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大河内氏

大河内氏(おおこうちし)は、摂津源氏源頼政の孫源顕綱に始まる一族である。室町時代には三河吉良氏に家老として仕え、江戸時代の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となって以後は大河内松平家という。大名・旗本として複数家あり、知恵伊豆と称された老中松平信綱などを輩出した。明治時代に入り、大河内姓に復した。源顕綱(1179年~1230年)は、治承4年(1180年)の以仁王の乱で祖父頼政と父兼綱が討たれると、母と共に三河国額田郡大河内郷(愛知県岡崎市大平町(額田郡西大平村大平村)大河内、現在の東名高速道路の岡崎インターチェンジの辺り)に落ち、大河内氏を称した。しかし、大河内氏の初期段階の動向・系図には不明な点が多く、顕綱も信頼性のある資料に見えていないことから仮冒であるとする説もある。承久3年(1221年)の承久の乱の戦功により、足利義氏が守護職に補任されて三河に入ると、大河内顕綱は義氏の被官とり、その子大河内政綱(政顕)もまた足利泰氏に従ったとされる。その後、大河内氏は足利氏一門で三河の名族吉良氏の家老となり、幡豆郡の寺津城を拠点とした。吉良氏の所領である遠江国引馬荘(静岡県浜松市)の代官となった一流があり、戦国期に大河内貞綱は遠江守護職の斯波氏と結び、侵攻する今川氏に執拗に抵抗した。12代大河内秀綱は初め吉良義昭に仕え、三河一向一揆では主と共に徳川家康に敵対したが、義昭の没落後は家康に属した。慶長年間に鹿沼で代官をつとめている。天正15年(1587年)、秀綱の二男正綱が家康の命で長沢松平家庶流の松平正次の養子となり、旗本として出世の後、元和3年(1617年)に相模玉縄藩2万2000石の大名となったことから、この子孫は大河内松平家と呼ばれる。正綱の兄大河内久綱の子で正綱の養子となった松平信綱は、3代将軍徳川家光の小姓から老中に進むとともに武蔵忍藩(埼玉県行田市)3万石・同川越藩主(同県川越市)6万石と加増され、島原の乱や慶安の変の鎮圧などで活躍した。江戸時代には大名家として三家があった。玉縄藩は松平正綱の長男正信が相続し、その孫正久のときに上総大多喜藩に転じた。松平信綱とその子孫は代々「松平伊豆守」を名乗り、下総古河藩・三河吉田藩と移りながら老中を何人か輩出した。信綱の五男信興は下総土浦藩に封ぜられ、養子輝貞からは上野高崎藩主として幕末に至った。なお、近世以前に分かれた一族の別系に、代々「大河内善兵衛」を称した旗本があった。明治以後は大河内氏に復し、大名の三家は子爵家となった。末裔には理化学研究所の所長も務めた物理学者の大河内正敏がいる。家紋は、伊豆守家の正紋が外に丸の付いた臥蝶に十六菊(ふせちょうにじゅうろくきく)(通称、伊豆蝶)、替紋が扇の骨が弓なりになった三ツ扇(みつおうぎ)である。また、分家の上野高崎藩(群馬県高崎市)の家系(右京大夫家)の正紋は扇の外周がギザギザの三ツ扇で高崎扇と呼ばれ、この形を基盤に高崎市立の高崎経済大学の学章ができた。右京大夫家では丸の無い臥蝶に十六菊が替紋となる。大多喜家は、高崎右京大夫家と同じく三ツ扇が正紋だが、扇の外周が丸く骨もまっすぐである。大多喜家の替紋は臥蝶に十二菊である。

出典:wikipedia

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