東京都立鷺宮高等学校(とうきょうとりつ さぎのみやこうとうがっこう)は、東京都中野区若宮三丁目にある都立高等学校。学制改革後の新制高校改組時に共学化され、現在の学校名である鷺宮高校となる。通称は「鷺高」。前身は東京府立高等家政女学校(後に東京都立中野高等家政女学校)。西武新宿線都立家政駅から徒歩3分。隣接する鷺ノ宮駅-野方駅間が1kmもない中、設けられた都立家政駅(当時は府立家政駅)の存在は、旧制中学や旧制高女などの旧制中等教育学校から現在の新制高等学校レベルの学校の中では、日本で最初に通学用に鉄道駅が誘致された学校であり、校名を冠した鉄道駅では全国唯一の学校にあたる。厳密には下記沿革の通り、当校の現在地移転は府立家政駅開業(1937年(昭和12年)12月25日)の後であり、移転計画に伴い新駅設置が先行した。校章の由来については、当時の教諭が「和鋏とチャコとへらの3つを組み合わせてデザインしたもの」と伝えられている。1970年(昭和45年)から15年間本校で教師を務めた本多啓二教諭は、赴任直後に当時殺風景だった学校の緑化に努め、これに同調する多くの生徒が「本多土建」と称して集まり、スコップ、つるはしなどを使って学校の緑化や施設の整備を行い、緑あふれる環境を作った。また、当校では犬を飼い、飼われた犬は「太郎(メス)」その子供の小太郎(オス)、二代目「太郎」の3匹である。初代「太郎」は生徒が拾ってきた犬を本多教諭が引き取り、学校内で飼っていたもの。学校内では原則放し飼い状態であり、朝礼等の学校行事にも参加していた。「小太郎」は校外への放浪癖があり、諸問題から繋がれることが多くなった。2012年(平成24年)7月4日の開校100周年を迎える前後に、大幅な改築が行われる予定。また、現在100周年記念事業を準備中である。定時制は東京都立稔ヶ丘高等学校へ統合のため2007年(平成19年)度より募集停止(補欠募集のみ)、2010年(平成22年)3月をもって廃止された。サッカー部は、1973年(昭和48年)の新人戦(第16回関東大会東京都予選)にて、決勝で当時最強の帝京高校(古沼監督:全国選手権東京代表7連覇中で(前年、前々年には連続して全国3位)、翌1974年(昭和49年)全国初優勝)を2-1で破り東京都第一位となり、藤沢市で開催された関東大会東京都代表となる(強豪古河一高(1978年(昭和53年)・1980年(昭和55年)全国優勝)に0-0、延長戦で惜敗)。勢いに乗りインターハイ東京都予選に臨むが規則により不戦敗(先生が来なかった)。続く全国選手権東京都予選にて再び帝京高校と対戦するが広瀬龍(現帝京高校監督)を擁する同校に苦杯をきっする。なお、学校群制度導入時(1967年(昭和42年) - 1981年(昭和56年)実施)における都立高校の東京代表は、サッカーにおける本校(1973年(昭和48年))と野球の国立高校(1980年(昭和55年))のみである。文化部では後述の軽音楽部のほか書道部が盛ん。書道部の文化部特別推薦枠を推薦入試において設けている。鷺宮高校の軽音楽部は1969年(昭和44年)に岡井大二らが軽音楽同好会として創設。1970年(昭和45年)に70年代のの一人、森園勝敏率いる「クリープ」が学園祭等でクリームの完コピを演奏している。森園勝敏は後にディープ・パープル1975年(昭和50年)来日公演、エリック・クラプトン1977年(昭和52年)来日公演及びレインボー1978年来日公演のオープニングアクトを務める。現在の軽音楽部は130名以上の部員が在籍。近年では、日本テレビで放送されている高校生バンド日本一を決める番組「音燃え!」に数組の同校生徒によるバンドが出演、中には優勝したバンドもある
出典:wikipedia
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