旧制広島高等学校(きゅうせいひろしまこうとうがっこう)は、1923年(大正12年)12月に設立された官立の旧制高等学校。略称は「広高」(ひろこう)。設立時以来、校地は広島市皆実町三丁目(現在は同市南区翠一丁目内)に位置していた。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月には1年生が日本製鋼所広島製作所に動員されたため寄宿舎である薫風寮も同所内の寄宿舎に移転され、広高内の両者は陸軍に接収された。翌8月6日の原爆被災に際しては、校舎は全焼は免れたものの、全半壊あるいは大破して使用不能となり、また市内が全滅したため1946年(昭和21年)2月までに薫風寮も含め広島県佐伯郡大竹町(現在の大竹市)の海軍潜水学校校舎に移転した(大竹校舎)。生徒たちは街頭に立って旧校地移転のための募金運動を展開し、1947年(昭和22年)10月には主要校舎が復旧したため皆実町校地への復帰が開始され、1948年(昭和23年)3月までには完了した。新制移行後は広島大学皆実分校(教養部)の校地として継承されたが、1961年(昭和36年)、教養部が東千田町(当時の本部キャンパス)に移転するのと入れ替わりに、本部キャンパスからは広島大学附属中学校・高等学校が移転(さらに64年には同附属小学校が移転)、現在に至っている。また、寄宿舎だった薫風寮は、新制移行後の広島大学の学生寮の1つとして名称が継承され、旧制広高所在地に近い広島市南区出汐の広島陸軍被服支廠跡地に所在したが、広島大学キャンパスの東広島市移転で廃寮となった。広高を記念するモニュメントとしては、広島城南西の中央公園に「広高の森」の碑、また被爆死した広高教授で歌人・国文学者でもあった中島光風の歌碑が建てられている。広高の講堂(冒頭画像参照)は、1927年1月に竣工したRC造平屋建(一部2階建)の建造物である。原爆被災時には爆心地から2.69㎞の位置にあり、講堂自体の被害は軽微であった。戦後、新制広島大学への移行に際しては、同校が母体となった広大教養部(現・総合科学部)の施設としてそのまま使用された。その後1961年、教養部との校地交換によりそれまで本部(東千田)キャンパス(当時)に立地していた広大教育学部附属中・高校が移転してくると同校の講堂となり、2014年現在に至るまで現役の施設として使用されている。1998年には登録有形文化財に指定され、広大キャンパス内の多くの被爆建造物が取り壊し、あるいは(旧理学部1号館のような)放置の運命をたどるなか、例外的な存在となっている。1945年(昭和20年)8月6日原爆被災時に大部分の広高生は勤労動員先におり、皆実町の校地では運動場の一角に航空輸送隊、寮の一部には数人の通信兵が駐屯していた。そして教官2名ずつが交代で寮で防衛宿直に従事していた。学生は文科の二年生のみが進級後に断続的な講義を受けていたが、次々に徴兵されたため、当日の朝礼には20人足らずの者しかいなかった(このことが、結果的にみて原爆による被害を抑えることとなった)。 原爆炸裂により校内の建物は大きく損傷、鉄筋コンクリート造の講堂・図書館・化学教室は窓などの損傷に止まったが、木造校舎・雨天体操場・銃器庫・食堂などは半壊し使用不能、寮はほとんど全壊という状況であった(しかし火災は発生しなかった)。日本製鋼所での動員作業に従事していた一年生は、6日当日がちょうど休電日だったこともあって外出許可が認められていたため、市内の自宅や外出先で被爆した。原爆による死亡者は即死または数ヶ月以内に死亡した者だけで教職員が3名、一年生が22名、二年生が2名、学年不明者が4名、計27名である。
出典:wikipedia
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