ、パイプ椅子を持ち上げて全力で地面に叩きつけて暴れたり、その日本人スタッフ達を大声で罵倒して「あいつをここから出て行かせろ」「あいつは敵から送り込まれた」などと言い放ったり放送禁止用語や暴言を連発するなどした。試合ではインローでバランスを崩したところで、カラエフの左右のフックでダウンし、10カウント内にファイティングポーズを取れず、1RKO負けとなった。試合後、怒りをあらわにしたバダ・ハリはリング上で猛抗議し、暫くリングを降りようとしなかった。しかし、この時の映像を見てみると、カラエフがフックで倒れたバダにローキックを放っているがそれはコンビネーションや流れであるため、(今までもK-1ルールでは度々容認されているシーンである)それゆえ結果は覆らなかった。カラエフも「膝がつく前に蹴っていたのだから反則にはならなかった」と話している。また、解説席にいた長嶋一茂はKOシーンで「顔面への(カラエフの)肘打ちが入っています。」と断言して語っているがそれは間違っており、角度によっては肘打ちに見えなくもないものの、ただの右フックであり、さらにバダ・ハリが背中をカメラの方向に向けている別角度のリプレイ映像を見ると、フックの際の肘も当たっておらず、カラエフの右フックがバダ・ハリのテンプルに当たってそれでバダ・ハリが倒れていることが分かる。怒りの収まらないハリは控え室に戻る途中で、会場案内標識やスピーカーを破壊するなど大暴れした。12月2日、K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦のスーパーファイトでポール・スロウィンスキーと対戦。ローキック一本で攻めるスロウィンスキーを手数で押し、判定勝ちを収めた。12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!でニコラス・ペタスと対戦。バダの打撃によりペタスが左腕を骨折し2ラウンドTKO勝ちとなった。2007年3月4日、K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMAにて、初代K-1ヘビー級王座挑戦者決定戦でルスラン・カラエフと再戦。2ラウンドにダウンを奪われるも、その直後、カラエフの左に合わせたカウンターの右ストレートで逆転の2ラウンドKO勝ち。後にこの試合はSRSの2007年ベストバウト賞に選ばれた。4月28日、K-1 WORLD GP 2007 IN HAWAIIで藤本祐介と初代K-1ヘビー級王者決定戦を行い、左ハイキックで1ラウンドKO勝利し、初代K-1ヘビー級王座を獲得。8月5日、K-1 WORLD GP 2007 IN HONG KONGでピーター・グラハムと再戦。アウトボクシングを展開し、3ラウンドに左ミドルと右ストレートをボディーに喰らわせダウンを奪っての判定勝ちを収めリベンジを果たした。試合後二人はリングで肩を組み合い観衆はそれを讃えたが、その後のコメントで「憎んではいないが、友人として認めたわけでもない」と語っている。12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALの準々決勝で戦前から舌戦を繰り広げていたレミー・ボンヤスキーと対戦。フルラウンドに渡り好勝負となったが判定負け。試合後のコメントでは相手を認める発言をするも、あくまで「スポーツマンとして敬意を示しただけ。仲直りじゃない」、「彼は王者になれるような選手じゃない」と述べた。2008年4月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAでレイ・セフォーと対戦。1ラウンドに3度のダウンを奪いKO勝ち。6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1ヘビー級タイトルマッチでグラウベ・フェイトーザと対戦し、右フックで1ラウンドKO勝ち。初防衛を果たした。8月9日、K-1 WORLD GP 2008 IN HAWAIIのスーパーファイトでドマジョフ・オスタジックと再戦。開始早々にお互いのパンチが相打ちとなり、ハリもぐらつくもオスタジックはそのままダウンとなり1ラウンドKO勝ちを収めた。9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16でチェ・ホンマンと対戦。2ラウンドにホンマンの左フックでダウンを喫するも、3ラウンドは左ボディブローやローキックを中心に攻め、判定0-1で延長ラウンドへ突入する。しかし、延長ラウンド開始時にホンマンが試合を続けることを拒否し、ホンマンサイドのタオル投入によりTKO勝ちを収めた。当初K-1の発表によるとホンマンが右肋骨を骨折したため棄権ということになっていたが、のちにホンマンは骨折していなかったことが判明している。12月6日、K-1 WORLD GP 2008 FINALでは準々決勝でピーター・アーツと対戦。1ラウンドにダウンを奪ったうえ、2ラウンドにもダウンを奪った直後にレフェリーストップとなりTKO勝ち。準決勝ではエロール・ジマーマンとダウンの奪い合いの末に3ラウンドKO勝ちを収めた。決勝戦のレミー・ボンヤスキー戦では1ラウンドに左フックでダウンを奪われ劣勢になると、2ラウンドにレミーの足を手ですくうようにして倒し、倒れて下になったレミーに対して審判の制止にもかかわらずパンチを打ち続け、さらにレミーの頭部を足で踏みつけたため、レフェリーの角田信朗がバダ・ハリを引き離したが試合が中断。その後、反則攻撃によりレミーがダメージを受けダブルヴィジョン(物が二重に見えること)を訴え、この行為がスポーツマンシップに反すると判断されレッドカードが提示され、失格負けとなった。試合後、バダは「感情的になってしまった。仕掛けようとしても攻撃が帰ってこないので、その中で思わず、ストリートファイトのような本能が目覚めてしまった。ファンにはお詫びしたい。審判団の裁定を真摯に受け止めたい。ただ、レミーはダメージが無かったんじゃないか?反則勝ちが告げられるとすぐに立ち上がり、彼なりに素晴らしいスピーチを繰り広げていた。レミーのセコンドからもインターバル中に立ち上がるなといった指示が聞こえた。今日の彼の優勝は、最優秀男優賞として与えられたものにすぎない」とコメントした。その後、12月17日に谷川貞治からファイトマネーの全額没収、準優勝の資格および賞金の取り消し、保有するK-1ヘビー級王座剥奪という処分が発表された。ルールブックや契約書に記載されていないことを理由に出場停止処分は課されなかった。2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜にて、DREAM.6でバダが名指しで挑発した総合格闘家のアリスター・オーフレイムとK-1ルールで対戦。1ラウンド膝蹴りと左フックのコンビネーションでダウンを奪われると、立ち上がるもアリスターのカウンターの左フックを受けてKO負け。試合後、「今月はK-1 WORLD GP決勝からすぐに試合に出ることになり、K-1 WORLD GPと合わせて4試合のモチベーションを維持して集中するのは難しい」「(K-1の方がMMAより強いと発言したが)今日はたまたまこういう結果(K-1選手がMMA選手に全敗)になった。K-1vsMMAということはなく、試合は2人の選手の1対1の戦いであり、どちらのジャンルが強いということではない」とコメントした。またこの2人の対戦はK-1ルールと総合ルールで1試合ずつ、計2試合行われる事が試合決定前に両者の間で合意されており、アリスターの口からも「勝敗にかかわらずMMAルールで再戦されることが双方の間で事前に合意していたので次は総合ルールだ。」と語られているため再戦は暗黙の了解となっていたが、K-1の谷川プロデューサーがその話を有耶無耶にしてしまい、さらにこの試合後に総合ルールでの再戦を記者に聞かれたバダ・ハリは「総合には出ない」と再戦を否定したため、2009年に予定されていた総合ルールでの再戦は行われることはなかった。2009年3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAでエロール・ジマーマンと再戦予定であったが、調整不足を理由に欠場。これは5月のシュルト戦の大一番に専念するための欠場とみられたが、谷川氏は「一度は出場オファーを受諾した後、怪我もしていないのに欠場を申し出るなんてプロとして失格」と語った。5月16日、IT'S SHOWTIMEの初代IT'S SHOWTIME世界ヘビー級王者決定戦でK-1スーパーヘビー級王者セーム・シュルトと対戦。序盤から激しいパンチの打ち合いとなり、バダが2度のダウンを奪って1ラウンド45秒KO勝ち。初代IT'S SHOWTIME世界ヘビー級王座を獲得した。12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALの準々決勝でルスラン・カラエフと対戦。試合開始と同時に激しい打ち合いを展開し、1ラウンド38秒KO勝利。準決勝では大晦日にKO負けを喫しているアリスター・オーフレイムと対戦。パンチでダウンを奪い、最後は左ハイキックで1ラウンドKO勝ち。続く決勝では5月にKO勝利を収めているセーム・シュルトと対戦し、1ラウンドに3度のダウンを奪われKO負け。惜しくも準優勝となり、試合後は人目もはばからず号泣した。なおこの結果、1998年のピーター・アーツ、同年のシュルトと並び決勝トーナメント3試合全てを1ラウンドKOもしくはTKOで終えた選手となり、また準優勝者ではK-1史上初の記録である。2010年2月13日、ムラッド・ボウジディに2ラウンドKO勝ちでIT'S SHOWTIME世界ヘビー級王座の初防衛に成功。4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAのメインイベントでアレクセイ・イグナショフと7年ぶりに再戦し、ダウンを奪っての判定勝ちでリベンジに成功。5月29日、IT'S SHOWTIME世界ヘビー級タイトルマッチでヘスディ・カラケスと対戦。2ラウンドにカラケスが転倒したところにキックを放ち反則負けとなり、王座から陥落した。試合翌日にバダ陣営から「私はキック人生において二度目の同じ過ちをしてしまいました。私のやった行動は自分自身のみならず観客の皆様をも失望させることになりました。考えた末に私は無期限謹慎を決めました。復帰予定がいつになるかは分かりません。自分で自分を罰することを決めました」というプレスリリースが配信された。しかし、所属するマイクスジムのマイク会長は「先日のIT'S SHOWTIMEの後は9月のK-1 WORLD GP開幕戦までバダが休暇をとることは最初から予定していた。バダは9月のK-1 WORLD GP開幕戦で復帰する予定だ」とコメントしており、自主謹慎はほとんど無意味なものであった。6月8日、IT'S SHOWTIMEを主催するヨーロピアン・ファイティング・ネットワークからバダ・ハリに対してカラケス戦の罰金処分を下したことがIT'S SHOWTIME公式サイトで発表された。処分の決定の経緯については「バダ・ハリ本人が失格が妥当な判断であることを認識しており、自ら謹慎を申し出ている。また以前にK-1で同様の反則を行ったが、この裁定にIT'S SHOWTIMEは関与していない。バダ・ハリにIT'S SHOWTIMEの大会への出場停止処分を下すことは簡単だが、バダは最初から今年のIT'S SHOWTIMEの大会にはもう出場しないことが決まっており、我々の管轄外であるK-1には出場できるので意味が無い。彼が反省している25歳の若者であることを考慮して2度目のチャンスを与える」とした。10月2日に開催されたK-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16への出場資格はあったが、K-1側の公式発表では「2月に起きた暴行事件の容疑を晴らすために出場を辞退した」ということのみが発表されたが、実際にはオランダを離れてモロッコで休暇をとっており、裁判の準備を始めたのは10月下旬であった。欠場理由についてバダ・ハリ本人はインタビューで「K-1側は俺に高額なファイトマネーを提示してオファーしてきたが、今はモチベーションが低くて、やる気が出ない。来年のIT'S SHOWTIMEのアムステルダム・アレナ大会でビッグ・カムバックしたい」とも語っている。12月11日に開催されたK-1 WORLD GP 2010 FINALのリザーブマッチへの出場オファーもあったが、ここでもモチベーション不足を理由に欠場した。2011年5月14日、IT'S SHOWTIME LYONのメインイベントで約1年ぶりに復帰戦を行いグレゴリー・トニーに1RKO勝ち。グレゴリーは「世界最強のドアマン」というニックネームを持つことから「(前年の事件の)ドアマンのリベンジマッチ」との声も一部からは上がったが、試合内容はバダのワンサイドゲームとなった。2011年9月28日、IT'S SHOWTIME公式サイトにて、2012年1月28日のIT'S SHOWTIMEレーワルデン大会のメインイベントでグーカン・サキとの7年ぶりの再戦が発表されると共に、この試合を最後にバダ・ハリがキックボクシングを引退してアメリカでプロボクシングに転向することが正式発表された。また、2011年10月29日開催予定のK-1 WORLD GP FINAL16南京大会には参戦予定としたものの、決勝大会にはK-1を主催するFEGがIT'S SHOWTIMEおよび他の選手へのファイトマネー未払いを清算しない限り参戦しないことも表明した。結局、K-1南京大会は中止となった。2012年1月28日、IT'S SHOWTIME 54 & 55にて自身のキックボクシング引退試合でグーカン・サキと7年ぶりの再戦。1R決着を予告していたバダは、宣言通りの1Rノックアウト勝ちを収めた。試合後に発表されたコメントで「キックに戻ってくることは決してない。もう、キックでは闘志を炊きたてられるものがないんだ。これからの人生をボクシングのリングで築きあげ、夢を実現させたい。第一章は終り、次の戦いの幕が上がるんだ」と語っていた。ボクシング転向のため、元4団体統一世界ミドル級王者ならび現WBC世界ライトヘビー級王者バーナード・ホプキンスや元3階級制覇王者シェーン・モズリーらを指導しているナジーム・リチャードソンがバダ・ハリのボクシング・トレーナーとなった。バダがキックボクシングを引退した理由の一つが、K-1の主催会社FEGの選手へのファイトマネー未払い問題だったが、2012年にK-1の主催会社がFEGから「K-1グローバルホールディングス」へと変わって大会が開催されていくこととなり、新生K-1第一弾大会となる2012年5月27日にマドリードで開催の「K-1 WORLD MAX 2012 K-1 RISING!」に参戦することとなった。2012年5月27日、新生K-1第一弾大会であるK-1 Rising 2012 ~ K-1 World MAX Final 16 ~ in Madridにて、アンダーソン・ブラドック・シルバと対戦し、1Rにダウンを奪うが、その後は2R途中から、そして3Rとシルバの反撃を受け失速。苦戦を強いられたが判定勝ち。2012年10月14日に開催されたK-1 Rising 2012 ~ K-1 World Grand Prix 2012 Final 16に出場予定だったが、合計6件の暴行殺人未遂罪と放火罪で逮捕されたため、欠場となった(後述)。2012年11月9日、一時的に仮釈放されたが、その3日後の11月12日に再逮捕される。以前、被害者と接触し事件のもみ消しを行った前科や被害者や目撃者の脅迫・暴行の可能性などから『被害者・目撃者との接触の禁止』『レストラン、クラブなどの出入りが禁止』等が仮釈放の条件として出されていたが、それを守らなかったため再逮捕された。2013年1月22日に、「バダ・ハリ本人が事件に対して全て自供し、認めているため拘留したまま取り調べを続ける理由がなくなった」という理由から、再び仮釈放された。今後は開かれる裁判にその都度出廷する予定となった。2013年3月15日、K-1 World Grand Prix 2012 Final 8のトーナメントに出場し、準々決勝でザビット・サメドフと対戦。1Rにバダがサメドフの金的を蹴り上げてしまい、その後も金的のダメージによりサメドフが失速するアクシデントがあったがダウンを奪い判定勝ち。準決勝へ駒を進めたが、バダはこの試合で負傷したため同日の準決勝を負傷棄権した。2013年5月25日、Legend Fighting Showにてザビット・サメドフと再戦。1R早々にサメドフのラッシュでグラつき、そのまま膝蹴りを打った際に倒れてしまう。サメドフはダウンと確信して手を突き上げるが審判はダウンを取らず続行。その後は一進一退の攻防となるが、1R後半にクリンチの離れ際にサメドフに左フックを受けてダウンを奪われた。2Rに入るとガードを固めるサメドフに左右のフックの連打をするが、打ち合いの中でサメドフの右アッパーと左フックを受けて再びダウン。その攻撃でバダは試合放棄し、座ったまま立ち上がらずKO負け。サメドフにリベンジを許した。2005年12月、IT'S SHOWTIMEのCEOでバダのプロモーターであるサイモン・ルッツの妻の友人家族がストーカーの被害を受けており、ルッツが話をつけるためにバダを連れてストーカー犯の家を訪問したものの、居留守を使われて話に応じなかったため、バダ・ハリが玄関を蹴破って中に押し入り、相手に“ 分かるように教えた”という。この時、相手の男は一旦非を認めて謝罪したが、後に警察に通報したため、ルッツとバダは逮捕された。警察も情状は酌量したものの、格闘家であるバダの暴行を問題視し、4週間の拘置と出所後の地域社会奉仕活動を義務付けられた。その後のグラハム戦の敗因は「オランダで色々なことがあって、コンディションが最悪だった」とK-1公式サイトにて語っている。2008年5月頃、バダと肉体関係を持った女性の自宅をバダとバダの友人が放火する事件を起こし、バダも関係者として警察から事情聴取を受けた。そのため、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAの前日のすぽると!で平井理央にインタビューされた際には「正直言って今回は練習不足だ」と告白している。2010年3月25日、2月にアムステルダム市内のナイトクラブで起きたドアマンへの集団暴行事件の容疑者として取調べを受けていると報じられた。ドアマンは集団暴行を受け目の周りを骨折し失明する可能性が高いという重傷を負った。、また、オランダのマスコミからは「目撃者も多数」との報道がされた。同年4月3日のK-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAの大会後には2月の暴行事件について自ら暴行容疑を否定し、また、報道において事件の目撃者として挙がった人間はバダ・ハリやその仲間からの報復行為を恐れて、証人として名乗り出なかったため、証拠不十分として釈放となった。同年6月4日、同事件に関与していたとされるバダ・ハリを含めた4人のうち二人が逮捕、一人が自首し、残るバダにも警察が再び事情聴取しようとバダの自宅に来たところ、不在の本人に代わってバダの弁護士が「水曜日に彼を出頭させる」と約束したにもかかわらず、バダが出頭せずに逃走したため、「オランダ警察がバダ・ハリを指名手配した」と報道された。また、同年6月8日、IT'S SHOWTIME公式サイトで、バダが暴行事件についての出頭要請を無視している件について「我々もバダと連絡が取れない状態」と発表された。その後、上述にあるように、当初の予定通り休暇を兼ねてモロッコに滞在し、10月下旬にオランダへと戻って11月21日に裁判を受け、証拠不十分として仮釈放された。なお、のちに被害者のドアマンはバダ・ハリが再度接触してきたことを明かし、ドアマンに2万ドルの口止め料を支払うことを約束し、その見返りに「警察に不利な証言をしないこと」という条件を持ちかけてきた、という出来事があった事をテレビチャンネル・AT5に暴露した。その後は、警察側の新たな動きは無く、事件は進展を見せなかったが。のちの殺人未遂の事件でハリが逮捕された際に、この事件についてもバダ・ハリ自身が認める発言をしている。2012年6月、オランダの雑誌において、サッカー選手ルート・フリットの別居中の妻であり、ヨハン・クライフの姪である女性とバダ・ハリが不倫交際していると報じられた。両者の間には既に子供も生まれている。2012年7月7日、アムステルダムの年次祭りでVIPボックスにいた実業家の男性に対し、バダの仲間が被害者を地面に叩きつけた後にバダ・ハリが「地獄に落ちろ!」と怒鳴りながら足首を強く何度も踏みつけて足首を粉砕骨折させ、さらに頭部を殴り顔面を骨折させたため、殺人未遂罪で逮捕。被害者2人のうちの1人の男性は一生歩けないという歩行障害を負った。なお、事件翌日にも関わらずバダは不倫交際中であるルート・フリットの妻と共にバカンスで海外に出かけるが、この時点では証拠不十分で警察は出国禁止にできず、バダは予定通りバカンスに出かけた。そして帰国後バダ・ハリは警察の要請にしがたい出頭し、暴行殺人未遂容疑で逮捕された。さらに、この事件が明るみになった際には、バダ・ハリが2011年にアムステルダムのナイトクラブ『Air』のオーナーに暴行を加え、顎の骨と歯を折った暴行事件についても告発されることとなる。被害者のオーナーはバダ・ハリから圧力を受けていたため、『二度と来店しないこと』を条件に告訴しないとしていたものの、今回の事件を機に告発することを決めた、と語った。さらに上記2件の暴行殺人未遂容疑で逮捕・拘留されている間に、過去に起こした数々の事件のうち、妊娠中の女性の自宅に放火をした容疑を含む4件の事件に関与していたことを認めた。バダ・ハリの担当弁護士は「現段階では最低数年の刑務所生活になることは間違いない。余罪次第では10年の実刑判決が下される見込み」とコメントしている。2012年11月9日に、「バダ・ハリ本人が事件に対して自供しためこのまま拘留しておく必要がなくなった」という理由から、以前被害者達と接触されて手を打たれた事がある警察は『被害者、目撃者との接触の禁止』『レストラン、クラブなどへの出入り禁止』を条件にバダ・ハリを仮釈放した。しかし、それを守らずに不倫交際中の恋人とレストランにいたところを目撃され、仮釈放から僅か3日後に再逮捕された。2013年1月22日に仮釈放された。今後に開かれる裁判に出廷することが決まっている。それ以外にもクリスティアーノ・ロナウド、カリム・ベンゼマ、フランク・リベリーらとの数多くのプライベートショットがネット上にUPされている。 バダ・ハリの試合を見に来たディエゴ・マラドーナが興奮し、椅子の上に乗りバダ・ハリの名を絶叫。試合後バダ・ハリの元へ来て写真を撮っていった。『sportskeeda』によれば、モロッコに在住しているバダ・ハリに会うためにロナウドは定期的にモロッコを訪れているそうで、それに対するレアル・マドリーの懸念は増しているとのこと。ロナウドは練習終わりにモロッコへと飛んだ後、その日のうちにマドリッドに戻り、また次の日の練習に参加という生活を送っているらしく、レアル・マドリーの首脳陣は、このあまりに頻繁な行き来がピッチ上のパフォーマンスに影響しているのではないかと懸念しているという。地元スペイン紙は両者の関係に批判的だそうで、『El Mundo』などは「論争の的になっている」ともしているそう。
出典:wikipedia
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