九四式軽装甲車 TK(きゅうよんしきけいそうこうしゃ -)は、1930年代前期に開発された大日本帝国陸軍の装甲車(装甲牽引車)。九四式軽装甲車は、元々は最前線で弾薬等の危険物を運ぶ牽引車として開発され、物資を積載し牽引する専用トレーラーとして、九四式三/四屯被牽引車(750kgまで搭載可能)が同時に採用された。日本陸軍は1930年(昭和5年)にイギリスからカーデン・ロイド豆戦車 Mk.VIを輸入し、翌1931年(昭和6年)3月から10月まで、歩兵学校および騎兵学校による、各種試験を行った。結果、「直接の戦闘には向かないが、燃料・弾薬等の輸送の他、索敵、警戒、指揮などに適性が見出せる」と高く評価され、歩兵・騎兵いずれも、戦車隊や装甲車隊の補助車輌としての使用を求めた。そこでカーデン・ロイド豆戦車 Mk.VIを参考に、1932年(昭和7年)に陸軍技術本部にて原乙未生により設計が開始され、1933年(昭和8年)に「TK(TK車)」が開発された。秘匿名称(試作名称)の「TK」とは「特殊牽引車」の頭字語である。また「ホ号」とも称した。1934年(昭和9年)に本体は「九四式装甲牽引車」、トレーラーは「九四式四分の三屯積被牽引車」として仮制式化された。牽引車として採用された本車だが、出来上がってみると非常に使い勝手のよい豆戦車(タンケッテ)となった。参謀本部もこれに目をつけ、呼称を「装甲牽引車」から「軽装甲車」に変更するよう命じた。11個の師団に軽装甲車訓練所が新設され、機甲兵器普及の母体となった。1937年(昭和12年)に支那事変(日中戦争)が勃発すると、本車も八九式中戦車(イ号)と共に機甲戦力として戦場に送られ、独立軽装甲車中隊が編成された。これらの部隊には戦車部隊と同じような任務が与えられることが多かった。非常に小型の車両であったため、戦車としては非力な面もあったものの、簡易な支援態勢でも運用することが可能であった。専用のトレーラーでなく通常のトラックにも搭載でき、また工兵の支援や戦車橋がなくとも丸太2本を渡せば渡河ができるなど、歩兵部隊への追随には非常に好都合だった。設計上の特徴として溶接構造の採用と、サスペンションへの関連リンク方式の採用が挙げられる。後者は、原乙未生による考案で、2つの車輪を連成懸架(ボギー式)して一組にし、それを前後に二組並べて横ばねで繋げ衝撃を吸収するものである。本車での実用結果、成功と判定されて九五式軽戦車(ハ号)や九七式中戦車(チハ車)などにも採用され、以後の国産機甲兵器の代表的なサスペンション形式となった。武装は戦闘車両としては最低限の九一式車載軽機関銃1門を砲塔(銃塔)に持つのみで、本来は自衛用だった。後に新型の九七式車載重機関銃に換装された。車載機関銃は、砲塔の銃架から取り外して、二脚架を取り付け、車外で使用することができた。しかしながら、機銃手の肩の力による人力旋回方式とはいえ、砲塔形式を採用した事により、使い勝手が良く、これは参考にしたカーデン・ロイド豆戦車や、各国の豆戦車と比較して、本車の長所として特筆されるものである。他に、砲塔と車体の各部にピストルポート(拳銃を撃つための穴)が設けられ、近接攻撃を仕掛けてくる敵兵に対応した。装甲は歩兵が持つ小銃実包の弾丸に貫通されない最低限の性能(厚さ8~12mm)として設計された。なお、本車は名称こそ軽装甲車であるが、九二式重装甲車よりも装甲は厚い。しかし実戦においては中国軍の持つ7.92mm弾仕様のモーゼル式小銃のような強力な小銃により、命中弾の破片が車内に飛び込んだり、場合によっては破損や貫通の被害を受けてしまった。ましてや37mm対戦車砲のような対戦車兵器の前には全くの無力で、後述の南京攻略戦のように大きな損害を出すこともあった。それでも、日中戦争では中国側が対戦車兵器を有効に活用しなかったため、戦車のような活躍ができた。本車は、変速装置と起動輪(スプロケットホイール)が車体前方にある前輪駆動方式であり、空冷直列4気筒ガソリンエンジンは車体前部左側にあり、消音器(マフラー)は戦闘室左側面に1つ配置された。乗員は2名であり、車体前部右側の操縦手席に操縦手が座り、車体後部の戦闘室と砲塔に車長兼機銃手が立つ。操縦手席上面と砲塔上面には前開き式の乗降用ハッチが設けられていた。車体後面には、戦闘時に使用する、右開き式の大型乗降用扉が設けられていた。実戦経験の結果、九四式軽装甲車の欠点として、次のようなことが指摘された。これらの欠点を解決すべく、後継の九七式軽装甲車(テケ車)が開発された。前述のように本車は主に日中戦争において活躍した。その中でも特に本車が表に立った戦闘を紹介する。九四式軽装甲車の生産は1940年(昭和15年)をもって終了したが、不要になったわけではなく、九七式軽装甲車が配備されるまでの繋ぎ、あるいは後方の治安部隊の警備車輌などとして使われ続け、師団の捜索連隊などに配備された。機甲戦力の不足していた日本軍では貴重な車輌であり、海軍陸戦隊にも供与されている。太平洋戦争(大東亜戦争)後期のレイテ島の戦いでは、アメリカ軍の上陸用舟艇に対し、偶然浜辺を走っていた2輌の本車が銃撃を加えた記録が残っている。大戦最末期の1945年(昭和20年)においても、沖縄戦に参加した写真があり、本土決戦用の戦力としても依然存在していた。国外では中華民国南京政府の中央軍官学校にも供与されていた。本車の生産は、1934年(昭和9年)の制式採用後、直ちに始まり、1935年(昭和10年)に300輌、1936年(昭和11年)に246輌、1937年(昭和12年)に200輌、以後は絞られ、1940年(昭和15年)の2輌、計843輌、で終了した。広く普及した本車には、多様なバリエーションが存在する。一部は通常型の生産終了後も生産された。北京坦克博物館とクビンカ戦車博物館に初期型が、オーストラリア戦争記念館()とイギリスに後期型が、それぞれ1両ずつ展示されている。台湾の に1両があります。
出典:wikipedia
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