大友 工(おおとも たくみ、1925年2月19日 - 2013年4月12日)は、兵庫県出石郡出石町(現・豊岡市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。の登録名は大友 工司(おおとも こうじ)。旧制大阪逓信講習所を卒業後、神戸中央電信局に電信技師として就職。第二次大戦中は応召されて電信兵となり伍長まで昇進するが、内地勤務であったことから無事に終戦を迎えた。戦後は故郷に戻り、一時は炭焼きをして生計を立てた時期もあった。その後、但馬貨物で軟式野球をプレー。秋の全国車輛軟式野球大会の近畿大会でベスト4まで進出する。その速球が関西のアマチュア野球界の重鎮であった本田竹蔵の目に止まり、本田が当時二軍を作ろうとして選手を集めていた読売ジャイアンツの球団代表であった宇野庄治に紹介して、5月に巨人へ入団する。巨人入団後、これまで軟式球しか握ったことがなかったため硬式球に慣れるのに苦労する中で、投法をサイドスローに変更。これは意図的な転向ではなく、変化球の威力を増すためでもなかったという点が変わっている。実際には、直球の球威を増そうとして投球時のステップを出来るだけ広げようとした結果、自然に身体が右へ傾くようになり、サイドスローになった。本人によれば「身体を傾けて上から投げている感じだった」という。1年目は制球力に課題がありその年からできた二軍暮らしとなるが、既にブルペンでは当時のエース格であった別所毅彦・藤本英雄に勝るほどの速球を投げていたという。翌春先に一軍に昇格するが、成績を残せず6月に二軍に落とされる。イースタンリーグでは好調でたちまち10勝を重ねると、9月に再び一軍に呼ばれ終盤に4勝を挙げる。にスライダーを会得したこともあって、11勝4敗、防御率2.41(リーグ3位)と3年目で巨人の主戦投手となる。には松竹ロビンスを相手にノーヒットノーラン達成するなど17勝を挙げ、防御率も2.25とリーグ4位に入った。には春季キャンプで右肘を痛めたことからランニング中心のトレーニングを行ったところ、シュートの制球力が改善し、スライダー・シュートのコンビネーションで投球を組み立てることができるようになり、投球の幅が広がった。シーズンでは27勝6敗、防御率1.85で最優秀防御率、最多勝利、最優秀勝率の投手三冠で沢村賞・ベストナインを獲得し、さらには最高殊勲選手にも選ばれるなど個人タイトルを総なめにした。また、日本シリーズでは完封を含む2勝を挙げ最優秀投手賞を獲得する。オフシーズンには日米野球で来日したニューヨーク・ジャイアンツとの試合を1失点で投げ抜き、日本人投手として初めてメジャーリーグ球団相手に完投勝利を挙げた。メジャーリーガー達から「地面から浮き出す球は打てない」と驚かれ、監督のレオ・ドローチャーからもメジャーで十分通用するので連れて帰りたいと言われたという。も21勝、防御率1.68(リーグ2位)を記録する。敗戦数が少なく、別所毅彦・中尾碩志・安原達佳などがいた当時の巨人投手陣の中では最も安定度の高い投手である。に30勝6敗、勝率.833を挙げ、2度目の最多勝利と最優秀勝率を獲得したが、30勝以上かつ敗戦数が一桁であった投手は2リーグ分裂後は大友を含めて3人のみであり(の稲尾和久、の杉浦忠)、セ・リーグでは大友のみである。また、この年の6月12日の大洋ホエールズ戦(後楽園)では当時のプロ野球タイ記録の15奪三振を記録している。4月22日の阪神タイガース戦(後楽園)で大崎三男から利き腕である右手の親指に死球を受け骨折。全治2ヶ月の重傷で、6月下旬には復帰するが、この死球禍によって以前の制球力と球威が失われ、この年は12勝に終わる。は開幕戦で完封勝利するが、右膝に水が溜まり、右足首を捻挫するなどの故障もあって投球フォームを崩して全く勝てなくなり、自ら志願して二軍に降格する。8月中旬に一軍に復帰してペナントレース終了までに3勝するが、シーズンを通して5勝、防御率3.89の成績にとどまった。はわずか2勝に終わるが、西鉄ライオンズとの日本シリーズでは初戦で勝利投手になるなど4試合に登板、巨人が王手をかけていた第5戦では稲尾和久にサヨナラ本塁打を浴びている。は登板機会がなく、日本シリーズの前に南海ホークスのエースであった杉浦忠対策として打撃投手を務めた。同年オフに10年選手制度により、かつてのチームメイトであった千葉茂が監督を務めていた近鉄バファローに移籍する。は登録名を大友 工司(おおとも こうじ)に改めるが、1勝に終わり同年で現役引退した。チーム創成期の広島カープに滅法相性がよく、18連勝の後1敗を挟んでさらに12連勝、7年間で41勝3敗、防御率0.93の記録が残っている。引退後は近鉄の二軍投手コーチ()を経て、中日で二軍投手コーチ( - , )・一軍バッテリーコーチ()を務めた。その後は花島電線(現在の日立マグネットワイヤ)に勤務。1987年には吉友商事を設立し、東京ドームでキャラクターグッズの販売業を営んだ。2013年4月12日、急性白血病のため死去。。小柄な体格で、しかもサイドスローでありながら、当時の球界を代表する速球投手であった。日本プロ野球史上、直球のみで打者を牛耳ることの出来たサイドスロー・アンダースローの投手はほんの一握りしかいないが、大友はその一人であった。当時球速では金田正一と大友が双璧をなしていたが、金田も「大友さんの球が一番速い」と一目置いていたという。その投球の威力は、当時の正捕手であった広田順が取り損なった際に、キャッチャーミットを填めた左手の指を骨折させてしまうほどであった。その剛速球のほかに、長い中指を利用した右打者の外角へ鋭く曲がりかつ伸びるスライダー、内角を捻れるように抉るシュートを武器とした。全盛期には、投球の際の身体を倒す角度で、スリークォーター・サイドスロー・アンダースローと投げ分けたという。筋骨隆々の力持ちで、金太郎あるいはキングコングのイメージから、二軍時代につけられたニックネームのキンさんと巨人OBの間では呼ばれていた。野球評論家の三宅大輔は、真面目で、勤勉で、熱心で、不言実行派で、そして慢心しないという、野球選手として最も望ましい性格と評した。いつもニコニコしており優しい性格で、エースでありながら驕ったところがなく、ほかの選手との距離がなかった。晩年は不調になると自ら志願して二軍に行ったが、元エースであったことに拘らず、多摩川グランドで若手選手相手に打撃投手やノッカーを務めていたという。に王貞治がハンク・アーロンの本塁打世界記録(755本)に迫っていた頃、王の自宅の前にはマスコミやファンが押しかけ、空き缶や空き瓶を飲み散らかしていた。当時、近くに住んでサラリーマンをしていた大友は、仕事の帰り道に必ず王の家の前に寄り、ゴミを片付けて帰っていたという。
出典:wikipedia
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