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中城ふみ子

中城 ふみ子(なかじょう ふみこ、1922年(大正11年)11月15日〈戸籍上は11月25日〉 - 1954年(昭和29年)8月3日)は、日本の歌人。北海道河西郡帯広町(現・帯広市)出身。本名は野江富美子。妹の野江敦子も歌人。中城は離婚した夫の姓。戦後の代表的な女性歌人の一人で、後進に大きな影響を与えた。河西郡帯広町(現・帯広市)にて、魚屋を営んでいた野江豊作・きくゑ夫妻の長女として生まれた。北海道庁立帯広高等女学校(現・北海道帯広三条高等学校)を経て、東京家政学院(現・東京家政学院大学)卒業。在学中に池田亀鑑の指導を受けて短歌を始める。故郷に帰ったふみ子は、1942年(昭和17年)、20歳のときに北海道大学工学部卒で国鉄に勤務していた鉄道技師の男性と見合い結婚。3男1女を出産する。しかしふみ子の結婚生活は幸福なものではなく、所長に栄転していた夫は汚職に関与し左遷され、香川県高松市の鉄道管理局に転じたほか、女性問題(妾)も発生するなど、生活は乱れていった。ふみ子はその傍らで学生時代以来の短歌を1946年(昭和21年)から再開し、小田観螢主宰の歌誌『新墾』への投稿を始める。その後子供たちを抱えて帯広へ帰郷し、1951年(昭和26年)に夫と協議離婚。短歌の会で知り合った若者・大森卓と恋人関係になるが、大森は結核で死亡した。東京での就職を志すが、果たせず帰郷。帰郷間もない1952年(昭和27年)、乳がんと診断され、左乳房の切除手術を受けた。だがすぐに再発転移していることがわかり、妹の嫁ぎ先である小樽に身を寄せて札幌医科大学附属病院で放射線治療を始め、片方の乳房を切除した。1953年(昭和28年)、『潮音』同人となり、翌年には札幌在住の歌人らと『凍土』を結成した。その1954年(昭和29年)にがんが再発し、2月に肺臓への転移を宣告された。ふみ子は同年4月、第1回『短歌研究』50首詠(後の短歌研究新人賞)へ「冬の花火――ある乳癌患者のうた」を応募し、編集者の中井英夫に見出され特選となった。中井の考えにより雑誌発表時は「乳房喪失」の題で、50首全部が掲載された。乳がんによる乳房切除手術にゆれる女の情念を詠った大胆な表現は、歌壇に大きな反響を呼んだ。これを受け、同年6月にも同誌に新作の「優しき遺書」30首が掲載された。同月には角川書店の雑誌『短歌』に川端康成の推薦の辞が付されて「花の原型」50首が掲載されたが、この「花の原型」掲載は、ふみ子が直接川端に依頼し実現したものだった。同年7月1日、川端の序文を付けた処女歌集『乳房喪失』を作品社より刊行。ふみ子自身はこのタイトルに反発していたが、中井の強い主張に最終的には折れた。『乳房喪失』は歌集としては異例のベストセラーとなった。同年7月29日、病状が悪化し中井英夫が北海道へ飛び見舞う。この時にふみ子は中井を待たせて化粧してから面会している。しかし中井が帰京した翌々日、ふみ子は8月3日に病死した。まだ31歳の若さだった。ふみ子の没後、川端の編集により遺歌集『花の原型』が出版された。ふみ子の作品の主要テーマは恋愛と闘病であり、大胆な身体描写、性愛の表現は当時の歌壇では賛否両論であった。評者の道徳観を押し付けるような作品批判を受ける一方、五島美代子、葛原妙子、長沢美津ら『女人短歌』(女性歌人による超結社集団)のメンバーからは擁護された。近年は我が子をテーマにした歌も注目されている。また、表現技法の点では、葛原や森岡貞香からの影響が指摘されている。寺山修司はふみ子の短歌に衝撃を受けて自らも短歌を詠み始め、ふみ子受賞の次回度に短歌研究50首詠を受賞した。ふみ子の生前に病室を訪れて取材した『時事新報』記者の若月彰により1955年(昭和30年)に評伝『乳房よ永遠なれ』が書かれ、10万部が売れるベストセラーになった。同年中にこの評伝を原作とする映画『乳房よ永遠なれ』(日活、田中絹代監督、月丘夢路、葉山良二主演)が制作・公開され、ふみ子の名は広く知られることになった。また川端は小説『眠れる美女』にふみ子の『乳房喪失』の歌の「不眠のわれに夜が用意しくるもの蟇、黒犬、水死人のたぐひ」を引用し、渡辺淳一はふみ子をモデルにした小説『冬の花火』を書いている。歌集文献目録伝記・評伝・作品作家論小説

出典:wikipedia

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